説教「うれしいお知らせ」

2023年12月24日、大塚平安教会

「降誕前第1主日

                      

説教・「うれしいお知らせ」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書7章10~14節

   ルカによる福音書2章8~20節

賛美・(説教前)讃美歌21・441「信仰を持て」

   (説教後)賛美歌「生きて愛して祈りつつ」

 クリスマスおめでとうございます。今年は久しぶりにこちらの教会のクリスマス礼拝の講壇に立たせていただき、感謝し、喜んでおります。2010年3月にこちらの教会を退任しましたので、その後13年を経ております。10年を一昔と言われますので、昔から今に至りますのは、いろいろな変化があり、教会にしても幼稚園にしても、私が存在していた昔の姿ではありません。新しい時代の教会であり、そこにお招きをいただいているという喜びであります。30年間、こちらの教会の皆さんと共に信仰の歩みを導かれたことを感謝しています。いつも大勢の皆さんと歩んでまいりました。そして、その後の歩みは少人数の皆さんと共におりますが、どのような少人数の歩みでありましょうとも、「神さまが共におられる」という喜びを与えられながら歩んでいるのです。2010年に退任した年のクリスマスは横須賀上町教会の皆さんと共にお祝いいたしました。横須賀上町教会には、こちらの教会出身の杉野信一郎先生がお勤め下さっています。私が横須賀上町教会でクリスマス礼拝をささげたとき、小人数でしたが、祝福されたクリスマスの集いでありました。私は教会から離れたとき、いろいろな場で少人数のキリスト者の集いに出会いました。2010年に退任しましたが、翌年の2011年4月、5月にスペインに行き、バルセロナ日本語で聖書を読む会の皆さんと礼拝をささげました。いつも7、8名の皆さんです。さらにスペインの首都マドリッド日本語で聖書を読む会でも礼拝をささげましたが、やはり同じくらいの人数でした。そして六浦谷間の集会を夫婦で開くようになり、基本的には二人だけの礼拝ですが、時には数人の皆さんが出席されるので、少人数ながら祝福された礼拝が導かれています。だいたいからして最初のクリスマスは、全くの少人数であったのです。マタイによる福音書ルカによる福音書の合成したクリスマスを考えても、お生まれになったイエス様を礼拝したのはマリアさん、ヨセフさん、三人の博士さん、数人の羊飼い達さんであったのです。まさに少人数の人々がイエス様を礼拝し、神様のお約束の成就をいただき、喜びに包まれたのでした。神様のお約束とは、私たちがイエス様のお導きにより、日々喜びを与えられて生きることです。本日のクリスマス礼拝は神様の「うれしいお知らせ」をいただき、現実を励まされて歩むことなのです。

 神様の「うれしいお知らせ」とは「神は我々と共におられる」ということです。すなわちインマヌエルと呼ばれる救い主がお産まれになったことをマタイによる福音書は証しています。それはマタイによる福音書1章23節であります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と記されています。この言葉は今朝の旧約聖書イザヤ書7章からの引用です。イザヤ書7章は「インマヌエル預言」と言われています。いろいろな困難の中に、「神様が共におられる」ことを示しているのです。

 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」。イザヤ書にはインマヌエルの意味が記されていませんが、マタイがその意味を示しています。「神様が共におられる」という意味であります。神様があなた方と共におられて、この混乱の世の中を、あなたがたの現実を導いておられます、とのメッセージは紀元前700年代に示されたのでした。その後、聖書の人々は大国に支配されるようになり、捕われ人になります。その後、解放されるものの、荒廃した都の中で苦しい生活をするのですが、根底にあるのは「神様が共におられる」との信仰でありました。困難な状況に生きるとき、共におられる神様の導きを信じたのでした。

 「神様が共におられる」信仰は聖書の最初の人、アブラハムからすでに始まっていました。まだ見ぬ国に旅立ったときにも、共におられる神様を信じて一歩を踏み出して行ったのです。その子どもイサク、その子どもヤコブ、そして12人の子ども達において、共におられる神様の導きをいただきながら歩んだのであります。400年の奴隷の時代があったとしても、共におられ神様の導きを信じて歴史が導かれてきたのでありました。奴隷の国から人々を解放したモーセに対してはもちろんですが、その後継者ヨシュアに対しても神様は言われます。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」。この神様の励ましをいただきながら、若きヨシュアは聖書の人々をカナンの土地へと導きました。そのような歴史を持つ聖書の人々です。改めてインマヌエルの導きを示したのが今朝の旧約聖書イザヤ書の「インマヌエル預言」の示しであります。

  旧約聖書のインマヌエル預言を受止めて示しているのはマタイによる福音書であります。しかし、今朝の新約聖書のメッセージはルカによる福音書であります。神様が共におられる現実をルカによる福音書は真実受止め、証ししているのです。マタイによる福音書のクリスマス物語は、イエス様のお産まれになった場所は馬小屋ではありません。むしろ、普通の家のようです。ご降誕を知って駆けつけたのは占星術の学者達であり、黄金・乳香・没薬の宝物をささげたのでありました。もちろん、そこに救いのメッセージが示されているのでありますが、インマヌエル預言を受止めるのは、むしろルカによる福音書なのであります。神様が共におられますとの預言、そして共におられることの喜び、そして喜びが発展していくことを証しているのがルカによる福音書であります。

 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」ので、ヨセフさんもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行きました。身ごもっていたいいなずけのマリアさんと一緒に登録するためでありました。ベツレヘムの町は住民登録をするために各地から集まっていたので、宿屋さんは何処も満員であったということです。そこで、ある宿屋さんの馬小屋で過ごすことになります。そして、その馬小屋でマリアさんは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのでありました。ここにルカによる福音書のメッセージがあります。イエス・キリストが産まれたのは、立派な御殿ではもちろんありません。普通の家でもありません。人間の住むところではない場所、馬小屋という場所でした。そこは馬の出し入れ以外は人が行き来しない場所であります。しかし、だれもがいける場所でもあるのです。しかも、飼い葉桶に寝かされたということにも、ルカの深いメッセージがありました。飼い葉桶は動物の食べる器であります。そこにイエス様がおられるということは、イエス様が神様からの食べ物を私たちに与えるということでした。事実、イエス様は神様のお心、命のパンを人々に与えられたのであります。ルカによる福音書は馬小屋物語を通してインマヌエルの喜びを示しているのであります。今こそ、ここに神様が共におられるのですよと示しているのです。

 ルカによる福音書は、お告げを羊飼い達に示したのでありました。野宿する羊飼い達は、家に帰ることができません。羊を養っての人生であり、人々からは忘れられているような存在でありました。暖かい温もりのある生活は望めないような状況でもあります。だからこそ、そこにインマヌエルの福音が示されていることをルカは証ししているのです。あなたは悲哀に生きているのですか、苦しんで日々歩んでいるのですか、孤独にさいなまされているのですか、そのあなたにインマヌエルの福音が与えられているのですよ、とルカによる福音書は、昔から預言されている祝福の喜びを示し、さらに喜びが発展していくことを示しているのです。

 ルカによる福音書は、他の福音書には記されない人間の悲哀を記しています。一つは「やもめの息子を生き返らせる」出来事です。ナインの町で、一人息子を亡くした母親が、悲しみつつ棺と共に歩いています。イエス様は哀れに思われ、「もう泣かなくても良いですよ」と言い、息子を生き返らせるのであります。そのとき人々は、神様を賛美したのでした。さらに、「善いサマリア人」のたとえ話、「放蕩息子」のたとえ話、「不正な管理人」のたとえ話、「金持ちとラザロ」のたとえ話、「徴税人ザアカイとイエス様との出会い」等、悲哀に生き、悲しみつつ生きていた人々が「うれしいお知らせ」を示され、喜びへと導かれることをルカによる福音書は証言しているのです。私の現実に神様の「うれしいお知らせ」があるのです。神様が私たちと共におられるからであります。

  私と共に神様がおられるのです。この私が現実を神の国に生きるよう、共におられて導いてくださっているのです。その主イエス・キリストが世に現れたことをお祝いすることがクリスマスなのです。神様のお約束の実現、「うれしいお知らせ」をいただきました。私の現実を悲しむ必要はありません。苦しみが続いていると思う必要はありません。インマヌエルの主が、私の現実におられるからです。このクリスマスのしるし、インマヌエルの主と共に新しい歩みが始まったことを喜びたいのであります。「生きて愛して祈りつつ」の私たちです。私の現実にインマヌエル、神様が共におられるのです。その「うれしいお知らせ」は十字架を仰ぎ見ることによって力強く示されるのであります。私が現実をふみしめて歩むためにイエス様が十字架にお架かりなられたのでした。「うれしいお知らせ」です。

<祈祷>

聖なる御神様。うれしいお知らせをいただきました。共に歩んでくださる主の導きにより歩むことを得させてください。主の御名によりアーメン。

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説教「喜びを示される」

2023年12月17日、六浦谷間の集会

「降誕前第2主日

                      

説教・「喜びを示される」、鈴木伸治牧師

聖書・マラキ書3章19~24節

   コリントの信徒への手紙<一>4章1-5節

   ヨハネによる福音書1章19~28節

賛美・(説教前)讃美歌21・231「久しく待ちにし」

   (説教後)賛美歌21・481「救いの主イエスの」

降臨節第三週となり、三本のロウソクが点火されました。主イエス・キリストのご降誕の光が近づいてまいりました。ロウソクでクリスマスの喜びを表すのは現実が暗いからであります。私の暗さの中に主イエス・キリストの光が差し込んできたのです。今週はロウソクは三本ですが、次週は四本になります。待降節を歩むうちにも、私にとって主イエス・キリストの待降とは何か、その意味を問いながら歩みたいのです。

今朝のマラキ書には「義の太陽が昇る」と示されています。「義の太陽」とは神様でありますが、神様が太陽のように恵みと導きを与えることを示しているのであります。太陽は地球に生きる人間を始め、生態系を育んでくれています。その意味でも人間は太陽には深い思い入れがあるのです。ご来光と言い、朝日が昇る瞬間の感動は、美しいとか素晴らしいという思いの中に、生態系を育んでくれる存在の喜びでもあるわけです。世界の人間は太陽の恵みをしっかりと受け止めつつ営んでいるということです。以前、聖地旅行でシナイ山に登りご来光を見ましたし、また富士山にも登り、ご来光を見たことが忘れられません。何かすがすがしい思いを与えられるのでした。

そのような太陽の存在に対して、人間であるが中心的存在になると太陽として崇められることになります。歴史において王様であるとか支配者たちは、しばしば太陽になぞらえています。日本においては天皇が太陽として崇められていました。そのような日本人の姿を示した映画があったことを、ネットで知るようになりました。「太陽」という映画の紹介がありました。この映画は2005年、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督が製作したものです。昭和天皇ヒロヒトを扱った映画であり、日本では公開不可能ではないかといわれていましたが、2006年8月5日に銀座の映画館で公開されたということです。神様が太陽なのであり、人間の太陽はあり得ないということです。今朝はこのさまざまな問題がある社会に、「義の太陽が昇る」事を示され、「喜びを示される」のであります。

 旧約聖書はマラキ書の示しです。3章20節、「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て飛び回る」と示されています。神様の御心をいただき、癒しが与えられ、喜びに溢れると示しているのであります。牛舎の子牛たちは飼い葉桶から豊かに与えられ、飛び回ると示しています。

 マラキ書は旧約聖書の最後に置かれている聖書です。このマラキ書の背景は神様の存在に対して、懐疑的にとらえる人々が多くなってきた状況です。聖書の人々はバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そこで苦しみの生活をすること、約50年と言われます。捕われに生きることを捕囚と称していますが、その捕囚から解放されるのはペルシャの国が強くなり、バビロンはペルシャの前に衰退していくのです。捕囚から解放された人々は都エルサレムに帰り、破壊された神殿を修築いたします。そして、第二神殿が完成するのですが、国民の生活は困難が多く、いったい神様の導き、恵みは何処にあるかと思うようになるのです。そういう社会状況の中で、マラキと言う預言者は、神様の救いを信じて待つように教え導いているのです。そして、神様は昔現れた預言者エリアを再び人々に遣わすと知らせているのであります。

 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリアをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」と神様の御心を伝えています。エリアが現れて、子ども達が父の教えに向かうことを導くというのであります。父の教えはモーセを通して与えられた「掟と定め」です。22節に「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた」と示されています。父たちは「掟と定め」を守りながら神様に導かれてきたのです。「掟と定め」は十戒であり、それに伴う神様のお心にある定めなのでした。人間の基本的な生き方を示しているのが十戒なのであります。この社会の貧困と苦しさの中に生きているあなたがたは、だから神様の導き、恵み等はないと言ってはいけないと教え、神様はあなたがたのために力強い導き手である預言者エリアを再び遣わします、と教えているのです。

 預言者マラキは社会が困難な生活であればこそ、神様の示しを見失うことなく、今こそ神様に立ち返って御心に生きることを示したのでした。私たちが現代に生きるとき、どうしても不安を持たざるを得ない状況であります。特に今は大雨等の災害が多く、復興に取り組んでいます。また、世界で起きている戦争が身に迫っているようでもあります。いろいろな社会情勢、人間の恐ろしい行動、社会的行く末、この先どうなっていくのか不安が重なるとき、神様の導きは何処にあるかと懐疑的に思うことは、実にマラキの時代と重なるのであります。マラキはエリアを遣わすと示していますが、そのエリア的存在が新約聖書においてヨハネなのであります。

  「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』」と自らを紹介したのがヨハネという人でした。ヨハネイエス・キリストより先に現われ、人々に神様のお心を示しながら、後から来られる真の救い主を証したのでありました。ヨハネが人々に現われたとき、人々はヨハネが何者なのか戸惑いました。「あなたはどなたですか」と人々は尋ねます。すると、ヨハネははっきりと自分を示しています。「わたしはメシアではない」と言います。人々は「では何ですか。あなたはエリアですか」と尋ねると、ヨハネは「違う」とはっきり否定します。「それではいったい、だれなのです。あなたは自分を何だというのですか」と人々が尋ねると、ヨハネは「わたしは声だ」と言ったのであります。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」とヨハネイザヤ書40章3節の言葉を自分に当てはめて紹介したのでした。荒れ野で叫ぶ、すなわち荒れ野とは現実の社会であります。現実の社会に失望しており、希望もない、そういう状況はまさに荒れ野でした。この社会、荒れ野の社会に救い主が現われることを、声を大にして告げたのがヨハネでありました。

 このヨハネルカによる福音書によれば、ザカリアとエリサベトの間に産まれた子でありました。彼らは高齢でありましたが、マリアに現われる天使ガブリエルが、神様の御心としてあなたがたに子どもが与えられると告げます。ザカリアは、高齢である自分たちから子どもが生まれるはずがないと思います。すると、ガブリエルは「この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われるのでした。ザカリアは、その通りに話すことができなくなります。エリサベトから男の子が産まれます。産まれた子に名前をつけるとき、エリサベトもザカリアも「その名はヨハネ」とお告げの通りにしたので、ザカリアは話すことができるようになりました。時が来れば実現する神様の言葉を信じたからであります。

 ヨハネは、まさに「時がくれば実現する神様の言葉」を人々に証しする声であったのです。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。ヨハネは時の社会の人々に主イエス・キリストの到来を告げ、心から待望しなさいと教えました。この言葉はイザヤ書40章3節の引用です。イザヤ書はこのように記しています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒地に広い道を通せ」と記しています。荒れ地に道を備えたり、広い道にすることはできません。この言葉は心の備えを示しているのであります。救い主がお出でになる。だから心からお迎えできる道を作りなさいということであります。心の中に広い道を作り、救い主をお迎えするのであります。「主の道をまっすぐにせよ」と言っていることも同じであります。

 「義の太陽」、「喜びを示される」とは、主イエス・キリストの十字架の救いであります。待降節第三週となり、イエス様がお生まれになるクリスマスを待望するこの時、十字架の示しはまだ先のことだと思われるでしょうか。イエス・キリストがお生まれになるクリスマスは人々の喜びとなっています。キリスト者でなくても、社会の人々はクリスマスを喜んで待望しています。それは楽しく過ごすことができるからです。楽しく過ごす中にはイエス様は不在であります。それでも良いのです、楽しく過ごすことができるからです。しかし、クリスマスが終われば、確かにプレゼントは楽しく残っていますが、クリスマスの喜びは終わってしまうのです。そして、社会はすぐにお正月の松飾りに代わります。クリスマスのことなど何か昔話のようになっていくというわけです。

 クリスマスは主イエス・キリストがこの世に現れたお祝いです。何のために現れたのか、この世を救うためです。その救いは十字架によるしか救うことができなかったのです。イエス様は世に現れ、神様の御心を示しました。また、神様の御業を示しました。この社会は暗い社会ではない。義の太陽が昇り、照らし続けているからです。「喜びを示される」ことこそ、救い主イエス様が世に出現されることであります。

<祈祷>

聖なる神様。義の太陽を昇らせ、お導きくださり感謝致します。「救いを示される」喜びへとお導きください。キリストの御名により、アーメン。

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説教「命へのお導き」

2023年12月10日、三崎教会

「降誕前第3主日

                      

説教・「命へのお導き」、鈴木伸治牧師

聖書・列王記上22章10~17節

   ヨハネによる福音書5章31~40節

賛美・(説教前)讃美歌21・236「見張りの人よ」

   (説教後)賛美歌21・451「くすしきみ恵み」

降臨節第二週となり、二本のローソクにより明るくなりました。一段と明るくなったことを示しているのであります。四本のローソクが点灯しますとクリスマスを迎えることになります。四週間前から主イエス・キリストのクリスマスを待望する、心の備えが導かれているのであります。私たちが聖書をどのように読み、理解しているのかということになります。西洋の歴史においてキリスト教が大きな役割を果たしていますが、なかでも芸術に関しては今でも鮮明に残されています。以前パリの三大美術館、ルーブルオランジュリー、オルセー美術館を見学したことがあります。聖書物語を題材とした絵画の多さに驚くばかりです。ルーブル美術館ではキリストの十字架の絵画が数多く展示されておりました。パリの美術館ばかりではなく、各国の美術館、また教会にはたくさんの聖書に関する絵画、彫刻が展示されているのです。これらは作者の思い、聖書を受け止めた姿勢において描かれており、また制作されています。作品を鑑賞することにより、作者の聖書の受け止め方を示されるのです。聖地の旅行をしたとき、マリアさんを記念する教会がありました。そこには世界のいろいろな国からマリアさんの絵や像が送られ飾られていました。日本からも送られており、日本からのマリアさんは着物姿でもありました。アフリカの国からのマリアさんは黒いマリアさんでもありました。バルセロナのモンセラットの教会にかざられているマリアさんは黒いマリアさんでもあります。聖書のいろいろな人々に関しては、それぞれの受け止め方が異なり、それはそれで聖書からの示しなのですから、結構なことなのです。

聖書の言葉を何回も反芻しながら受け止めて行く姿、直観的に示される姿、いろいろな姿勢がありますが、聖書の言葉をどのように受け止めているのか、そのことを示されているのです。聖書に向き、御心を示されて歩みたいのであります。

 旧約聖書は列王記上22章10節以下を示されています。預言者ミカヤの預言活動について示されています。今、聖書の民・イスラエルの国はアラムの国と戦っています。同盟国のユダの王様がイスラエルの王様に、アラムを攻めるべきか神様の御心を尋ねなさい、と勧めるのです。そこで、イスラエルの王様は預言者400人を集めて、神は何を示しているかと問うたのであります。「わたしは行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と預言者たちに問います。すると預言者たちは「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と口を揃えて答えたのでありました。これは真実の預言ではありません。王様の満足を得るための預言でありました。同盟国のユダの王様は、預言者はこれだけかと聞きます。するとイスラエルの王様は、まだ一人いる、しかし、彼はわたしに幸運を預言することなく、災いばかりを預言するので、わたしは彼を憎んでいます、と答えたのであります。憎んでいる預言者ミカヤと言う預言者でした。そのとき、ユダの王様はイスラエルの王様をいさめ、ミカヤからも神の言葉を聞くように勧めるのです。イスラエルの王様は使いを出してミカヤを呼びに行かせます。その使いの者はミカヤに、「預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください」と言い含めるのです。ミカヤイスラエルの王様に、使いの者が言い含められたとおりのことを言います。「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言います。すると、イスラエルの王様は、いつも災いばかりを預言するのに、幸運をもたらすというミカヤの言葉が信用できず真実を迫るのです。するとミカヤは神様から示された通りの預言を語るのです。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』といわれました」と預言を示します。「羊飼いのいない羊」になるということは王様が敗れることを意味しているのです。王様はミカヤの預言を無視して戦いに出ます。しかし、ミカヤの預言通りに戦いで死んでしまうのです。イスラエルの王様は神様のお心ではなく、常に自分の思いによって生きようとしました。だから、ミカヤの預言はいつも自分には災いなので、聞く耳を持たなかったのでした。

 偽りの預言があります。それを喜んで受止めようとすることは、自分がそのように思っているからであります。神様の御心を聞くとき、私には不都合であることもあり、聞きたくないときもあるのです。真実を聞く姿勢、それは祈りつつ神様に求めることであります。「本当の喜びをいただくために」自分の思いを捨てなければならないのです。

ヨハネによる福音書は5章31節からですが、主イエス・キリストが、神様の証しにおいて人々の中にいることを示しています。このヨハネによる福音書5章は1節から9節において、主イエス・キリストがベトザタの池で一人の病人を癒したことが記されています。ベトザタの池の周りには病気の人等が大勢横たわっていました。池の水が動いたとき、池の中に入ると病気が癒されるとされていました。池の水が動くというのは、間欠泉であり、温泉のような池であったと思われます。源泉に触れると癒しの効果が働くのでしょう。そこに38年間病気の人がいました。イエス様はその人に「良くなりたいか」と聞くのです。良くなりたいのは当たり前であると思いますが、その後の会話により、イエス様が尋ねた意味が示されます。聞かれた人は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りていくのです」と言うのでした。つまり、この人は誰かが自分を池の中に入れてくれないから、だからこの病気が直らないと思っているのです。人任せになっているということなのです。「良くなりたいか」と聞かれたイエス様の意味はここにあるのです。そして、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と促します。自分で、人の力を待つのではなく、自分で起き上がりなさい、と励まされたのでありました。この人は立ち上がりました。歩くようになったのです。

 その日は安息日であり、この日に床を片付けるということは労働行為でありました。安息日は一切の働きを休んで、神様の創造の恵みを感謝する日であります。従って、人々はイエス様を批判します。そこでイエス様と人々の間に論争が繰り広げられるのでありました。今朝の聖書はその流れの中にあるのであります。人々はイエス様の働き、教えを批判するようになり、イエス様の存在すら否定するようになります。それに対してイエス様はご自分の証をされているのがヨハネによる福音書5章31節以下の今朝の聖書であります。

 31節「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」とイエス様は言われています。自分自身の証しでもなく、人の証しでもない、唯神様が真実を示しているのであり、その真実の証を信じなさい、と示しているのであります。神様は旧約聖書以来、預言者を通してメシア・救い主の出現について示してきました。そして、イエス様も言われるとおり、バプテスマのヨハネが真実の救い主であるイエス・キリストの証をしました。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解くしかくもない。」(ヨハネによる福音書1章26節)と真実を示したのでありました。

 そして、何よりも真実の示しはイエス・キリストの教えであり、力ある業に真実が示されていました。人々はその教えを耳にし、その業を示されては驚き、心に強く示されていたのであります。それでいながら真実を受止めない姿勢は、かたくなな姿勢のなにものでもありません。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない」とイエス様は言われています。私たちの命のお導きをくださっているのです。

 イエス様の言われるとおりです。聖書はイエス様が御子としてこの世に現れ、神様の御心をお示しくださいました。しかし、人々はそれでも自己満足、他者排除の歩でありました。それでイエス様は御自分を犠牲としてささげ、十字架に架けられました。神様はイエス様の死と共に、私たち人間の自己満足、他者排除を滅ぼされたのです。イエス様が私の悪い姿を滅ぼされた、その事実を信じることなのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだ」とイエス様が言われているとおりです。イエス様について何も研究する必要はないのです。ヨハネによる福音書がイエス様についての生まれも、どこの誰とも示さないのはそのためなのです。十字架によって私たちをお救い下さった、ただその事実を信じることなのです。

私たちの命、イエス様の御心をいただいて歩むことで、この命は永遠の命、天国への命へと導かれるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。クリスマスの喜びを与えて下さり感謝致します。聖書の御言葉を示され、永遠の命へとお導きください。主の御名より、アーメン。

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説教「救い主を待ち望む」

2023年12月3日、六浦谷間の集会

「降誕前第4主日

                      

説教・「救い主を待ち望む」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書52章7~10節

   ローマの信徒への手紙11章17~24節

   ヨハネによる福音書7章25~31節

賛美・(説教前)讃美歌21・241「来たりたまえわれらの主よ」

   (説教後)賛美歌21・493「いつくしみ深い」

今年も、早くも待降節になりました。主イエス・キリストの出現を心から待望する歩みとなるのです。クリスマスはイエス様のお生まれになられた日としてお祝いし、その日の来るのを待ちわびる、と言うことが社会の人々の思いです。しかし、聖誕を待ちわびること、一つの意味がありますが、ただお祝いする日を待つというのではありません。キリスト教イエス・キリストの聖誕と共に、主の再臨の希望を待望しているのです。イエス様は2000年前に既にお生まれになっているのです。この世に現れ、神様の喜びの福音を示し、それでも真実に神様の御心を知ることができない人間をお救いになるために十字架にお架りになりました。死んで葬られ、しかし三日目に神様の御業により甦り、復活されました。そして40日間、ご復活を人々に証されました。そして昇天されたのです。イエス・キリストの昇天後は聖霊の時代となります。神様が聖霊の導きを与え、十字架の救いの確信を与えておられるのです。そして救われた人々は、再び主イエス・キリストがお出でになるという再臨信仰を与えられ、いつ再臨の主が現れても良い信仰をもちつつ歩んでいるのです。従って、クリスマスはイエス様のお生まれになった日を待望して、その日にはみんなでお祝いをするのではなく、クリスマスを待望するということは再びイエス様がこの世に現れることをクリスマスにより深められるのです。クリスマス飾りを華やかにするというのではなく、むしろ畏れをもってクリスマスを待望するのです。現れる主イエス・キリストの前で信仰の証が祝福されるかということです。救い主を心から待ちつつ過ごしたいのであります。

 旧約聖書イザヤ書52章が示されています。表題にも示されていますように、神様が王様になって、捕われの人々、荒廃している都に住む人々を励まし、希望を与えているのです。イザヤ書は、状況的には、聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれ、異教の空の下で苦しみつつ、悲しみつつ過ごしている状況です。その人々をイザヤは励ましています。52章1節、「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ」と言っています。シオンは都のエルサレムのことですから、荒廃した都に生きている人々を励ましているのです。荒廃した都であるが、ここにこそ主がおられるのであり、神様がどこかに行ってしまったということは決してないのです。6節、「それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』というものであることを知るようになる」とイザヤは宣言します。「ここにいる」神を知ること、すなわち神様は「有って有るもの」であり、だから「ここにいる」神様であることを示しているのであります。人々への神様の慈しみを知りなさいということです。

 イザヤは神様の絶大な救いを示していますが、それは人々が曖昧な姿勢でいることの反省でもあります。5節を見ると、「そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる」と記されていますが、神様を真実仰ぎ見ない姿勢を指摘しています。「見よ、ここにいる」神様を真実仰ぎ見ないで、いたずらに悲しみ、神様に救いを求めない都の人々への警告でもあります。確かにイザヤの励ましで神様を仰ぎ見るのです。しかし、荒廃した現実にうずもれてしまい、神様の救いを待つことはなく、ただ現実を悲しむだけなのでありました。あなたがたは「見よ、ここにいる」神様を知るようになる。しっかりしなさい、いつも曖昧な態度で神様を仰ぎ見ようとしているのですか、とも言っているのです。神様の慈しみが与えられているのですから。

曖昧な信仰、どっちつかずの信仰が戒められています。そもそも聖書の人々がバビロンに滅ぼされるのは曖昧な姿勢、どっちつかずの態度であったからでした。神様の御心に従うのではなく、力の強いエジプトやバビロンに傾くことで頭を悩ましたからでした。極めて人間的な考えで道を切り開こうとしたのです。聖書の人々は何よりもまず神様の御心によって生きるべきなのです。確かに御心に求めることがありました。しかし、人間の力関係に重きをおいたり、常に岐路に立ち、進むべき道を決めかねていたということなのです。神様の御心のままに生きるのか、人間の思いで歩むのか、曖昧な生き方は真の方向を定めることができないのです。イザヤはそのような人々に神様が我々の王様となって、良い方向へと導いてくださることを示しています。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる」とイザヤは宣言します。神様の御心以外に気持ちを向けるな、曖昧な姿勢は止めなさい、どっち付かずの生き方は終わりとしなさいと示しているのです。

 私達は主イエス・キリストに対してどのような姿勢をもっているのでしょうか。姿勢ではなく、どのような信仰を持っているかということです。新約聖書ヨハネによる福音書7章25節以下の聖書は、曖昧な信仰、どっちつかずの信仰を戒めています。この7章はイエス様に対して、どっちつかずの姿勢の人たちを記しています。最初のグループはイエス様の兄弟たちです。7章1節以下で、イエス様の兄弟たちが、こんなガリラヤにくすぶっていないで、祭りの都に行き、あなたがしていることを都の人々に見せたらどうだというのでした。都で一旗あげなさいというわけです。3節「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない、こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」というのです。イエス様の兄弟たちは、一番上の兄であるイエス様が人々に良い教えをしていることを認めています。また、力の業を行っていることも受止めているのです。普通の人ではないと思っています。しかし、それが神様の教えであり、神様の御業であることを知ることができないのでいます。兄であるということ、しかし偉大なことをしていることを受止めているのです。いわゆる、どっちつかずの関わり方でもあるのです。

 兄弟たちは都で一旗上げなさいと言います。それに対して、イエス様は都には行かないと言いましたが、しかし後になってひと目を避け、隠れるようにして都に上ったのでした。

 どっちつかずの次のグループは都の人々でした。仮庵祭という祭りになり、祭りでは人々がイエス様を捜しています。「あの男は何処にいるのか」と言いつつ捜しているのです。7章12節に、「群集の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群集を惑わしている』という者もいた。」と記されています。ここにもイエス様に対して曖昧な、どっちつかずの人々がいます。イエス様を捜すほど、イエス様の存在が気になっているのです。しかし、偉大な存在と受止めながらも、イエス様を救い主とは信じられない人々なのであります。それで、「良い人だ」と言うに留めているのであります。

そのような状況の中で今朝の聖書になるのです。イエス様がメシアなのか、はっきりと分からないままに論じているのです。「私達は、この人が何処の出身かを知っている。メシアが来られるときには、何処から来られるのか、誰も知らないはずだ」と人々はいっています。つまり、あの人はナザレ村の人だといっています。ヨハネによる福音書1章43節以下に、フィリポがナタナエルに、昔から現われると言われてきた救い主に出会ったと言います。すると、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い、フィリポの言葉を否定するのです。ナザレ村は人々からは評価されていないということです。今朝の聖書も、「何処の出身かを知っている」と言い、イエス様を否定しようとしているのです。しかし、「あの男は何処にいるのか」と言いつつ祭りの都を捜した人々は、イエス様にメシア的な姿を受止めていたのです。しかし、はっきりとメシアであると言えない社会的な状況があったのでした。主イエス・キリストによる真に胸に示される教え、思っても見なかった不思議な業を示されています。まさにこの方はメシアであると信じたのであります。しかし、主イエス・キリストが何処の出身かを知っていることが、曖昧な姿勢になり、どっちつかずの受止め方になっていたのでありました。

 降臨節第一主日となり、一本のロウソクが点灯し、光が見えてきました。この光はイエス様のお生まれになる光でありますが、十字架に至る光でもあるのです。イエス様はお生まれになりますが、人々に現われるのは30歳頃であります。そして、3年間、神様の御心を示し、戒律を改めて教えました。現実を神の国として生きることを教えたのです。人々はこの新鮮な教えに従って生きますが、救い主としては受止めることができませんでした。時の指導者達のねたみにより、捕らえられ、総督ピラトの無責任な取り扱いで十字架にかけられてしまうのです。しかし、神様は人間のどうしてもなくならない罪、自己満足と他者排除の姿を、イエス様の十字架の死と共に滅ぼされたのです。十字架により私の奥深くにある罪が滅ぼされたのです。十字架の救いを信じたので洗礼を受け、イエス・キリストを信じて生きる者へと導かれたのでした。イエス・キリストの降誕は神様の救いの具体的なしるしなのであります。この救い主を待ち望みましょう。 

<祈祷>

聖なる御神様。主のご降誕を感謝致します。再臨の救い主が来られることを信じつつ歩ませてください。キリストの御名により、アーメン」

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説教「救い主を示される」

2023年11月26日、六浦谷間の集会

「降誕前第5主日

                      

説教・「救い主を示される」、鈴木伸治牧師

聖書・エレミヤ書23章1-6節

   ヨハネの黙示録1章4-8節

   ヨハネによる福音書18章28-38節

賛美・(説教前)讃美歌21・356「インマヌエルの主イエスこそ」

   (説教後)賛美歌21・386「人は畑をよく耕し」

 今朝は収穫感謝日であり、謝恩日であり、終末主日を覚えつつの礼拝であります。いくつかの示しをいただきながら礼拝をささげています。

収穫感謝礼拝でありますが、果物や野菜等ばかりではなく、私達に与えられているお恵みを感謝しつつ礼拝をささげているのであります。自然の恵みが神様の証しであるということです。自然の恵みは日々の生活の中に満ち満ちているのです。すなわち、今のこの状況、天気の時はもちろんですが、雨が降り、風が吹く時、全てが恵みとなって私たちに与えられるのです。しかし、のどかな日はまさに神様のお恵みとして受止めることができますが、猛暑となり、災害の中で死んでいく人もあるとき、一概に自然のお恵みとも言えないと思います。今年も地震や台風、大雨等で多くの人が災害に巻き込まれました。自然災害による犠牲者をどのように受止めたらよいのでしょうか。そのようなことがありますが、やはり自然の恵み、日々の育みの中に生かされていることは事実です。刻々と時は流れ、過ぎ去っていきますが、恵みの中に生かされていることを受止めたいと思います。そして、恵みを恵みとして生きるとき、祝福の導きとなるのです。

 本日は謝恩日でもあります。日本基督教団は11月の第四日曜日を謝恩日としています。謝恩は隠退された牧師に対してであり、牧師の遺族を覚えることであるのです。この世の年金を補う意味で教団の年金が始まりました。教団の年金は企業の年金とは異なり、なるべく公平に支給されています。大きな教会で謝儀の多い人も、小さい教会で少ない謝儀であっても、支給される教団年金はそんなには変らないのです。このように謝恩日の意義を申し述べる私自身が隠退教師の身分になっており、教団の年金を受給するようになっています。全国の教会の皆さんに感謝しているのです。

 本日はまた、教会の暦では終末主日であります。終末と言いますから、世の中が終わるということです。どのように終わるのか。それは分かりません。そんなことはあり得ないと思うのですが、しかし地球の始まりがありました。始まりがあれば終わりがあるということです。これは科学の世界でも考えられています。終末という場合、宗教的に示されています。世の終わりのとき、イエス・キリストが再び現れ、正しく生きた者を祝福すると言われています。それは救いの時でありますが、しかし、私達は世が終わる前に既に「救い主を示されながら」歩んでいるのです。今朝は救いをくださった主イエス・キリストの教えをさらに示されます。そして、終わりに向けて喜びつつ歩みたいのであります。

 終わりの状況は今朝の旧約聖書エレミヤ書23章の示しです。聖書の国ユダは小さい国です。周辺の国々、バビロンやエジプトの大国に囲まれ、その狭間で生き伸びる策を講じなければなりません。迫りくるバビロンに対して、指導者達はエジプトに助けを求めているのです。それに対して預言者エレミヤは、むしろバビロンに降伏することが生き伸びる道であると説得しています。そのようなエレミヤの姿勢に対して、指導者達はエレミヤを迫害するようになります。しかし、エレミヤは、神様が救いをもたらしてくださることを叫び続けるのです。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者達は」と神様が言われているとエレミヤは叫びます。神様は「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」との神様の御心を示しています。指導者達は神様の御心を求めず、まして人々を養うことなく、自分達の生き伸びる策しか考えていないのです。だから、神様が人々を救うと宣言しています。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と救いを宣言しています。この「救い主を示される」歩む人々を示しているのです。

 聖書は羊と羊飼いの関係を神様と人々の関係として示しています。羊を飼って生活の糧とする地域ですから、そのままたとえとしてもちいられるのです。羊は羊飼いに養われる存在ですが、その羊飼いが羊の面倒を見ない現状に対して、真の牧者を立てると宣言しているのです。「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる」とエレミヤは人々を励まし、希望を与えているのです。時の指導者達は人々のことは「どうでもよく」、ただ自分達の生き伸びる道しか考えていなかったのです。まことの救い主は、今の状況が「どうでもよくない」ので、救いを与えてくださるのです。希望をもって今の状況を生きなさいと励ますのです。主イエス・キリストは「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネによる福音書10章7節以下)と言われています。

 ヨハネによる福音書18章は主イエス・キリストが捕らえられ、裁判を受けることが記されています。イエス様を捕らえた時の社会の指導者達は正義と真理を押し付けあっているという状況です。時の社会の指導者達がイエス様を捕らえ、大祭司のところに連れて行き、そして総督ピラトのもとへ連れて行きます。イエス様はピラトの官邸に立たされています。ユダヤ人達は官邸に入らないのです。官邸に入ると身が穢れると思っているのです。イエス様は官邸の中に、ユダヤ人は外に、そしてその間を行き来しているのが総督ピラトなのです。29節「そこで、ピラトが彼らのところへ出てきて」とあり、33節「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り」、38節「ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人の前に出て行った」のであります。ピラトがイエス様とユダヤ人の間を行ったり、来たりしているのです。そういう中で、イエス様が「わたしは真理について証しするために生まれ、そのために世に来た」と言ったことに対して、ピラトは思わず「真理とは何か」と言っています。ピラトは真理について、一度は思いを寄せました。しかし、それはすぐに消え去って「どうでも良くなり」、群集の意向に負けてしまったのです。

 このピラトの姿は、正義を知りながら、悪なるものに気持ちを向けていく姿であるのです。主の御心、正義と真理、そうではない悪なる道と、行ったり来たりしている姿であります。私達は主の御心を示され、正義と真理の道を示されています。それは私達が心から祈る者へと導かれているからであります。どうぞ、主の御心に生き、正義と真理の中に歩ませてください、と祈る私たちであるからです。ピラトはイエス様の正義と真理、ユダヤ人の偽りの狭間で、結局は偽りを選んでしまいました。ピラトはイエス様を審問して、罪に当たるものは何もないと思いました。しかし、それでもイエス様を十字架につけることになるのは、ピラトにとって「どうでも良いこと」なのでありました。むしろ、イエス様を赦すことになれば、ユダヤ人の間に騒動が起きると思いました。それはピラトにとって最も恐れていることでありました。ローマから遣わされている総督として、騒動が起きることは自分の責任になるからであります。この「どうでも良い」と思うことが、正義と真理を排除することであり、最大の悪だということであります。小さな存在、そんなものは「どうでも良い」と思うとしたら、私はイエス様の正義と真理から遠くなっているのです。

 「どうでも良くない」と示したイエス様のたとえ話を示されます。それはルカによる福音書10章25節以下に示される「善いサマリア人」のたとえ話であります。ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われました。半殺しにされて倒れています。そこへ三人の人が順次通りかかります。その人たちが半殺しにされた人に対して、どのようにしたかが内容なのです。最初に通りかかった人も二番目に通りかかった人も社会的に信頼され、人望のある人たちです。この人達は倒れている人を見ると、道の向こう側を通って去って行きました。この人たちは、倒れている人は「どうでもよかった」のです。自分のことが大切なのです。私達も、自分の時間を大切にするあまり、一人の存在に対して「どうでも良い」と思っているのだろうかと示されるのです。さて、三番目に来た人はサマリア人でありました。倒れているユダヤ人とやって来たサマリア人は日ごろから交際していない間柄でもあります。蔑視されているサマリア人ですが、この倒れている人を見つけると、すぐさま近寄ります。傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱したのでした。イエス様は、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねます。それに対して、当然のことながら「その人を助けた人」と答えるのです。今、目の前に見ていることは「どうでも良い」ことではありません。「あなたも同じようにしなさい」とイエス様は教えておられます。

 私達は十字架を示され、「救い主を示される」歩みなのです。イエス様は、私たちの「どうでも良い」という生き方を滅ぼされました。十字架を仰ぎ見ることにより正義と真理が導かれ、祝福の人生に導かれるのです。大きな災害には心を向けますが、日常生活の中で、隣人と共に生きるとき、どうでもよくないので、隣人に近づくことが私達の信仰の歩みなのです。

<祈祷>

聖なる御神様。「救い主示される」歩みを導き感謝いたします。その救い主を人々に宣べ伝えさせてください。イエス様の御名により、アーメン。

説教「生きる支えを与えられる」

2023年11月19日、六浦谷間の集会

「降誕前第6主日

                      

説教・「生きる支えを与えられる」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記2章1-10節

   ヘブライ人への手紙3章1-6節

   ヨハネによる福音書6章27-35節

賛美・(説教前)讃美歌21・355「主をほめよ、わが心」

   (説教後)賛美歌21・459「飼い主わが主よ」

 前週の主日礼拝の主題は「神の民の選び(アブラハム)」であり、人間の救いの始まりを示されたのであります。前々週の主題が「堕落」でありましたから、人間が罪に陥ってしまったことを示されました。しかし、神様は新しい人間を導いて人間の救いを導き、神様の祝福の家族へと導くのであります。まずアブラハムを通して、神様の祝福が人間に与えられていることを示しているのです。そして、今朝の主題は「救いの約束(モーセ)」であります。エジプトで聖書の民は奴隷として生きること400年を経ていました。奴隷となってしまうのは、ヤコブの時代です。全国的に冷害、飢饉がおこり、食料が無くなります。神様の不思議な導きでエジプトの大臣になっていたヨセフは、この飢饉を乗り切っているのです。そこでヤコブの一族がヨセフの招きにより、エジプトに寄留することになります。そのまま寄留しているのですが、時代を経て、聖書の人々がエジプトに寄留している経緯を知らない王様が脅威をもち、奴隷にしてしまうのでした。それからは重い労役で働かされるようになるのです。その苦しみから解放させるために、神様はモーセを選び、奴隷の人々を救い出すのであります。モーセの救いは、人間の救いの原型を示しているのであり、主イエス・キリストの十字架の救いへと導かれていくのです。モーセを通して祝福の歩みへと導かれていくことを示しているのです。そして神様の御心に養われる家族へと導くのであります。今朝はそのような救いの歴史の一つに組み込まれている、モーセの意味を示されます。

 今朝の聖書は出エジプト記2章1節以下に記されるモーセの存在の意味であります。まさに不思議な導きでモーセという存在が生まれました。モーセは奴隷に生きている人々を救う働きをします。しかし、モーセの使命は奴隷からの救済ばかりでなく、神様が人々に命を与え、祝福が与えられること、その祝福の命が永らえることが、モーセの果たすべき使命でありました。神の民となること、祝福が与えられ、全体的な神の家に住む者となることを示しているのです。聖書の民がエジプトで奴隷になる経緯は、先ほど簡単に示されました。今は奴隷で苦しむ人々の救済なのです。

 その後、時が経つと、ヨセフのことを知らない王様がエジプトを支配するようになります。新しい王様は言います。「これらの民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。ひとたび戦争が起これば、敵側についてわれわれと戦い、この国を取るかもしれない」と懸念するのです。そのため、聖書の人々を強制労働させ、重労働を課して虐待したと記されています。さらに、生まれる男の子はみな殺させたのです。モーセが生まれたのはそのような状況でありました。出エジプト記2章1節以下「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三ヶ月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子をいれ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた」のでした。その後のことは聖書に記されるとおり、ファラオの王女が奴隷の子供であると知りながら自分の子供として育てることになるのです。ファラオとはエジプトの王様であります。

 さて、モーセは奴隷の子供でありますが、エジプトの宮廷で成長することになりました。モーセが成長したとき、聖書の人がエジプト人に虐待されているのを見て、思わずそのエジプト人を殺してしまうことになります。結局、モーセはエジプトを逃れ、ミディアンという土地で平和に暮らすようになりました。ところが、そのモーセを神様が選び、今からエジプトで奴隷として苦しんでいる人々を救い出しなさいとの使命が与えられたのでした。モーセは戸惑い、奴隷の人々に神様をどのように伝えたらよいのですか、と尋ねます。そのとき、神様はご自分の名を「あってあるもの」と言われたのです。「あってあるもの」がモーセを奴隷の人々のもとに遣わされたと言いなさい、と言われるのでありました。モーセはエジプトの王様、ファラオに掛け合い、奴隷から解放することを求めます。なかなか承知しないファラオに対して、モーセは神様の審判を行います。そして、ついに聖書の人々はエジプトを脱出するのでした。細かいことは割愛していますので、出エジプト記をこのまま読み進みますと、小説よりも面白く読むことができます。

 モーセの働きはエジプト脱出が第一でありますが、それだけではなく、神様が人々に十戒を与え、乳と蜜の流れる土地へと導くことであり、全体的には祝福を与えられ、神様の家に生きる者へと導くのです。エジプトを脱出した人々は喜び勇んでモーセに従いますが、しかし、荒れ野を歩くうちにも食料がなくなります。すると、モーセに詰め寄り、「我々をこのあれ野で死なしめるために連れ出したのか」と言い、「こんなことなら奴隷であってもよかった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンをいっぱい食べられたのに」というのでした。それに対して、神様は不平不満を言う人々ですが、天からの食べ物、マナという食べ物を毎日与えることになるのです。こうして人々の命を養いながら、ついに約束の土地、乳と蜜の流れる土地へと導いたのでした。神様の祝福の土地へと導かれたということです。旧約聖書モーセが人々を導きましたが、新約聖書は主イエス・キリストが私たちを導き、神の国へと導いてくださっているのです。

ヨハネによる福音書は6章22節以下の示しでありますが、背景となっているのは6章1節以下の「五千人に食べ物を与えた」ことであります。五つのパンで人々を満腹させたということ、このパンに対する姿勢について示すのが今朝の聖書であります。イエス様のもとに大勢の人々がお話を聞くために集まってきます。そこで、イエス様はお弟子さんのフィリポに、「この人達に食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねます。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と言います。すると、お弟子さんのペトロが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、なんの役にもたたないでしょう」というのでした。結局、お弟子さん達はイエス様が無理難題を言っているように理解しているのです。そのような弟子たちの不信仰を受止めながら、イエス様はパンの奇跡をもたらすのです。人々を座らせ、パンを祝福します。弟子たちにパンを配らせます。五千人の人々が満腹したのです。

このパンの奇跡が行われた翌日、人々はイエス様を探し回り、ようやく見つけます。「ここにおられたのですか」といって喜ぶ人々にイエス様は、「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われます。6章2節には「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」と記されています。その人達にイエス様はパンの「しるし」を与えました。しかし、その「しるし」の意味を理解することなく、ただ満腹したことを喜んだのでありました。人々はイエス様の「しるし」を悟ることができませんでした。「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できない」とイエス様は言われています。従って、イエス様を捜してやって来たのは、イエス様が言われる通り、パンを食べて満腹したからでありました。人々がパンを食べて満腹したとき、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言いました。そのように言う人々はイエス様を自分たちの王様にしようと考えたのです。

満腹したということ、それは自分たちの要求がこたえられたことであり、王様になってもらいたいと思うのは、自分たちの思い通りの国になるということでした。自分の要求に応えてくれる存在、そういう神様を人々はもっとも望んでいるのです。それはご利益信仰というものです。お願いすれば、かなえてくれる、それは信仰ではなく欲望ということになります。私たちは主イエス・キリストに何を求めるのでしょうか。「あなたがたは満腹したから、わたしを捜している」と述べたイエス様は、その後で、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と示しています。イエス様からパンを与えられ、満腹になったとき、そのときに、この「しるし」は「永遠の命に至る食べ物」であることを気づくべきでありました。

 神の家に導かれるということ、それは教会へと導かれることであります。教会へと導かれ、御心を示されて、祝福の歩みへと導かれていくのであります。大塚平安教会には若い人たちも多くおり、いつも食事を共にしていました。土曜日になると青年たちが集まり、週報の印刷やその他の礼拝準備をするようになります。夕方であり、いつも連れ合いのスミさんが食事の準備をしてくれるので、青年たちと共に食事をしたものです。そういう食事をした人たちが、今でも教会を支える存在になっているのです。教会の食事をいただくほどに信仰が増し加わるということになります。確かな信仰の成長の原点なのです。今いくつかのところで活躍している大塚平安教会出身の牧師たちは、教会でいつも食事をしていたということです。教会の奉仕を喜び、共に食事をいただくこと、信仰の励みともなるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。祝福の導きを感謝致します。いよいよ生きる支えをお与えください。イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。

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説教「救い主を示されながら」

2023年11月12日、三崎教会

「降誕前第7主日

                      

説教・「救い主を示されながら」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記12章1-9節

   ローマの信徒への手紙4章13-25節

   ヨハネによる福音書8章48-59節

賛美・(説教前)讃美歌21・411「うたがい迷いの」

   (説教後)賛美歌21・517「信仰こそ旅路を」

 前週の第一日曜日は、日本基督教団は「聖徒の日」(永眠者記念日)として定めていました。召天された皆さんはこの世の人生は旅路として歩んだのであります。私たちはこの旅路をどのように歩み、喜びを持って終わるのか、それが課題であります。その示しとして、今朝はアブラハムの人生を示されるのであります。

現役時代も、そして隠退してからも外国生活をして過ごすことがありましたが、それが人生の旅路ではありません。日々、普通の生活をして過ごすことが人生の旅路であります。この普通の生活の旅路が祝福されることが私達の願いなのであります。やがてこの世の旅路を終えて、永遠の生命へと導かれるのであります。しかし、この世の旅路が終わると、別の世界へと行くようでありますが、そのようには考えていないのです。キリスト教は、神の国、天国は彼方の世界ではなく、現実の続きとしています。一般的な理解は、死ぬことにより彼方の世界への旅たちであります。棺の中には草履を入れたり、杖を入れたりします。しかし、キリスト教はそんなに重々しくは考えないのです。現実を神の国として生きたとき、死を迎えてもそのまま永遠の神さまの国へと導かれていくのです。例えば、文章にたとえれば、一般の考え方は、死を迎えたとき、それは文章が終わったので句点をつけます。しかし、キリスト教では句点ではなく読み点なのです。点を打ち、そこで一呼吸し、さらに文章が続いていくのです。読み点までの文章はこの世を神の国として生きた歩みです。読み点後の文章は永遠の命なのです。今生きている状況を神の国と信じて生きること、それが私たちキリスト者の生き方なのです。私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いをいただいています。十字架を仰ぎ見つつ生きるとき、私たちに関わってくる様々なことを受け止め、苦しいには違いない、悲しいには違いない、しかし、主に導かれている者として、現実を受け止めて生きることが神の国を生きる者なのです。この現実を主が共に歩んでくださっているのであります。召天された皆さんはイエス様に導かれて、この世の人生を力強く生きた人々でありました。

 創世記の示しにより私たちも「永遠の命をいただく」信仰に導かれたいのであります。創世記12章1節以下で神様がアブラハムに、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われました。今朝の聖書の前の段落、創世記の11章31節以下を見ると、アブラハムは父テラ、甥のロト、そして妻サライと共にカルデアのウルに住んでいましたが、そこを出立してハランに住んでいることになります。従って、ハランは生まれ故郷ではありませんが、父と共に住んでいたので、その父の家を後にしなさいというわけです。生まれ故郷をすでに出ているわけですが、場合によっては再びカルデアのウルに帰ることも考えられるわけです。改めて故郷に帰ることを戒め、新たな歩みを導いているのであります。

 故郷、生まれ育ったところに生きることは、何もかも分かっているので生活しやすいのです。しかし、神様はそのような平安の日々から、未知の世界へと導くのであります。不安が伴う歩みでもあります。故郷を後にしなさいと言われた神様は、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と言われます。ここで言う祝福は「大いなる国民」であり、「あなたの名を高める」ことであります。そのためには、与えられた約束を信じ、受け止めて歩むことでありました。4節「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムはハランを出発したとき75歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った」。こうして、アブラハムは神様の約束を信じて、神様の示す地へと出発しました。すると、アブラハムは神様の言葉に絶対に忠実に従い、黙々と従っているようです。しかし、その後のアブラハムの姿を見ると、必ずしも黙々と従っているとも思えないのです。

 例えば、創世記15章1節以下を見ると、ここでは神様がアブラハムを励ましています。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは大きいであろう」というのです。ところがアブラハムは、あたかも神様に抗議するかのように、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでした。家の僕が跡を継ぐことになるのです」というのです。神様は、アブラハムに大いなる国民にすると約束しました。ところがこの年になっても子供が生まれないではありませんか、と抗議しているのです。その時、神様は言います、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言われます。神様はアブラハムを外に連れ出して言われます、「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみよ。あなたの子孫はこのようになる」と。アブラハムは不平を言いましたが、改めて、その約束を信じて歩むことになります。その信じて歩むことで祝福が与えられたのでありました。

 神様の祝福をいただき、永遠の命を約束されているのは主イエス・キリストです。ヨハネによる福音書は8章48節からが今朝の聖書です。ここではイエス様がユダヤ人達と論争をしています。論争の中でユダヤ人達が、「わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と言います。それに対してイエス様は、「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父である」と言っています。さらに、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われました。それを聞いたユダヤ人達は、石を取り上げ、イエス様に投げつけようとしましたが、イエス様は身を隠して、出て行かれたのでありました。

「わたしはある」とは神様の名であります。出エジプト記で神様はモーセに現れて、あなたはエジプトで奴隷として苦しんでいる人々を助け出しなさいと命じられます。モーセはこの重い使命を受けるにあたり、奴隷の人々に、どのようにして神様を示すのかを神様に聞くのです。すると、神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお応えになりました。「わたしはある」、これを聖書のヘブル語で言えば「エホバ」ということです。神様は「ある」という存在なのです。「ある」という存在なので、私たちと共におられる神様なのです。それに対して偶像の神様は、形はあっても実態が「ない」ということなのです。

エス様は「わたしはある」者だというとき、神様であることを示していますが、もちろん人間として今は存在しています。人間として存在するとき、神様を信じることを基としているのです。旧約聖書は信仰を基とするとき、大いなる者へと導かれることを示しています。イエス様はこの信仰を基にして、救いの完成へと歩まれたのでした。人間の罪は、自らは決して克服できないので、神様はイエス・キリストが十字架に架けられたとき、それは時の指導者のねたみによるものでありますが、神様は救いの基とされました。イエス・キリストが十字架で血を流して死ぬと共に、人間の奥深くにある自己満足、他者排除の原罪を滅ぼされたのであります。イエス様はその神様の御心を受止め、十字架の道を歩みました。人間的には、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っています。十字架で死にたくありません、と言っている訳です。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」とすべてを神様に委ねておられるのです。

 神様はアブラハムに故郷から導き出し、未知の世界を歩ませました。アブラハムは旅の一生でしたが、祝福の人生であったことを聖書は示しているのです。ところで私の場合、故郷を出ましたが、故郷に戻ってきたのです。今住んでいる家で生長しましたが、23歳の時、牧師になるため、日本聖書神学校に入ります。神学校は寮生活であり、卒業するや牧師になり、実家に戻るとことなく歩むようになるのです。最初は青山教会でしたので、東京の芝白金の生活になり、その後は六郷土手の公団住宅に住むようになります。そして、その後は宮城県の教会に赴任します。そして大塚平安教会に赴任します。もはや70歳になって、隠退しまして、結局は成長した実家に帰ってきたのです。牧師になって、隠退したら自分の家に帰ってきたという人はあまりいません。その場合、このアブラハムの生き方が常に示されるのです。しかし、神様は故郷を後にしなかった者へのお導きを与えてくださっているのです。六浦谷間の集会として、夫婦で礼拝が導かれていること、その礼拝に、時には知人が出席されること、あるいは今までお交わりのあった皆さんがお訪ねくださること、祝福の歩みであると示されています。この様な歩みもまた、旅路の人生であり、神様のお導きの旅路であると示されています。私達の旅路の人生をイエス様に委ねて歩むことを今朝は示されたのであります。「わたしはある」という存在、イエス様に委ねての人生なのです。

<祈祷>

聖なる神様。永遠の命へのお導き感謝致します。主の十字架を仰ぎ見つつ、今の状況を歩ませてください。主の御名によりおささげします。アーメン。

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