説教「新しい命を生きる」

2014年1月12日、横須賀上町教会 
降誕節第3主日

説教・「新しい命を生きる」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記14章15-25節
    マルコによる福音書1章9-11節
賛美・(説教前)讃美歌21・368「新しい年を迎えて」、
    (説教後)讃美歌21・514「美しい天と地の造り主」


 今朝は日本基督教団の教会暦は「降誕節第3主日」でありますが、他の教会暦は「顕現後第一主日」としています。顕現祭は前週の1月6日でありました。顕現とはエピファニア(Epiphania)でありますが、もともと人の目には見えない神様の本質が、目に見えるものとなって現れる事であります。その本質が主イエス・キリストであります。クリスマスにお生まれになったイエス様に、東の国の占星術の学者達がお会いし、伏し拝んだとされています。口語訳聖書は博士でありました。顕現祭における占星術の学者、又は博士は、それぞれの国で王様になっている場合が多いようです。
 娘の羊子がスペイン・バルセロナに滞在していますが、バルセロナにおける顕現祭について知らせてくれています。1月6日はレイジェスと呼ばれるお祭りということです。このレイジェスが顕現祭という意味だと思います。この日は三人の王様が子ども達にプレゼントを渡しに来るのだそうです。山車のようなものに乗った三人の王様が、アメを町中の子ども達に配ります。入院している子どもや老人達には、クレーンで病院の窓まで上がり、プレゼントを渡すということです。小さい子ども達は王様を信じていて、前もって欲しい物を紙に書いて注文します。6日の朝、起きると注文していたプレゼントがもらえるのです。王様がもってきてくれたと信じているようです。サンタクロースと同じようです。親は子どもの注文を揃えるのに大変であるということでした。クリスマスにもプレゼントはあるようですが、顕現祭・レイジェスの方が盛んということでした。羊子が言うには、デパートによって乗せられているということでした。これは何処の国も、商売に乗せられて行事が盛んになるというわけです。クリスマスで随分と儲けた商いの人たちは、今度はバレンタインデーを目指しているわけです。
 ネットで顕現祭を検索してみました。王様が秘密の石を洞窟に隠し、それを子ども達が探しあてるという行事もありました。探しあてた石には生きる指針が書いてあるといわれます。ギリシャ正教会は、顕現祭はイエス様が洗礼を受けた日としています。そのことから伝説的な行事が生まれているのです。この日は海の水さえ甘く飲めるようになるとされ、ギリシャ各地で水にちなんだ催しが行われます。当日はギリシャ正教の司教が海や川、湖に木製の十字架を投げ入れます。それを取ればその年の幸福が約束されるという十字架を目指して、若者たちが次々に水に飛び込みます。港町では十字架が投げ込まれると同時に港に集まった船が一斉に汽笛を鳴らして祝福するということです。
 顕現祭は学者達がイエス様を拝んだ日とされており、一方イエス様が洗礼を受けた日としてこの日を迎えている人々もいるのです。いずれにしても顕現、神様の本質が、目に見えるものとなって現れる事でありますから、主イエス・キリストの存在が公になったことなのであります。神様の御心が見える形で現れたことであります。それは見える救いの形であり、救いの洗礼、救いのバプテスマとなっていくのであります。

 今朝は主イエス・キリストの洗礼を示されますが、聖書の歴史を通して水による救いが示されています。最初に水の救いを示すのは創世記であります。創世記2章によりますと、エデンの園から一つの川が流れ出ていたということです。エデンの園全体を潤し、その川が四つに分かれて行ったということです。第一の川はピション川、第二の川はギホン川、第三の川はチグリス川、第四の川はユーフラテス川でありました。チグリス、ユーフラテス川は私たちも聞き及んでいる川でもあります。創世記で述べていることは、神様のエデンの園から地球上に潤いを与える水が流れ出ていることを示しているのです。エゼキエル書47章には「命の水」について記しています。エルサレム神殿の敷居の下から水が湧き出ています。その水は都の救いの水となっていくのであります。
 こうして命の水について記すと共に、今朝の出エジプト記は水が人々を救う手段となっているのであります。聖書の人々は奴隷の国エジプトから、神様によりモーセを通して脱出することができました。人々はエジプトを出て、神様が示すカナンの国へと向かいます。ところがエジプトの王様ファラオは心を翻して、軍隊を派遣して聖書の人々を追ってくるのであります。人々は後ろから迫ってくるエジプトの軍隊に対して恐れおののきます。しかも、前方は海でありました。この海は紅海と呼ばれ、葦の海とも呼ばれています。後から迫ってくるエジプトの軍隊に対して、人々はモーセに詰め寄ります。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『放っておいてください。自分達はエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」と言うのです。モーセは神様の導きを信じています。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」と諭し、神様の救いの業を示すのであります。
 後にはエジプトの軍隊、前は海、どうにもならないとき、神様はその海の水を二つに分けるのであります。それにより聖書の人々は水が分かれた海の乾いた道を歩いていくのであります。人々が全員渡り終えると、今まで雲の柱で進むことができなかったエジプトの軍隊が、遮る雲の柱がなくなったので、同じように海の底を通って追いかけてきます。しかし、神様は海をもとのようにしますので、エジプトの軍隊は溺れ死んでしまうのであります。神様の救いの御業を身をもって示されたのでした。
 海の救いについては二つの記録があります。一つは神様に言われたとおり、モーセが「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ、」海を二つに分けたということです。それは16節に記されていることです。もう一つは21節で、モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変り、水は分かれた、と言うことです。後の記録の方が現実的です。モーセが海に手を差し伸べると、水が分かれたという一瞬のことではなく、夜もすがら東風が吹いて、水を分けたということは頷けることでもあります。いずれにしても海の水を分けて人々を救ったということであります。言わば水の中から救いが与えられたということであります。その水はエジプトの軍隊を滅ぼしたのでありますが、聖書の人々は水により救いが与えらました。

 水は救いの手段であることを聖書は記しています。それを私たちに示されたのは主イエス・キリストであります。イエス様の洗礼についてはマタイによる福音書ルカによる福音書それぞれも記しています。マタイは洗礼を授けるヨハネとの対話を記しています。イエス様がヨハネから洗礼を受けようとすると、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか」と言うのです。するとイエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われ、そしてヨハネから洗礼を受けた、とマタイによる福音書は記しています。マルコ、ルカはそれらの対話は省略しています。おそらくマタイが記すような対話があったものと思われます。
 聖書は洗礼と記すとき、ルビとして括弧でバプテスマと記しています。キリスト教の教派によっては洗礼とは言わないでバプテスマとしています。洗礼式ではなくバプテスマ式と言うのです。バプテスマとはギリシャ語で「浸す」と言う意味です。水に浸すということです。水に身体を浸すことは、もともとユダヤ教で行われていた儀式であります。これは他の宗教からユダヤ教に改宗するときにバプテスマを施したのであります。それをヨハネが罪の悔い改めの儀式に変えました。ヨハネの厳しい審判は人々を悔い改めに導いたのであります。人々はヨハネのもとに来て、神様の前に罪の悔い改めをいたしました。そこへ主イエス・キリストが来られ、ヨハネから洗礼を受けたのであります。バプテスマが罪の悔い改めであるなら、イエス様も罪があり、悔い改めたのかと素朴に思います。若い頃、教会の青年会で議論しあったものです。マタイの報告のように、これは正しいことであると言われるのです。
 人間は原罪をもっていることは聖書の示しなのであります。原罪については創世記のエデンの園にいるアダムとエバの物語によって示されています。エデンの園では、二人は何を食べても良いのです。しかし、神様は一つだけ戒めを与えていました。園の中央の木の実は食べてはならないということでした。彼らはその戒めを守っていました。ある日、蛇なる存在が二人に言うのです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言うことでした。どの木もとなると、みんなと言うことになりますが、どの木からも食べても良いと言われ、園の中央の木の実は食べてはいけないといわれたのです。蛇にそのように言われると二人は気になります。禁断の木の実を改めて見つめるのです。「その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた」のであります。思わず二人は手を伸ばしてその実を食べてしまうのであります。欲望を満足するためには、戒めを犯し、他者を排除して自分の欲望を満足させること、これが原罪でした。人間はこの原罪をもっているのです。イエス様は人間としてこの世に現れたとき、原罪を持つ人間として罪の悔い改めのバプテスマを受けることになったのであります。イエス様が罪を犯したとか、犯さなかったとかと言うことではなく、原罪を持つ一人の人間としてバプテスマに向かったのであります。
 主イエス・キリストご自身が洗礼を授けたという記録は聖書にはありません。しかし、イエス様はご自身が洗礼を受けたように、この洗礼を大事な業、救いのバプテスマと位置づけたのであります。イエス様が復活し、そして昇天されるときお弟子さん達に命じました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼・バプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と示し、人々に救いのバプテスマを授けるようにされたのであります。主イエス・キリストの死と復活を経て聖霊降臨が与えられ、初代教会より「父と子と聖霊の名によって」バプテスマが授けられるようになったのであります。そして、その洗礼は主イエス・キリストの十字架による贖い、救いを信じた者が、十字架を基として人生を生きるスタートラインとしての洗礼、バプテスマでありました。

 前任の大塚平安教会時代、一人の青年が洗礼を受け、その後の彼の姿を思い出しております。両親が教会員であり、生まれた時から教会の礼拝に母親と共に出席していました。所属するドレーパー記念幼稚園を卒業し、その後は教会学校に出席しながら成長したのです。青年になった頃、どちらかと言うと引きこもり的な姿になってしまいました。小さい頃は結構やんちゃな子どもでした。青年になって礼拝に出席しながらも、皆さんとはあまりお話しないのでした。それでも写真を写すことを喜びとしていました。もう青年になっているし、皆さんとお交わりが少ないとしても洗礼を受けて、新しい歩みをしてもらいたいと思い、洗礼を勧めました。すると彼は、洗礼を受けても来年の自分がどうなっているのか分からないというのです。自分に失望しているような言い方でした。将来の自分がわからないので、今洗礼を受けても、自分の生き方が見えてこないというのです。確かに私達は明日の自分については、こういう自分になるとは言えません。その後も時々洗礼を勧めるのですが、以前と同じことを言っていました。しかし、私達がいよいよ大塚平安教会を退任することになった時、彼は洗礼を受ける申し出をしてくれました。洗礼を受けるということは、新しい自分になることですよ、とお話しました。そして、彼はついに洗礼を受けたのです。来年の今頃はどうなっているのか分からないのですが、洗礼を受けてからは、絶えず十字架が原点でありますから、自分では計り知ることのできない導きを与えられるのです。新しい人生を与えられているのです。将来はどうなるのか分からない。しかし、十字架のイエス様によって導かれているのですから、新しい自分の歩みがあるのです。彼は写真を写しながら、そして若い皆さんと共に歩んでいることを示されています。いつも新しく生きる自分を示されているのではないでしょうか。
 大塚平安教会における最後のクリスマス礼拝で受洗した人がいました。まだ小学校5年生であり、洗礼の意味を分かっているのかと思いました。「なぜ、洗礼を受けるのですか」と聞きました。すると「今まで教会学校また礼拝に出席していましたが、神様にお約束して礼拝に出席したいのです」と答えました。立派な答えだと思います。神様とお約束をするということは、礼拝に出席することの自分への責任でもあるのです。神様にお約束するということは「新しい命を生きる」ということなのです。
 救いのバプテスマについて示されました。イエス様が私の内面にある悪い姿を十字架によって滅ぼされたのです。洗礼を受けて新しい命へと導かれているのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。救いのバプテスマへと導いてくださり感謝いたします。すべての人々に救いのバプテスマを証しできるようにしてください。主の名によって祈ります。アーメン。