説教「信仰の働き人」

2013年1月27日、六浦谷間の集会
「受難節前第3主日

説教、「信仰の働き人」 鈴木伸治牧師
聖書、 創世記4章1〜7節
   ローマの信徒への手紙3章27〜31節
    マタイによる福音書20章1〜16節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・125「わかき予言者」
   (説教後)讃美歌54年版・535「今日をも送りぬ」


 今朝は早くも1月の第四日曜日になりました。この時になると、いつも思い出されることは、大塚平安教会における「餅つき大会」であります。もともと「餅つき」を始めたのはドレーパー記念幼稚園でした。他の幼稚園でもお餅つきが行われているので、こちらの幼稚園でもお餅つきをしましょうということになりました。しかし、幼稚園だけで取り組むのは無理があったようです。いろいろな準備から当日のお餅つきを行うのは大変でありました。2年にわたって行いましたが、その後は行いませんでした。ところが数年後に大塚平安教会の教会学校が行うようになったのです。毎年開催するうちに、このような楽しい行事には幼稚園児にも呼びかけるようになりました。幼稚園児は親子で参加しますので、かなりの参加者になります。教会学校は教会の皆さんにも協力を呼び掛け、教会挙げての取組みになって行きました。「お餅つきは一つの伝道であり、多くの皆さんをお招きして、喜びを分かち合う」という名目を持ちつつ、宣教の一環として行うようになったのです。実際、お餅つきのときは、教会の皆さんと共に幼稚園児のお父さん、お母さんも参加していました。お父さん達は壮年会の皆さんと共にお餅を突いたり、お母さん達は突いたお餅を婦人会の皆さんと共に加工したり、交わりが深められていました。礼拝をもって始め、お祈りをもって終了するお餅つき大会は、まさにキリスト教の集いでした。150人もの皆さんが集まるのですから、本当に伝道の取り組みだと示されるのでした。
 伝道の取組みとしてのお餅つき大会です。そうであれば、この行事を通して、どなたかが教会に導かれたのか、と考えてしまうこともあります。お餅つき大会ばかりではなく、大塚平安教会においてチャペルコンサートを開催します。いろいろな演奏家をお招きしては、皆さんに呼びかけ、コンサートにお招きするのです。また、クリスマスには聖夜礼拝を行い、この時には社会の皆さんに案内をしています。毎年、出席くださる人もいました。さらに婦人会が主催して伝道集会を開いていました。こうしたいろいろな集い、行事等を開いては伝道をしているのです。いろいろと思い出していますが、これらの集いを通して、キリスト教に導かれた方がおられるか、と言うことです。そう考えるのは、取組みに対する結果を期待しているのです。これだけのことをしたのであるから、だから受洗者が多く与えられたという結果を望んでいる訳です。人間的な考えです。行いに対する報酬という人間的な計算をするのが私達でもあるのです。私達は導かれるままに伝道をし続けることなのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(テモテⅡ4章2節)と聖書は示しています。

 その辺りの人間的な考えを示しているのは旧約聖書創世記4章に示される「カインとアベル」の物語です。創世記は天地創造をされた神様が人間をも造られ、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配させたのでした。そして、最初の人であるアダムとエバエデンの園に生きることになります。しかし、神様が与えた戒めを破ったので、彼らは追放されます。追放されたアダムは土を耕す者となり、エバは子供を産む者となるのです。彼らには最初にカインと言う子供が与えられます。そして、その後にアベルが生まれるのです。今朝の聖書は、この二人の兄弟が成長し、それぞれ神様に献げものをしたことが記されています。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となりました。そして二人は神様に献げものをするのです。カインは土の実り、収穫した物を献げました。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を献げました。その時、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と記されています。
 このカインとアベルの物語を理解しようとしますが、なかなか困難です。どうしてアベルの献げ物に神様は目を留められ、カインの献げ物には目を留められなかったのか、という問題です。それを理解するために、カインは収穫の中から「適当に選んで」献げたので、神様は目を留められなかったのだと言うことです。そして、アベルは羊の群れの中から肥えた初子をもってきたので、「そんなに大切なもの」を献げたので、神様は目を留められたのであると理解するのです。初子なので身を切る思いで献げたと理解するのです。その姿勢に対して神様は目を留められたと思うのです。しかし、カインにしても土から取れた大切なものであったと思います。どうしてカインの献げ物には、神様は目を留められなかったのでしょう。
 私達がこの物語を読んで、理解に苦しむのは人間的な判断があるからです。二人の献げ方で理解しようとするのは、やはり人間的な判断であります。カインは土の実りをささげたが、「適当な物」であり、だから神様は目を留められなかったと理解しているのは人間的な思いです。アベルは羊の群れの中から、肥えた初子をささげるほど、「痛みをもって」献げたので神様は目を留められたと理解するのも人間的な解釈です。「適当な物」とか「痛みをもって」と人間的な注釈を加えて理解しているのです。聖書は兄の存在よりも弟の存在に重きを置いているのは確かです。弱い存在に目を留めてくださる神様です。だから弟であるアベルの献げ物に目を留められたとも理解することもできるでしょう。しかし、そのように理解するのも人間的な思いです。私達には神様の御心は分からないのです。そんなに簡単に神様のお気持ちを理解できるのでしょうか。むしろ、ここで問われているのは、これこれのことをしたから、神様の祝福があると、応報的に考えてはいないか、と言うことなのです。人間は因果応報的に物事を理解するのが常です。自分の行為に対する報いは当然と考えているのです。それを神様にたいしても求めているということです。
 カインは自分の献げ物が、神様に目を留められなかったので、「激しく怒って顔を伏せた」と記されています。カインは私達の姿ではないでしょうか。これだけのことをしたのであるから、祝福があるはずだと思うことです。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのでのなら、顔を上げられるはずではないか」と神様は言われています。これこれのことをしたから祝福されるはずであると思うのは、神様を従わせようとしている姿であると言うことです。それが正しくないことなのです。私達には計り知ることのできない神様の御心に従うことが、人間としての努めであると言うことを知らなければならないのであります。

 神様の御心は計り知ることができないということですが、イエス様のお話はさっぱり分からない、と言いたくなるようなお話が今朝のマタイによる福音書20章に記される「ぶどう園の労働者」のたとえ話です。このお話をする前にイエス様は一人の青年とお話されています。青年が、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしようか」と質問したのです。するとイエス様は昔から与えられている掟を守りなさいとお応えになります。青年は「どの掟ですか」と尋ねるので、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」とイエス様は示されたのでした。それに対して青年は、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言います。イエス様は、「もし、完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい」と言われました。青年は悲しみながら立ち去ったのでありました。
 青年が立ち去った後、イエス様はこの「ぶどう園の労働者」のたとえ話をされたのであります。「天の国は次のようにたとえられる」と言うことでお話をされますが、それは前の段落で青年との対話がありました。青年は「どんな善いことをすれば」永遠の命、天の国に入れるのか質問しているのです。人間がどんなことをすれば、その報酬として天の国に入れると信じているのです。応報的な信仰に対する教えが「ぶどう園の労働者」のたとえ話であります。「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」と設定されています。どこに出掛けて行ったのかは記されていませんが、いつの時代でも、どこの国でも、職を求め、人を求める場所は広場であると言うことです。いつの間にか職を求めて人が集まって来るのです。自ずと人を求める人たちもここに集まって来るのです。主人は、「一日につき一デナリオン」の約束で、労働者をぶどう園に送ったのでありました。その後、この主人はまた広場に行きました。主人は朝の9時頃にも広場に行きました。するとまだ広場に立っている人がいましたので、その人たちにも声をかけ、ぶどう園で働いてもらうことにしたのです。この場合は、「ふさわしい賃金を払う」と言うことでした。さらに、この主人は12時頃、午後3時頃にも広場に行き、まだ立っている人がいたので、同じようにぶどう園に送ったのです。ここでは賃金のことは記されてなく、「同じようにした」と言うことですから、賃金のことも触れられたのでしょうが、「同じように」は「ぶどう園で働く」と言うことであります。
そして、もはや夕刻5時になっています。広場にはまだ立っている人がいたのです。主人は「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言われたのでした。
 こうしていろいろな人々がぶどう園で働きました。たとえ話の全体から考えて、仕事が始まったのは朝の6時でした。そして、仕事が終わったのは夕刻の6時でした。実に12時間労働であります。主人は午後5時頃から働いた人たちから賃金を支払います。1時間しか働きませんでしたが、一デナリオンが支払われたのです。一デナリオンは、朝6時から働いた人々との約束の賃金です。12時間労働に対する報酬なのです。それなのに1時間しか働きませんでしたが一日分の賃金が与えられています。その後の3時頃から働いた人たち、12時頃から働いた人たち、朝の9時頃から働いた人たち、同じように一デナリオンが賃金として支払われたのです。もちろん、人々は大いに喜んだことでしよう。問題は朝の6時から働いている人達です。「最後に来たこの連中は、1時間しか働きはませんでした。
まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と不平を言うのでした。当然の言い分でありましょう。それに対して主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。わしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言うのでありました。人間的に考えれば、1時間しか働かないのに1デナリオンですから、一日働いたので12デナリオンもらわなければならないのです。だからイエス様のお話は分からないのです。

私達がイエス様のお話が分からないのは、人間的に応報的に考えようとしているからです。「ぶどう園労働者」のたとえ話ほど分からないお話はありません。私達は、これこれのことをしたから、当然のご褒美としての祝福と言うことになるのです。しかし、「ぶどう園の労働者」のたとえ話は、「ぶどう園で働く」ことが中心なのです。その場合、朝暗いうちから働いている人、夕方から働いている人もいるのですが、「ぶどう園で働く」ことは喜びであり、お恵みであるのです。「ぶどう園で働く」と言うことは「信仰に生きる」姿なのです。だから、働く報酬は必要ないのです。報酬があるとすれば、当然のことながら、皆一様に1デナリオンと言うことになります。このお話の中心は「ぶどう園で働く」ことであり、それ自体が喜びであり、お恵みであると言うことです。この「1デナリオン」が天の国と言うことになるのです。
「ぶどう園の労働者」のたとえ話は、信仰の人生として理解されています。朝6時からぶどう園で働く労働者は、人生の子供のころからイエス様を信じて生きた人にたとえ、夕刻5時頃から働いた労働者は、人生の晩年になって信仰に導かれた人として理解されるのです。そしてみな一様に「1デナリオン」の賃金であると言うことは、皆同じように天国へと迎えられるということであり、天国では報酬の多寡はないのです。そのように理解されるのは、「賃金の支払いのとき」が中心になるのです。今朝は、「ぶどう園で働く」ことを中心として示されているのです。たとえ、1時間しか働かないぶどう園の労働者でありますが、1時間も喜びとお恵みのうちに過ごすことができるのです。それは応報を求める生き方ではなく、招かれる生き方なのです。これこれのことをしたから喜びの人生へと導かれると言うのではなく、喜びと恵みの人生へと招かれ、導かれることなのです。
私達は喜びと恵みの「ぶどう園の労働者」なのです。信仰の道を喜んで生きています。何をしたから祝福が与えられるという歩み方はやめましょう。ときどき牧師仲間で団欒している中で、牧師を50年間しており、今迄700名が受洗したと言われます。だからどうであるとは言いませんが、牧師としてこれだけのことをしたと自分で確認しているのです。
イエス・キリストは十字架にお架りになり、私達の自己満足、他者排除を滅ぼしてくださいました。十字架の御救いを信じて生きることが、「ぶどう園の労働者」になることなのです。「ぶどう園の労働者」はそこで働くことが、喜びとお恵みであり、もはや報酬をいただいていることになるのです。現実を「神の国」に生きる者へと導かれているからです。
<祈祷>
聖なる御神様。信仰の人生へとお導きくださり感謝致します。さらに多くの人々がぶどう園の労働者になりますよう。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。