説教「喜びの歌をうたう」

2013年2月3日、六浦谷間の集会
「受難節前第2主日

説教、「喜びの歌をうたう」 鈴木伸治牧師
聖書、詩編126編1〜6節
   ヘブライ人への手紙4章12〜13節
   ルカによる福音書8章4〜15節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・129「あがないぬしに」
   (説教後)讃美歌54年版・527「わがよろこび」


 本日は2月3日、世の中では節分と言われ、豆まきが行われます。大塚平安教会在任の頃は、ドレーパー記念幼稚園の園長も担っていましたので、子供たちと共に豆まきの行事を行いました。それに対して、キリスト教の幼稚園がどうして豆まきを行うのか、保護者から質問を受けたことがあります。その質問には、マタイによる福音書4章に記されている、イエス様が悪魔から「誘惑を受ける」内容を説明し、私達も常に悪魔と戦わなければならないことをお話していました。毎年、この時期になると幼稚園の豆まきと保護者の質問をお話していましたが、今回はその程度にとどめておきます。
 隠退教師になって時間が自由になったものですから、昨年の今ごろは瀬戸神社の豆まきを見学し、その感想をブログに書いています。その辺りを少し引用しておきたいと思います。「昨日は節分であり各地で豆まきが行われた。大きな神社では多くの人々が幸福の豆を受け取りに出かけたのである。災害、不景気等は鬼であり、それらの鬼を追い出して、福を呼び込みたいとの素朴な思いなのである。今まで豆まきの現場に行ったことがない。当然なのであるが、一度豆まきのイベントを見てみたいと思っていた。その現場を昨日の散歩のついでに見ることになる。金沢八景駅の近くにある瀬戸神社の前を通る時、豆まきは3日の午後3時から六回にわたり行うことが掲示してあった。だいたいいつもの散歩の時間であるので、これは一つ、その状況を見なければと心を躍らせて出かけたのである。午後3時に出かけ、追浜、天神橋、野島を通って瀬戸神社に着くのは4時の少し前である。追浜には雷神社があるが、既に豆まきは終了したとの張り紙があった。ここの豆まきも見たかったのであるが、時間を確認していなかったからである。
瀬戸神社に着いた時、豆まきは既に何回か行われていたようである。次は4時からと言うことであり、少しの時間待っている。自分ながら、この熱心さに笑ってしまう。いよいよ豆まきが始まった。大きな神社には大勢の人々が参集するのであろうが、50人くらいの人々のようである。豆を蒔く人は有名人でもなく、5、6人の子供たちと大人が2、3人である。「福はうち、福はうち」と言いながら豆を蒔く。しかし、その豆は透明の袋に入れてあり、大豆をそのまま蒔くのではなかった。従って、いくつか入っている豆の袋を拾うのである。良いお土産にもなる。それに豆が地面に散らからないし、なるほどと思ったのであった。それから気がついたことは、「福はうち」と言いつつ蒔いているが、「鬼はそと」の言葉は聞かれなかったということである。テレビの報道による豆まきでは、たしか「鬼はそと」と言いながら蒔いていたと思う。ここではその言葉はなかった。
鬼は外に追い出されてどこに行くのか、と言うことなのであろう。ここにいる皆さんの中にいる鬼は外に出て行っても、別の人にその鬼が入り込んだら、申し訳ない。だから、自分の中にある鬼以上に福で満たされればよいのである、と理解したのであるが。そのような素朴な理解は聖書にも記されている。一人の人が悪霊に取りつかれている。暴れたり、叫んだりしている。そこにイエス様がやって来て、悪霊にこの人から出て行けと命じるのである。悪霊はこの人から出て行くが、豚の中に入らせてくれと言う。イエス様はそれを許す。するとそこにいた2千匹の豚が湖の中に飛び込んでしまったのである。一人の人が悪霊から解放された。すると人々はイエス様にこの地方から出て行ってもらいたいと申し入れる。これ以上、豚が犠牲になっては困るからである。イエス様は一人の存在を大切にするあまり、豚を犠牲にしたのである。しかし、人々にとっては一人の人間の回復より、豚の方が大切なのである。(マルコによる福音書5章1節以下)。一人の存在を大切にするより、文化の発展こそ大切であると考えるのは、現代でも言えることである。」
「福はうち、鬼はそと」と平安を呼び込むのでありますが、真の平安は、神様の御心をいただき、それによって祝福へと導かれることなのであります。御言葉の働き人にならなければならないのであります。

 旧約聖書には「祝福と呪い」がはっきりと示されています。一つの例は、申命記11章13節以下に「祝福と呪い」に関しての示しが記されています。「もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる」と示されています。つまり神様の戒めを大切にし、忠実に従うならば、お恵みが与えられるということなのです。ここでは秋と春の雨が降り、お恵みが豊かになると言うことなのです。それが祝福なのです。神様の戒めに聞き従わないならば、呪いを受けると言うことになるのです。呪いをうけると言うことは、秋の雨も春の雨も降らないので、収穫も無く、食べるものに窮することになるのです。この申命記は、モーセが人々に対して、改めて神様の戒めに生きるよう教えているのですが、もともと戒めには「祝福と呪い」がついていました。すなわち、奴隷の国エジプトを出てから、シナイ山の麓で宿営している人々に十戒が与えられました。十戒は人間が生きる基本的な約束事です。十戒の第二戒は「あなたはいかなる像も造ってはならない」と示し、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾先代にも及ぶ慈しみを与える」と規定しているのです。十戒をいただいて守るのか、守らないのか、と問われています。「祝福と呪い」に分かれることになるのです。
 日本の豆まきのように、幸せを呼び込むのではなく、幸せに生きるために、神様の御心に生きることが求められていることなのです。今朝は詩編126編が示されています。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰って来る」と詩人は歌っています。この詩編126編は「都に上る歌」とされています。この「都に上る歌」は詩編120編から始まり134編まで続いています。都に上るのは聖書の民、イスラエルの人々がお祭りのときに各地から都に集まって来るのですが、道々、神様に対して賛美の歌を歌いながら都に集まって来るのです。いろいろな状況の歌が含まれていますが、この詩編126篇は「捕われ人」が背景になっています。「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった」とまず記されています。従って、この詩人は捕われの人々を心に示されて、都の神殿にお参りに行く思いで歌っているのです。聖書の人々が捕われの身にあると言うことは、バビロン捕囚と言うことでありましょう。大国バビロンに滅ぼされたエルサレムは、多くの人々がバビロンに連れて行かれ、悲しみと苦しみの生活を送っているのです、しかし、詩人が歌うように、明るい希望が見えて来ているのです。そのことをはっきりと示しているのが、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰って来る」と歌っていることなのです。種を蒔けば、必ず収穫があると言う土地柄ではありません。むしろ、種を蒔くことは死の行為でもあるのです。種を地の中に入れるのですから、収穫とは結びつかないこともあるのです。ある意味では無益なことなのかもしれません。その無益な行為を「種の袋を背負い、泣きながら出ていく」人もあるのです。それが「喜びの歌と共に刈り入れ」、「束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」のです。神様のお導きであり、最初にも記されているように、「わたしたちは夢を見ている人のようになった」のであります。この夢は実現するのです。捕囚で捕われの人々はバビロンの衰退により、ペルシャのキュロス王に滅ぼされ、解放されることになるのです。苦しい状況に生きているときでも、主の御心に生き続けること、祝福の道であることを示しているのです。

 神様の御心により生きるならば、祝福の人生へと導かれることが旧約聖書の主題であれば、主イエス・キリストもまた、神様の御心に生きることを導いておられるのです。今朝のイエス様のお示しはルカによる福音書8章4節以下に記されている「種を蒔く人」のたとえ話です。このお話はマタイによる福音書、マルコによる福音書にも記されていますので、良く知られています。種を蒔く人が種蒔きに出ていきます。蒔いているうちに、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまったと言います。他の種は石地に落ちました。そこは畑でありますが、端のほうであり、あまりたがやかされていないので、石がたくさんあるのです。種は芽が出ますが、水分がないので枯れてしまいます。他の種は茨の中に落ちました。雑草の中です。そこでは芽が出ますが、雑草に邪魔されてしまうのです。他の種は、ほとんどの種ですが良い土地に落ちて、百倍の実を結んだというお話です。このたとえ話についてはイエス様ご自身が説明をされています。8章の11節以下です。イエス様は、種は神の言葉であると示されています。道端に落ちた種は、結局は地面に入らないので、悪魔が人の心から御言葉を奪い去るのだと言われます。石地に落ちた種は、芽が出るものの、根がないので、すなわち根性がないので身を引いてしまうと言われています。茨の種は、覆いかぶる雑草で、すなわち人生の思い煩いで実を結ばないのであると言うのです。そして良い土地に蒔かれた種は百倍の実を結ぶと教えられているのです。このイエス様のお話により、私は実を結んでいないので、道端とか石地、そして茨の状況に自分をあてはめる人がおられます。私は道端だから御言葉は育たない、本当にそのように思っているのでしょうか。茨のような私なので、いろいろなことが心にあって、御言葉のようには行かないと思っている人もいるでしょう。私は、このイエス様のお示しに対して、自分を一つの姿にあてはめることではないとしています。ある場合には石地であり、ある場合には道端であり、ある場合には茨のような立場になるでしょう。しかし、良い土地に落ちた種が百倍の実を結ぶ、そういう姿も私達にはあるのです。だから、一つの姿に自分をあてはめるのではなく、これらの姿を持ちながらも、基本は良い土地で種がまかれる姿勢であるのです。いつもはそのように示されていますが、今朝は旧約聖書のメッセージをいただきながら、「種を蒔く人」のたとえを示されたいのであります。

 私達夫婦が住んでいる六浦の家は、約7年前に昔からあった、築60年以上の家を解体し、新しく造り直した家であります。家を解体した後は、敷地を更地にしました。そして、新築しましたが、園芸を楽しむ程度の庭もあり、連れ合いのスミさんは園芸ができるので喜んでいました。しかし、更地にしてからは、庭としての土は良くないということです。それでいろいろな土を入れては園芸をしているのですが、まだ良い土地とは言えないと言うわけです。土地があってもふさわしくない土地もある訳です。旧約聖書詩編で示された言葉の通りだと思います。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈りいれる」と歌われています。土地がある。だから種を蒔く。芽が出て収穫になる。そういう経路が喜ばしいのですが、この土地は必ずしも良い土地ではないのです。畑としての土地ですが、種を蒔いても芽が出ないこともあるのです。土地のことで示されていますが、人々に対する伝道と言うことでも示されるでありましょう。幼稚園の保護者の皆さんと「聖書に親しむ会」を続けること30年、お母さん達はいつも熱心に聖書の勉強をされていました。ですから、そこはとても「良い土地」なのです。しかし、必ずしも「良い土地」であっても、芽が出ないこともあるのです。「良い土地」は家庭集会にお集まりの皆さんです。皆さんは喜んで聖書のお話を聞いてくださるのです。「良い土地」に蒔かれた種は芽が出て実を結ぶのですが、今のところ実を結ばないのです。それでも、「良い土地」に種を蒔く使命、喜びが与えられているのです。
 前任の大塚平安教会を退任してから、一年後くらいになるのでしょうか、教会に関係する施設の職員の方が夫婦で洗礼を受けられました。その施設では職員礼拝、利用者の礼拝をささげていました。洗礼を受けた方は職員礼拝には出席していましたが、教会の礼拝には出席していませんでした。私が退任してから、教会へと導かれたことを伺ったとき、私は詩編126編を口ずさんでいたのです。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰って来る」。「良い土地」を与えられていることに感謝することです。「良い土地」には主イエス・キリストがおられるのです。イエス様はこの「良い土地」に死んでくださったのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12章24節以下)と示されています。私達は今の現実を「良い土地」として生きることです。この土地に十字架が建てられていることを信じ、「良い土地」と信じて、種を蒔き続けるのです。御言葉をいただいて生きる喜びを持ちながら、ここは「良い土地」であることを信じて、種を蒔き続けることであります。喜びの歌が聞こえて来ています。私自身も喜びの歌をうたうでしょう。
<祈祷>
聖なる御神様。私の中に種を蒔いてくださり感謝致します。「良い土地」になって百倍の実を結ばせてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。