説教「すべてのものが生き返る」

2012年7月8日、横須賀上町教会
「三位一体後第5主日

説教、「すべてのものが生き返る」 鈴木伸治牧師
聖書、エゼキエル書47章1-12節
   ルカによる福音書5章1-1節

賛美、(説教前)讃美歌21・353「父・子・聖霊の」
   (説教後)讃美歌21・456「わが魂を愛するイエスよ」


 今朝の新約聖書ルカによる福音書はイエス様がお弟子さんをお選びになったことが記されています。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とのお言葉をいただいて、ペトロを始め、ヤコブヨハネがイエス様のお弟子さんになったのであります。今朝のこの聖書に向かう中で、先日の神奈川教区総会における准允式を思い起こしていました。准允式ではこちらの宮澤恵樹先生も受けられており、大変喜ばしいことでございました。この総会では5人の皆さんが准允を受けられましたが、その中でも3人の方が知り合いであり、私共夫婦も出席してお祝いしたのでした。宮澤先生と共に小林美恵子さんも准允を受けられました。この方は、私が大塚平安教会に在任の頃、神学校で学ぶことをお勧めしたのです。神学校に入るということは伝道者になることであり、小林さんの信仰の歩みを示されながら、伝道者の道をお勧めしたのです。それから石丸泰信さんという方は、この方は連れ合いの友達の弟さんのご子息であり、その弟さんともお交わりが導かれていました。その弟さんは日本基督教団の世界宣教委員会の幹事としてお務めになっておられましたので、私も教団書記として石丸泰信さんの父上とは共に職務を担ったのでありました。知り合いの皆さんが准允を受け、伝道者としての歩みを深めて行かれること、心からお祈りしたのでした。
 准允とは、日本基督教団は神学校を卒業するときに補教師試験を受け、合格した皆さんがそれぞれの教会に派遣するのですが、教区総会にて准允式が執行されるのです。准允を受けた皆さんは伝道師と称され、主として御言葉に仕えつつ教会の職務を担うのであります。そして、正教師試験に合格し、そこで按手礼をいただき、牧師としての職務をもつことになるのです。その日を祈りつつ、伝道師の宮澤先生を中心に横須賀上町教会の歩みを共に担っていきたいのであります。
 教会はそれぞれの地に建てられていますが、何よりも主イエス・キリストの福音を世の人々に宣べ伝えて行くことが使命であります。福音を宣べ伝えたら、世の人々が教会に集まるのか、なかなか集まらないということが現状です。それでもあきらめないで福音を宣べ伝えて行くことが伝道というものです。私は神学校を卒業してから東京の青山教会で伝道師、副牧師を担いましたが、4年後に宮城県の陸前古川教会に牧師として赴任しました。前任の牧師は40年間、教会の牧師と幼稚園の園長を務められたのです。その頃の私は33歳でした。その若さで希望をもって教会の業に励んだのでありますが、なかなか信者は増えないことで、自信を失う思いでした。それで、前任の牧師、後藤金次郎先生に手紙を書きました。後任として牧師に就任しても、なかなか信者が増えない力の弱さを感じます、というような手紙であったと思います。すると、その後藤先生からお手紙をいただきました。お手紙には「世の人々は、なかなか教会には来ないものですよ。信者は増えないものですよ。ただ御言葉を続けることが伝道者の務めです」という内容であったと思います。その手紙を読んで、何か力が抜けたような思いでした。力が抜けたというのは、やる気がなくなったというのではなく、力を入れて職務を担っていたわけですが、身構える姿勢、やるんだという意気込み、そういう肩の力が抜けたということなのです。力を抜いて、御言葉に仕える、そのような姿勢へと導かれたのでした。
 イエス様が天に昇られる前、お弟子さん達と食事をしているとき、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」とお話しました。するとお弟子さん達は、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と肩に力を入れて尋ねるのです。聖霊を授けられて、いよいよ力強く働くのだと思うのです。その時イエス様は「時や時期はあなたがたの知るところではない。聖霊をいただくと力を受ける」と言われ、肩に力を入れるお弟子さん達をしずめておられます。神様の御導きに委ねなさいと示しているのです。

 今朝の説教は「すべてのものが生き返る」との題ですが、すべての存在が神様の恵みに導かれていることを示されるのであります。旧約聖書エゼキエル書47章から示されます。エゼキエルという預言者は、聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、多くの人々が捕われてバビロンに連れて行かれるのですが、エゼキエルもその一人でした。捕われの人々を捕囚の民と称していますが、エゼキエルは捕囚の中で過ごすうちにも神様の御心を人々に伝える預言者ヘと導かれるのです。エゼキエル書は48章をもって終わりますが、当初は聖書の人々に対する神様の審判を述べていました。神様の御心に従わなかった人々への審判こそバビロン捕囚であるということです。しかし、今、バビロンの空の下で苦しみつつ生きる人々に、エゼキエルは解放を告知します。救いが差し迫っていることを示すのです。エゼキエル書の37章では「枯れた骨」の復活が示されています。幻の内に人々が立ちあがることを示しています。谷間の平原に枯れた骨が散らばっているのです。神様の言葉を与えると、骨と骨があい連なり、人間の形になって行きます。そこに神様の霊が風のように吹きまくるのです。彼らは生きた存在として立ちあがっていくことが示されています。それは使徒言行録で示されている「激しい風が吹いて来るような音」、すなわち聖霊の導きなのです。気落ちしていた人々が立ちあがることを示していました。このエゼキエル書の47章になると、人々が楽園に導かれることを示しているのです。
 今、エゼキエルは幻の内に神殿の入口に導かれています。見ると神殿の敷居の下から水が湧きあがっています。最初はちょろちょろと少しの水ですが、それが次第に水嵩が増えて行く様を描いています。最初はちょろちょろですが、1千アンマ付近では足のくるぶしくらいの水嵩になります。1アンマは45㎝ですから450m付近です。さらに1千アンマずつ測っていくと、立てなくなり泳がなければならない水嵩になるのです。神殿から東の方角に水が流れ出していくこと、これは神様の命の水が全地へと注がれていることを示しているのです。創世記にもエデンの園から全地に水が流れ出していることが示されていますが、まさに神様の命の水が人々に送られていることを示しているのです。47章8節、「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れるところでは、水がきれいになるからである。この川が流れるところでは、すべてのものが生き返る」とエゼキエルの預言は示しています。
 あなたがたはいつまでも苦しみの中に生きるのではない、命の水を与えられて生き返り、祝福の人生が与えられると示しているのです。

 その祝福の人生の働き人になりなさいとイエス様が示しておられます。ルカによる福音書5章1節から11節はお弟子さんが選ばれることが記されているのですが、エゼキエル書で示されましたように、神様のお恵みが「すべてのものが生き返る」ことを示しているのです。イエス様はゲネサレト湖畔に立っています。この地域はガリラヤ湖の一角で、イエス様はこの場所で人々に福音を宣べ伝えていたのであります。多くの人々が来たので、イエス様は一艘の船に乗り、船の上から群衆にお話をしたのでした。ここには二艘の船があり、いずれも漁師さんたちは後片付けをしていたのです。だから漁師さんたちは後かたづけをしながらもイエス様のお話を聞いていたのです。お話が終わると、イエス様はシモン・ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。するとシモン・ペトロは「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というのでした。夜通し漁をしたのです。魚は日中は暑いので湖面には上がってこないので、夜の仕事になります。しかし、夜通しの働きに対して魚は獲れませんでした。まして、もはや陽が昇っているので、そんなことは不可能であるのですが、シモン・ペトロはイエス様のお言葉に従いました。すると、網が破れそうになるくらいの魚が獲れたのでした。それで仲間であるヤコブヨハネの漁師さん達を呼び、二艘の船に魚をいっぱいにしたのでした。こんなに不思議なことがあるのか、と思うと共に、ペトロは主イエス・キリストを仰ぎ見たのでした。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白したのでした。
 ペトロの告白は何を見たのでしょうか。この湖は嘆きの場ではないということです。魚が何も取れない湖ではなく、すべてが生き返る湖になっていることを示されたのです。エゼキエル書のメッセージとどう関わるのかということですが、水がきれいになり、すべてのものが生き返るのです。エゼキエル書をもう少し読んでみると、10節「漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干すところとなる。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる」と記しています。神様の都から命の水が世界に流れているのです。一匹も取れない魚の故に、恨みを持つ必要がなくなるのです。この湖は神様の都から流れてきた水により、祝福の場になっているのです。豊かに恵みが与えられるのです。シモン・ペトロは獲れなかったのに、多くの魚が獲れたことに対する恐れではなく、現実の中に神様の命の水が注ぎ込まれていることに恐れたのです。まさに神様は命の水を与えて、すべてのものを生き返らせてくださることを示されたのです。
 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と主イエス・キリストのお招きをいただいたペトロは、「命の水」が注がれている世界の働き人へと導かれたのでした。夜通し漁をしても、何も獲れない湖ではなく、網を入れれば破れるくらいの漁となる、そういう場の働き人に導かれたということです。「命の水」とは、実に主イエス・キリストの福音であります。イエス様が十字架にお架りになり、世の人々を真にお救いくださる福音なのであります。その福音の「命の水」は全世界に流れ出ているのです。聖書の国イスラエルゴルゴダから流れ出て、この日本の国にも「命の水」が流れて来ているのです。この「命の水」に与ると、「すべてのものが生き返る」のであります。

 主イエス・キリストより先に現れて、神様の御心を人々に伝え、洗礼を施していたバプテスマのヨハネは、時の王様ヘロデの怒りを買い、牢屋に入れられていました。そのヨハネが自分の弟子をイエス様にのもとに遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねています。「自分の後には真の救い主が現れる」と予告したヨハネですが、その救い主がイエス様なのか確信できなかったのです。するとイエス様は、「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている」と答えたのでありました。イエス様の福音、「命の水」をいただく人々は「生き返る」のです。「目の見えない人」や「耳の聞こえない人」とは、自分の思いで見聞きしていたのですが、真に人々の存在を見聞きするように導かれることです。「足が不自由」であるとは、自分の好きな場所にしか行かない人です。どのような場にも赴く足が与えられるのです。自分にとって不都合な存在であったとしても、「命の水」をいただいている今、自ずと赴いて行くのです。死んだように自分を見失っていることから、「命の水」が生き生きとした人生へと導いてくださるのです。
 ペトロさん達漁師が夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。しかし、イエス様の御言葉に従って網を下したとき、おびただしい魚が取れたのは、「命の水」の中にいた魚であったのです。神の都から流れ出た水がガリラヤ湖にそそぎこまれ、その「命の水」の中にいた魚であったのです。
 私が前任の大塚平安教会に赴任したのは40歳の時でした。そのとき大塚平安教会は創立30周年の年であり、記念の時を開く予定でしたが、牧師の交替があり、開催できませんでした。その後、35周年になり、記念の時を持ちました。記念誌を発行したり、35周年のお祝いを開きました。教会に関わりのある土地の人々をお招きしました。そのとき市会議員であり、土地の名士でもある方が祝辞を述べてくださいましたが、その言葉が深く心に示されており、またエゼキエル書の「命の水」とも関連して心に残っています。その方が言われたことは、「自分としては小さいときに日曜学校に来たりしたが、その後は教会を外から眺めているだけである。しかし、いつも教会を見ながら通る度に、何か平安というか、心が落ち着くというか、ただここに教会があるだけで希望が与えられている」という内容であったと思います。人々は教会には来ません。しかし、教会の存在が「すべてのものが生き返る」基となっているのです。この教会から世の人々に「命の水」が流れて行っているのです。「命の水」の中にいる世の人々をお招きするのです。その務めを与えられている私達を、今朝は示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。「命の水」を与えてくださり感謝致します。「命の水」の中にいる世の人々を教会に招くことができますよう。キリストの御名によりおささげします。アーメン。