説教「共に生きるために」

2012年7月1日、六浦谷間の集会
「三位一体後第4主日

説教、「共に生きるために」 鈴木伸治牧師
聖書、創世記45章1-8節
   ローマの信徒への手紙14章1-10節
   ルカによる福音書6章37-42節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・322「神よ、おじかの谷川の」
   (説教後)讃美歌54年版・522「みちにゆきくれし」


 本日、7月1日は大塚平安教会の笠倉昭子さんのご子息、正道さんの召天記念日になります。1982年7月1日に召天されましたので、今年で30年を経ています。笠倉正道さんについてはしばしば証しを示されていますが、召天記念日にあたり、その証しを振り返っておきましょう。笠倉正道さんは笠倉祐一郎さんと昭子さんの一人息子でした。彼と私達が出会うのは、私達が1979年9月に大塚平安教会に赴任しますが、その一年後の1980年の秋になります。私が不在の水曜日祈祷会に出席したのでした。牧師がいない祈祷会でしたが、神学生の長内敬一さんや連れ合いのスミさんが、いろいろと話し相手になってあげました。その後、彼は牧師を訪ねてきたのです。もともと彼はドレーパー記念幼稚園の卒業生でありましたから、教会に来る気になったのです。彼は大学受験の浪人中で、受験勉強をしている訳ですが、勉強に疲れたと言っては牧師を訪ねるようになりました。そして、春になり、大学の入学試験に合格したとの知らせを受けました。かねがね合格したら教会の礼拝に出席すると言われていましたが、合格したものの礼拝には来ませんでした。それで家に電話しますと、腰痛で整形病院に入院しているということでした。私達夫婦はその整形病院に彼をお見舞いしたのでした。その後、またお見舞いしましたら横浜市大病院に転院したということでした。後で事情を聞きましたことは、腰痛のつもりでいたのが、腰に腫瘍ができていたということなのです。整形病院は判明できなくて腰痛の治療をしていたのでした。市大病院に運ばれ、すぐに手術しますが、もはや手遅れでありました。結局、彼は下半身麻痺となり、車椅子の生活になったのです。入院中の彼を、私は毎週木曜日の午後に訪問していました。一緒に聖書を読み、それについて話し合い、その他、いろいろな話をしていました。彼はパラリンピックに出場して、同じような境遇の皆さんを励ましたいと言っていました。そのように希望をもっていましたが、腫瘍の転移が判明したのです。彼は退院して、教会で洗礼を受けたいと言っていました。しかし、病状の悪化は進むばかりです。それでお父さんの祐一郎さんが、自分も一緒に洗礼を受けるから、この病室で洗礼を授けてもらおう、と彼を説得したのでした。そして5月30日の日に病室の洗礼式が執行されました。教会の皆さんも一緒に列席して親子を祝福したのです。そして、その一ヶ月後7月1日に天に召されていったのです。
 市大病院に入院するようになって、私は礼拝説教において、折に触れて彼のことを話していました。幼稚園の卒業生であり、病床にあって求道されていることを皆さんにお話しし、お祈りしていただいたのです。それで、教会の皆さんも、今までお会いしたこともないのに病院の彼をお見舞いしてくれるようになりました。教会の皆さんが結束して彼のためにお祈りされたのです。教会の青年の中には、笠倉正道さんをルルドの泉に連れて行こう、とまで言うのでした。彼の葬儀は大塚平安教会で行われましたが、大勢の皆さんが参列されました。お母さんの昭子さんはその年のクリスマスに洗礼を受け、ご夫婦で教会員として歩むようになったのでした。
 笠倉正道さんのことを思うとき、教会の皆さんが「共に生きるために」、一度もあったことのない正道さんを心からお祈りしていたことを示されるのでした。一人の存在をしっかりと心に留め、共に生きること、それは神様が私達に求めておられることなのです。

 今朝の旧約聖書は創世記のヨセフ物語です。今朝の聖書はエジプトの大臣になっているヨセフと、ヨセフを奴隷として売り飛ばした兄弟たちとの涙の再会が記されています。ヨセフにとって自分を殺そうとしたり、奴隷として売り飛ばした兄弟たちは憎むべき存在です。しかし、ヨセフは今に至る境遇はすべて神様のお導きであると受け止めるのであります。だから、本来は憎むべき兄弟たちですが、ヨセフは再会を心から喜んでいるのです。そこに至る経緯を見ておきましょう。
 ヨセフは父ヤコブの11番目の子どもでした。ヤコブは、このヨセフは最愛の妻ラケルの子どもであり、その意味でも誰よりもヨセフを愛したのでした。古代のことですから、一夫多妻の時代でもありました。ヤコブは最初にラケルを愛し結婚を申し入れます。しかし、しきたりとして姉が先に結婚しなければなりません。それでヤコブ不本意でありますが、まず姉のレアと結婚し、次に妹のラケルと結婚することになるのです。姉のレアには子どもが数人与えられますが、妹のラケルには子どもできませんでした。子どもを与えられることが祝福と考えていましたから、ラケルは自分の代わりにラケルに仕える女性から子どもを得るのです。それに対して姉のレアも自分の使える女性から子どもを得るのでした。そういう姉妹の争いがありますが、ようやく妹のラケルにも子どもが与えられます。ヨセフとベニヤミンでした。ヤコブはヨセフが自分の年をとってからの子どもであり、最愛の妻ラケルの子どもであることから、ヨセフには特別な愛を注ぐのです。それで他の兄弟たちはヨセフをねたみ、野原で殺そうとまでしますが、たまたま通りかかったエジプトに赴く商人に奴隷として売り飛ばしてしまいます。父ヤコブには、ヨセフが獣にかみ殺されたと報告したのでした。
 ヨセフには夢を解く不思議な賜物がありました。自分が見た夢を兄弟たちに話すことにより、いっそう兄弟たちから反感を買っていました。奴隷としてエジプトに売られたヨセフは、王様の不思議な夢を解き明かします。それによりヨセフはエジプトの大臣になるのです。全国的に飢饉が起こり、エジプトには食料があるというので、ヤコブの子ども達、ヨセフの兄弟達が食料の買い出しにやってきます。兄達であることを知るヨセフでしたが、当初は黙っていました。そして、再び食料の買い出しにやって来た兄弟たちに身を明かすのです。それが今朝の聖書です。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」とヨセフは恐れる兄弟たちに言うのでした。ヨセフを殺そうとしたり、奴隷として売り飛ばした兄弟たちに、これは神様の救いの導きであると受け止め、兄達を裁くことも、断罪することもありませんでした。神様の導きとして兄達を赦し、御心に従うことを示したのであります。物語は淡々と述べられていますが、ここには深いヨセフの思いがあったことでしょう。裁くことなく赦し、共に生きようとしているヨセフの姿は、神様が人間に求めている普遍的なことなのです。

 この普遍的な神様の御心を示している主イエス・キリストルカによる福音書は記しています。今朝はルカによる福音書6章37節以下であります。今朝のルカによる福音書の前後は、同じような教えがマタイによる福音書にも記されています。マタイによる福音書は5章、6章、7章に「山上の教え」として、イエス様の教えが集中的に記されています。このルカによる福音書は6章にイエス様の教えが集められています。
 今朝の6章37節以下の教えは、前の段落27節以下と関連しています。27節以下では、「敵を愛し、あなたがたを憎む者には親切にしなさい。悪口を言う者には祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたがたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪う者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している」と教えられています。これらは受け身の生き方ではなく、積極的な生き方です。相手の生き方で自分の生き方があるのではなく、自分の生き方はこのようであることを証しすることなのです。そして、前の段落の結論として示されていることが、36節「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」ということなのです。私たちが人の生き方によって左右されるのではなく、自分の生き方を前面に出して生きるのは、神様が私に対して積極的に取り扱ってくれるので、その神様の愛に押し出されることなのです。
 こうして神様の愛に押し出されて生きる第二段階として37節以下が示されているのです。いずれも第一段階で示されていることを深めるためなのです。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」と示されています。「人を裁かない」と言うことは、一人の存在として尊重することです。これは41節で示されていることと同じです。「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある丸太に気がつかないのか。まず、自分の中から丸太を取り除きなさい」と示されています。日本のことわざにも、「他人の振り見て、我が身を正せ」と言われていますが、人の悪い姿はすぐに気がつくのに、そして自分も同じ様なことをしているのに気がつかない、と言うわけです。
 前任の大塚平安教会時代、教会と関係する施設、綾瀬ホームやさがみ野ホームに行き、利用者の皆さんと礼拝をささげていました。時々、この聖書「おが屑と丸太」のお話をすることがあります。30年も一緒に礼拝していると、同じ聖書の場所を繰り返しお話することになります。利用者の皆さんは「おが屑と丸太」のお話をよく覚えていて、「おが屑」のお話を始めると、あちらからもこちらからも「丸太、丸太」という声が聞こえてくるのです。「おが屑」でも目に入れば、痛くてどうにもならないわけですが、まして「丸太」なんか目に入るわけがないことは分かっているのです。利用者の皆さんは、そのまま理解しようとしているのです。「丸太」なんか目に入らないと言わけで、このお話を笑いながら聞くのでした。人の中にある小さな事柄が気になって、自分の中にある大きな事柄に気がつかないことの指摘です。だから、「人を裁いてはなりません」と教えられているのです。
 「人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」と第二段階で示されています。第一段階では、人から被ることに対して、積極的に愛に代えて行くことを示されました。「あなたを憎む者に対して」、「悪口を言う者に対して」、「侮辱する者のために」積極的に生きることを示していたのです。第二段階では、人から被る事柄ではなく、自分が他者に対してどう対処するかを示しているのです。第一段階では、人から不利なことを被ることに対しての、積極的な生き方でした。第二段階では、積極的に他者を一人の存在して、共に生きる者になりなさいと示しているのです。これらの教えの原点は、36節で示されているように、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と言うことです。神様が私を憐れみ深くしてくれるので、私達も他者を受け止めて行くのです。私たちが「共に生きる」ためなのです。私たちが共に生きるとき、この地上は神の国になるからです。
 このように主イエス・キリストは神様の普遍的人間の生き方を教えておられます。しかし、人間は教えられて喜びつつも、神様の深い憐れみを忘れて、あるいは見失って、人を裁きながら生きることになるのです。そのため主イエス・キリストは人間を根本的にお救いになるために十字架にお架りになられたのです。イエス様が十字架によって血を流しつつ死んだとき、人間の中にある原罪、自己満足、他者排除をも滅ぼされたのでした。人間は十字架を仰ぎ見て、十字架による救いへと導かれるのです。

 人間の普遍的な生き方をイエス様によって示されるとき、私達の現実は神様の導きであることを深く受け止めたいのであります。そのことは旧約聖書のヨセフ物語により示されました。兄弟たちの妬みにより殺されようとし、奴隷として売られたヨセフは、それが神様の導きだとは分からず、最初は兄弟たちを恨み、憎んだに違いありません。しかし、自分がエジプトの大臣になり、王様の夢を解きあかし、その夢のようになっていくとき、これは神様の大いなる導きであることを知るようになるのです。そして、あの憎むべき兄弟たちが食料を求めてエジプトにやって来ることは目に見えて明らかでした。ヨセフにとって、もはやその時点で憎しみはありませんでした。これは神様の御心にあることであり、自分が兄弟と家族より先にエジプトに来たことの、神様の導きを知るようになるのです。
 今の現実は悲しみであるのかもしれません。いつまでも続く苦しみと思っています。しかし、今の私に御心が働いていること、それは必ず祝福への道であるのです。最初に示された笠倉正道さんの21歳の若さで天に召されたことにしても、「何で、このような若さで」
と思うのです。しかし、父上も母上も十字架の救いが与えられ、今は高齢者ホームで一人の生活をするにしても、教会の多くの皆さんとのお交わりが導かれているのです。現実は理解できなくても、祝福の歩みへの第一歩であることを示されましょう。神様の憐れみ深さをいただきながら、私達も憐れみ深く「共に生きる」者に導かれているのです。
<祈祷>
聖なる神様。神様の憐れみを感謝致します。現実は神様のお導きであることを深く受け止めさせてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。