説教「傾聴の神様に向かいつつ」

2012年6月24日、六浦谷間の集会
「三位一体後第3主日

説教、「傾聴の神様に向かいつつ」 鈴木伸治牧師
聖書、列王記上8章46-53節
   テモテへの手紙<一>1章12-17節
   ルカによる福音書15章11-24節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・319「わずらわしき世を」
   (説教後)讃美歌54年版・512「わがたましいの」


 前週の6月19日、秦野にある「神の庭・サンフォーレ」に赴きました。礼拝を担当し、その後開かれる「支える会」総会に臨むためです。キリスト者の高齢者ホームとして発足してから、今年で14年目を迎えています。神奈川教区の中にキリスト教の高齢者ホームを造ろうと言うことで、調査・研究を始めたのは私が50代半ば頃でした。それが、今では私自身が高齢者になっており、「支える会」委員長になっているのですから、複雑な思いで担っている訳です。「神の庭・サンフォーレ」に入居される皆さんをキリスト教にあって支えるのが「支える会」です。隔週に礼拝を捧げています。いろいろな牧師が来ては礼拝を担当してくれています。教会のグループが讃美歌を歌う会を開いてくださったり、ピアノやその他のコンサートを開いてくれたりしています。「支える会」は主事をおき、入居者の皆さんの牧会を担っています。いろいろなボランティアが関わってくれていますが、その中に傾聴活動してくださる方もおられます。入居者の皆さんの話し相手になってあげると言うことです。その傾聴のボランティアを担ってくれているのが土屋忠雄さんです。この方は大塚平安教会の教会員で、30年間牧会するなかで、共に教会の歩みを担ってくださっていました。その土屋さんが傾聴の奉仕をしてくださっていることは、まことに感謝です。お年寄りのお話を聞いてあげると言うこと、なかなか忍耐が必要です。
 「いのちの電話」と言う活動があります。悩み、心配、孤独にさいなむ皆さんの声を電話で聞く活動です。まさに色々な皆さんが電話をかけてくるのですが、応対する場合、ただ聞いてあげることが大切なのです。このような職務は、およそ牧師には向いていません。牧師はすぐに口をはさんで助言をしてしまうからです。ただ聞いてあげることが大切なのです。自分の気持ちを思いっきり話すということで、また自分の気持ちを聞いてくれたということで、解決には至らないのでしょうが、前向きになる場合があるのです。教会にも色々な電話がかかってきます。とりとめもなく、いろいろなことを話し続けるのですが、牧師として、ただ聞くことなのです。そのような人達は答えを求めているのではなく、とにかく自分の声を聞いてもらいたいとの思いなのです。
 高齢者ホームで入居者、お年寄りの皆さんの話し相手になってあげること、これは大切な職務であります。このことは高齢者でなくても、私達の姿でもあるのです。私達も自分の気持ちを誰かに聞いてもらいたいとの思いがあります。しかし、人間は聞いてもそれを他の人に話しますので、なかなか言えないことにもなります。このとき、まことの傾聴者は神様であることを示され、もろもろの思いを神様にささげたいのであります。

 旧約聖書は傾聴の神様を示しています。列王記上8章はソロモンの祈りが記されています。今、ソロモンは念願の神殿を完成させたのです。もともと神殿を造るのは父のダビデの願いでした、神殿を造って、そこに「神の箱」を安置するためです。神の箱の中には十戒がおさめられています。400年間、エジプトで奴隷であり、神様はモーセにより奴隷から脱出させました。そして、まず与えたのが十戒です。人間の基本的な生き方を示し、神様の祝福の民とするためです。その十戒を携えて荒野の40年間を歩むとき、折りたたみ式お宮さん、すなわち天幕に納めていたのです。旅の途上、宿営するときには天幕、幕屋を造り、神の箱を安置します。そして、また旅を続けるときには天幕をたたむのです。そして、ついに約束の地、カナンに定着するようになりましたが、十戒は天幕の中に置かれていたのです。ダビデは、自分は城の中にいるのに、神の箱をいつまでも幕屋に安置したままで良いのであろうかと思いました。それで、ダビデは神殿造りを思いたつのですが、神様がその思いを阻止するのでした。神殿造りは子どものソロモンであると示されたのです。ダビデの後を継いだソロモンは、早速神殿造りを始め、その完成が実現し、十戒を始め聖なる器等を神殿に納めました。そして、その神殿の前でお祈りを捧げたのであります。
 ソロモンの祈りを示されるとき、私達は神殿の意味、教会の意味ということを深く示されます。今朝の聖書の前の部分、8章27節以下にソロモンの神殿に対する思いが記されています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることはできません。わたしが建てた神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください」とお祈りしています。つまり、神様がこの神殿にお住まいになっているのではなく、神様の名が置かれており、神様がこの神殿に御目を注いでくださっているので、だから、この神殿に向かって祈りますから、その祈りを聞き届けてくださいとお祈りしているのです。ここに神殿の意味が示されています。
 この後、ソロモンの祈りは、神様が「耳を傾け」、祈りを聞き届けてくださいと繰りかえしお祈りしています。実に9回も「耳を傾け」てくださいとお祈りしています。そこで今朝の聖書になりますが、8章46節以下にも3回も「耳を傾け」てくださいとお祈りしています。その場合、神様に向かって罪を犯し、その罪を悔い改めて神様にお祈りするとき、「耳を傾け」てくださいとお願いしているのです。47節以下、「彼らが捕虜となっている地で自らを省み、その捕われの地であなたに立ち帰って憐れみを乞い、『わたしたちは罪を犯しました。不正を行い、悪に染まりました』と言い、捕虜にされている敵地で、心を尽くし、魂を尽くしてあなたに立ち帰り、あなたが先祖にお与えになった地、あなたがお選びになった都、御名のためにわたしが建てた神殿の方角に向かってあなたに祈るなら、あなたはお住まいである天にいましてその祈りと願いに耳を傾け、裁きを行ってください」とソロモンはお祈りしています。ここで大切なことは、神様に「耳を傾け」ていただくためには「罪を悔い改めること」であります。そして、神様が名をおかれると言われた神殿の方角に向くと言うことであります。たとえ、遠く離れていようとも、神殿の方角に向かって祈ると言うことなのです。神殿の方角に向くということは、神様に心を向けるということです。その神殿に神様は名を置かれており、その神殿を通してささげるお祈りに耳を傾けてくださっているからです。
 イスラム教は一日に5回の礼拝が義務付けられています。その時間にはメッカのカーバ神殿の方角に向かってお祈りを捧げるということです。問題は飛行機に乗っているときの礼拝です。飛行中で方角がわからなくなっているからです。そのためにウエブサイトで確認する方法が提供されたとか言われています。厳格なイスラム教の礼拝に対して、キリスト教はどこでもお祈りをささげており、方角については考えもしません。しかし、どこで礼拝をささげても、心に示されていることは所属する教会でありましょう。教会の方角に向けて礼拝をするのではありませんが、主イエス・キリストの体なる教会を示されつつお祈りをささげているのです。当然のことですが、神様に心を向けてお祈りをささげているのです。ソロモンのお祈りを通して、祈りの基本を示されています。

 新約聖書において主イエス・キリストも祈りの基本を示されています。ルカによる福音書15章11節以下は放蕩息子のたとえ話ですが、このたとえを通してイエス様はお祈りの基本を示されているのです。
 ルカによる福音書15章は、「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえをイエス様がお話されています。これらはいずれも「悔い改める罪人」に対して「大きな喜びが天にある」ことを示しているのです。二つのたとえは羊や銀貨でお話されていますが、三つ目のお話は直接人間の悔い改めを示しています。だから、悔い改めに至る経過も記されています。改めてたとえの内容をお話する必要はありませんが、今朝は「傾聴の神様」として示されていますので、その観点でお話を見つめておきましょう。
 「ある人に息子が二人いた」という設定です。弟は父親に、自分が受ける財産の要求をします。いずれは与えられる財産ですが、今のうちにもらいたいと申し出るのです。弟は財産を手にすると遠い国へ旅立ちます。そこで放蕩三昧に明け暮れるのです。父親から解放され、好き放題に遊んで過ごしたというわけです。そして、財産は瞬く間に使いはたしてしまうのでした。ところが、その地方にひどい飢饉が起こり、食べるに窮し始めるのでした。それでその地方の人のところに身を寄せるのですが、その人は彼を豚の世話をさせるのでした。聖書の人々は、豚は汚れた動物でありますから、彼がこのような仕事をしなければならないことはどん底におちたことを意味しているのです。しかも、彼は空腹のあまり、豚の食べているものを食べたくなるのです。そのとき、彼は「我に返った」のです。前に使用していた口語訳聖書は、「本心に立ちかえった」と訳していました。こちらの方が理解しやすいと思います。「本心」は聖書のギリシャ語ではプロスモスという言葉ですが、「進んでする気持ち」の意味があり、「熱心に、心から」と意味があります。従って、「本心に立ちかえる」のは、「仕方なく」ではなく、心から熱心に「父」に向いたということです。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう」と「父」に向いたのです。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と告白したのです。
 ここで旧約聖書のソロモンの祈りを示されます。ソロモンは神殿の中におられる神様としてではなく、神殿に神様のお名前が置かれており、神殿に向かってささげる祈りに神様が耳を傾けてくださる、と祈っているのです。神殿に向かって祈り、耳を傾けてくださる神様は、今、弟が遠い国で父の家の方角に向かって祈っている祈りに耳を傾けているのです。そして、神様が「耳を傾け」てくださるのは、罪の告白が前提でありました。弟は父の家、神殿の方角に向かい、罪の告白をして、心から祈っているのです。その祈りを、遠い国からであったとしても、神様は耳を傾けてくださっているのです。その姿は、ソロモンの祈りで示されたように、神様がしっかりとその祈りを聞いてくださっているのです。だから、父のもとに帰ったとき、父は遠く離れていても息子であることを認め、「雇い人の一人にしてください」とは言わせないで、弟息子の帰還を喜び、祝福したのでした。
 いつもは、この「放蕩息子」のたとえは、悔い改めの教えとして示されています。しかし、今朝は、何よりも神様が「耳を傾け」てくださっていることが主題となって示されているのです。いつでも私達の声、それは苦しみの声であり、悲しみの叫びであり、疲れ果てている私達の声でありますが、神殿に向かい、罪の告白をしつつささげる祈りに、神様は「耳を傾け」てくださっているのです。

 我が家のダイニングの壁に木彫りの言葉が掲げられています。紹介すると、「キリストはわが家の主、食卓の見えざる賓客、あらゆる会話の、沈黙せる傾聴者」と記されています。この木彫りの壁掛けがどうして我が家にあるのか、私自身不明です。いろいろ整理しているうちにこの木彫りが出てきたのでした。木彫りの言葉を読んだとき、どこかで出会っている言葉であると思ったのです。大塚平安教会時代、井馬栄さん・美恵さんご夫妻が教会員でありましたが、井馬さんのお宅に伺ったとき、この言葉が紙に手書きで書かれており、部屋に掲げられていたことが思い出されます。井馬栄さんがお書きになったと、今まで思っていましたが、この木彫りとの出会いで、この言葉が存在していることを示されるのでした。「キリストは食卓の見えざる賓客で、沈黙せる傾聴者」と示されるとき、私達の語らいを主イエス・キリストがいつも傾聴されておられるのです。多くの場合、家族一同が集まるのは夕食であり、それぞれの歩みを語らいつつ食事をしています。一日の苦労話や友達とのことなどが話し合われています。それらの話を聞きながら、よろしくない事柄であれば、明日は良い方向になることを祈ってもいるのです。改まって、神殿の方角に向かってお祈りすることと共に、イエス様がいつも食卓という生活の場におられて、私達の日常の祈りにも耳を傾けてくださっていることを示されるのです。
 神殿に向かってお祈りすれば、神様の傾聴があるということですが、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分達の内に住んでいることを知らないのですか」(コリントの第一の手紙3章16節)とパウロが示しています。神様は私の中にある神殿に向けた祈りに耳を傾けてくださっているのです。だから、私達の日々の歩み、出来事をそのままを私の中にある神殿に向かって祈るのです。あるときは涙を流しつつ、あるときは叫びつつ神殿に向かって祈るのです。十字架により私達を導いてくださっている主イエス・キリストがまずお聞きくださり、神様に執り成してくださるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。私達のすべての声に傾聴くださることを感謝致します。私達もまた隣人の声に耳を傾けて歩むことができますよう御導きください。主の御名により。アーメン。