説教「主のご命令」

2012年7月15日、六浦谷間の集会
「三位一体後第6主日

説教、「主のご命令」 鈴木伸治牧師
聖書、 申命記6章16-25節
ローマの信徒への手紙6章1-11節
    マタイによる福音書28章16-20節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・168「イエス君の御名に」
   (説教後)讃美歌54年版・521「イエスよ、こころに宿りて」


 夏になると各地で祭りが行われます。この地域も昨日の14日と本日の15日が祭りであり、昨日来イベントで賑わっています。イベントというのは神輿を担ぐこと、山車を引いて街中を練り歩くことです。これらに伴い、いろいろな店も出て人々を楽しませるわけです。祭りにはいろいろな意味合いがあります。農耕社会にあっては豊作を願うこと、漁村社会では大漁を願うことなどです。いわゆる「まつり」には「祀り」があります。神社神道における神様を崇拝することです。また、「奉り」とも言われます。これも「祀り」と同じようですが、神様に仕える姿勢でもあります。「政り」とも言われます。古い時代は政治をつかさどる者と宗教をつかさどるものが同一であることから、「まつりごと」と言われるようになりました。日本では、今では政教分離が基本になっていますが、昔は政治と宗教が一体になっていたのです。従って、「祭り」という場合には、いろいろな意味合いがあるので、必ずしも神社仏閣の行事ではないということです。
 キリスト教におきましても、日曜日に礼拝をささげることは「祭り」でもあるのです。もともとユダヤ教では土曜日が安息日でした。神様が天地万物を創造され、七日目の土曜日に安息されたので、人間も創造の御業を感謝する日となりました。いわゆる神様の創造を感謝する祭りでもあったのです。それに対してキリスト教は日曜日は主イエス・キリストが復活された日とし、この日曜日に復活の主を喜びつつ礼拝をささげるのです。これも祭りの一つになるのです。クリスマス、イースターペンテコステキリスト教の大きな祭りになります。従って、クリスマスは降誕祭、イースターは復活祭、ペンテコステ聖霊降臨祭と称するのですが、「祭」という言葉が日本的な「祭り」と混同しないために、「祭」を使わない教会もあります。日本基督教団の教会歴の取り扱いも「降誕日」、「復活日」、「聖霊降臨日」であります。その日をお祝いし、感謝と喜びを共にするのですから、「降誕祭」でよろしいと思います。私はそのように取り扱っています。聖霊降臨祭を迎えた後の信仰の歩みは、聖霊の導きをいただきつつ「降誕祭」に向かっているのです。
 それにしても、古今東西、どこの国も祭りを重ねながら歩んでいるものです。今では生活の中に溶け込んでいるのですが、相撲は奉納行事として神道の世界から始まっていますし、オリンピックにしてもギリシャの神々にささげる競技であったのです。祭りによって町の活性化、町おこしが願われているのですが、現代において神社仏閣の色濃い祭りは、必ずしも町全体が一つになっているのではありません。町内会費の中に祭りの予算が含まれていることは問題であるのですが、それに賛成しているのではありませんが、これらの祭りを通して町の活性化を願っているのですから、あえて問題点を指摘しないでいます。日本の伝統的な祭りにより、人々が希望と喜びが与えられるならば、それはそれでよろしいと思います。そのような日本の伝統的な社会の中で、今朝は主イエス・キリストの大伝道命令をいただくのです。この社会に福音を宣べ伝えて行くイエス様のご命令が与えられているのです。

 「主のご命令」ということで、まず旧約聖書における「神様のご命令」を示されなければなりません。今朝は申命記6章16節から25節で、神様のご命令を守ることが記されています。申命記モーセの説教集でありますが、モーセは神様のご命令を繰り返し説教で示しているのです。聖書の人々はエジプトで400年間の奴隷でありましたが、神様はモーセを立てて脱出させました。そして神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地であるカナンへと導くのであります。今、カナンを目の前にしまして、モーセは導いてきた人々の前で、歴史を導く神様の御業と、神様のご命令を説教として語るのであります。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟を良く守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる」と教えているのです。すなわち、モーセは奴隷の人々を助け出す役目と共に、神様の約束を与え、約束を守るよう指導する役目を与えられているのです。
 ここで「マサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」と指導しています。マサにいた出来事は神様を試したことでした。出エジプト記17章1節以下、「主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった」のです。すると人々はモーセに詰め寄り、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子ども達も、家畜までも渇きで殺すためなのか」と攻め立てるのです。しかし、良く考えなければならないのです。この前の16章では、食べる物がなくなってモーセに詰め寄っています。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れだし、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と激しく抗議しています。それに対して神様はマナを与え、ウズラを飛来させるのです。マナがパンであればウズラは肉でした。毎日のようにマナとウズラを持って養われているのです。その現実にいながら、今度は水がないと言って騒ぎ立てているのです。モーセがこの民を嘆きつつ神様にお祈りすると、岩の裂け目から水がほとばしって来るのです。その場所はレフィディムですが、神様を試したということで「マサ」と名付けられたのでした。また、水の故にモーセと争ったので「メリバ」とも名付けられています。「マサ・メリバ」と言えば神様の導きを忘れた姿として言われるようになっているのです。
 「マサ・メリバ」ではなく、「主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい」と「神様のご命令」を与えています。神様のご命令とは、「戒めと定めと掟」を守るということです。どれが戒めであり、どれが定めと掟なのかと思います。基本的には「戒め」は十戒であります。奴隷の国エジプトから脱出したイスラエル人々は三月目にシナイ山の麓で宿営します。その時、神様はモーセシナイ山に登らせ、十戒を授けるのです。今後は人々が神様の戒め、十戒を守りながら生きるように示したのです。その十戒を中心にして掟、法が作られます。いずれも十戒を根底にしての決まりごと、約束ごとなのです。そのため、いつも「戒めと定めと掟」と言っていますが、「戒めと掟と法」という言い方もしています。いずれも十戒を中心にした人間の生き方を示しているのです。
 「神様のご命令」は「戒めと定めと掟」を守ることですが、今朝の聖書にはもう一つのことも命じられています。それは今朝の聖書の6章20節以下に示されています。「将来、あなたの子が『我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか』と尋ねる時には、あなたの子にこう答えなさい」ということです。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主の力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された」と歴史を導く神様を告白することです。そして、先祖に誓われた土地に導き、そこで戒めと掟を守りつつ生きるならば幸いが与えられるということです。与えられた戒めを「神様のご命令」として守るならば幸いを得るということなのです。「神様のご命令」は私たちが祝福に生きるためなのです。

 そこで、私たちは主イエス・キリストのご命令をいただいています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエス様は命じておられます。マタイによる福音書は、復活のイエス様がお弟子さん達に大伝道命令を与えて終わっているのであり、ルカによる福音書やマルコによる福音書のように、伝道命令を与えてから昇天されたとは記していないのです。それどころか大伝道命令を与え、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と示され、伝道するお弟子さん達と共におられると示しているのです。
 イエス様が復活した日曜日の朝、マグダラのマリアさんがイエス様のお墓に行った時、復活されたイエス様に出会っています。その時、イエス様は「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われました。マリアさんからイエス様の言葉を聞いたお弟子さん達はガリラヤに来ました。ここはイエス様の宣教の場でありました。「山」でお会いになったとしていますが、特別な山という意味ではなく、「山」はしばしば神様の御心を示される場として今までも登場しています。そういう意味合いのガリラヤの「山」であります。17節に、「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と記していますが、お弟子さん達としては、マタイによる福音書によれば、ここで初めて復活されたイエス様に出会ったのです。「疑う者もいた」とはお弟子さん達の中に、全面信じられない姿があったのです。しかし、今、イエス様の大伝道命令をいただく時、このご命令に従う信仰へと導かれているのです。「すべての民をわたしの弟子としなさい」ということ、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」ること、「命じておいたことをすべて守るように教える」こと、これがお弟子さん達に与えられたご命令です。「大伝道命令」という言葉の使い方は、デイヴィッド・ボッシュという神学者が「宣教のパラダイム転換」の著書の中で用いている言葉であり、私もこの言葉を使わせていただいています。
 イエス様の大伝道命令は人々に十字架の贖いによる救いの洗礼を授けることです。これが何よりもイエス様がご命令になっていることであります。人々にまず聖餐を与えることではないのです。聖餐は洗礼を受けた者が、さらにイエス様の十字架の救いの信仰を深めるためにいただくのであり、洗礼を受けていない者の聖餐授与は無意味なのです。イエス様の大伝道命令は聖餐が先ではなく、まず洗礼を授けることであります。そして、「命じておいたことをすべて守るように教える」とは、イエス様の宣教すなわち「神様を愛すること、自分を愛するように隣人を愛すること」であります。このイエス様のご命令を実践し、世の人々に浸透させることにより、世の人々が祝福の歩みへと導かれるのです。
 モーセが「神様のご命令」は「戒めと定めと掟」を守ることであると示していますが、その「戒め」をイエス様は二つにまとめているのです。すなわち、「神様を愛すること」、「隣人を自分のように愛すること」です。十戒をまとめればこの二つになるのです。従って、旧約聖書で示された「神様のご命令」も新約聖書で示されるイエス様の「大伝道命令」は同じご命令であるということです。このご命令に生きることが、人類の祝福となることを聖書は示しているのです。

 牧師が何人の方に洗礼を授けたのか、そのことが牧師の評価にはなりません。すべては神様の御導きであるのです。大塚平安教会最終礼拝を務めたとき、司会者が報告の中で、鈴木伸治牧師の30年間の牧会の中で洗礼者は○○名でしたと報告されていました。退任にあたり、そのような人数については思ってもいませんでした。しかし、今朝のイエス様の伝道命令は、洗礼を授けることであることを示されたとき、イエス様への報告として、今まで洗礼を授けた皆さんを覚える必要があることを示されました。それで、陸前古川教会、大塚平安教会、横浜本牧教会において洗礼を授けた皆さんを表にしてまとめたのでした。改めて、お一人お一人をお祈りさせていただきました。
1973年4月から陸前古川教会に赴任しました。翌年の1974年12月22日、一人の青年が洗礼を受けました。この青年が私の初めての授洗者でした。青山教会時代に正教師になっていましたが、主任牧師がいるので、洗礼志願者がいれば主任牧師が授けることになります。牧師となって、初めての洗礼式は、やはり深い喜びが与えらました。陸前古川教会の6年半の牧会で授洗者は9名です。そのうち一人は赤ちゃんの幼児洗礼でした。大塚平安教会の教会員になっていた上原喜美子さんは、1976年4月18日のイースター礼拝で洗礼を受けておられますが、場所は陸前古川教会でした。東京からわざわざやって来られて受洗されたいきさつについては割愛しますが、その後、私たちが大塚平安教会に転任することで上原喜美子さんも転会したのです。召天されましたが信仰の生涯でありました。
 大塚平安教会の30年6ヶ月の牧会の中で、洗礼を授けたのは79名であります。中でも忘れられないのは、1979年9月に赴任しましたが、最初の礼拝が終わり、玄関で皆さんをお送りしているとき、一人の姉妹が洗礼を申し出られたことです。これには驚きました。結局、もう少し間をいただく事と準備期間ということで、その年のクリスマス礼拝で洗礼式を執行したのでした。笠倉祐一郎さんと正道さんは横浜市立大学病院の病室で洗礼式を執行しています。数名の教会員もその場に臨み、涙しつつ、祈りつつ洗礼を祝福したのでありました。正道さんはその一ヶ月後に天に召されたのです。79名のうち幼児洗礼者は3名、堅信礼は2名です。また、洗礼を受け、信仰の喜びを持ちつつ歩まれ、天に召された方は11名おられます。その中で、77歳で洗礼を受けられた伊藤雪子さんのお証はいつまでも心に示されています。84歳で天に召されますが、7年間の信仰生活はそれまでのすべての歩みが祝福へと導かれたのです。洗礼を受け、当初は喜びつつ信仰生活をしていましたが、今は教会を離れておられる人もいます。消息不明の人もおられます。別帳会員になっている人もいます。しかし、洗礼を受けられたほとんどの皆さんは、教会の群れの中におられ、信仰生活を喜びつつ歩まれているのです。例えば、今は教会から離れているにしても、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて洗礼を受けているのであり、その人を支えていると信じています。
 大塚平安教会を退任してから、横浜本牧教会で6ヶ月間代務者を務めることになりました。短い期間でありましたが2名の洗礼者が与えられています。2010年5月23日のペンテコステ礼拝の時でした。そのうちの1名は、癌の宣告を受け、余命3ヶ月の状況でありました。お連れ合いが教会員であり、今までもしばしば礼拝に出席していましたが、信仰を自分のこととして、十字架の救い主を仰ぎ見たのであります。安らかなご召天でありました。今のところ、この2名の方が最後の授洗者となっています。42年間の牧会で、授洗者は90名になります。この数字が多いとか少ないというのではなく、イエス様の伝道命令に対するお答えとして報告しているのであります。
 主のご命令は、人々を主イエス・キリストの十字架の贖いが救いであることを宣べ伝え、人々に洗礼を授けることであります。そのために私たちが先に選ばれていることを示され、主のご命令にお応えすることを今朝は示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の贖いを与えられ、喜びの歩みを感謝致します。主のご命令にお応えし、一人でも多くの皆さんに洗礼を授けることができますよう御導きください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。