説教「十分な恵み」

2012年7月22日、六浦谷間の集会
「三位一体後第7主日

説教、「十分な恵み」 鈴木伸治牧師
聖書、 列王記下4章42-44節
コリントの信徒への手紙<二>12章1-10節
    ヨハネによる福音書6章1-15節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・511「みゆるしあらずば」
   (説教後)讃美歌54年版・448「みめぐみを身にうくれば」


 今年は暑い夏を迎えています。関東地方も梅雨が明けたということですが、毎日30度を超える暑さに閉口している状況です。電力不足で、節電に協力する必要があるのですが、その結果が熱中症になってしまうということでもあるのです。電力の事情もありますが、暑いときはエアコンをつけましょうとテレビでも奨励しています。原子力発電の稼働がないと電力不足になると言われているのですが、いろいろな努力がなされながら、何とか電力供給ができているのです。このようでなければ絶対にだめであるということはないということです。現在の状況を考えれば、今取り組みをしようとしていることは不可能ではないか、と私たちは思ってしまうのですが、神様のご計画は人間の思いをはるかに超えて実現へと導いてくださるのです。
 前任の大塚平安教会では新しい会堂建築に取り組んでいます。私が在任中も新しい会堂建築のために、調査研究し、計画をして来ましたが、石橋を叩く人もおられ、なかなか前進できないでいました。大きな問題は教会の敷地内に道路計画路線が引かれているのです。道路計画が実施されれば、せっかく新しい会堂を建てても移動しなければならないのです。そうなると、貴い献金によって建設された会堂でありますので、献金が無駄になるのではないか、との心配もあるのです。しかし、道路計画と言っても、もうかなり以前の計画であり、その後、住宅が密集するようになっていますし、はたして計画が実施されるのか、まだまだ先のことであろうと思われるのです。そういう状況の中で教会は神様の御心と信じて決断されたのでした。予約献金も目標額を超えてささげられるということであり、今こそ皆さんの祈りが結集されていることを示されています。祝福の新しい教会建設になることをお祈りしている次第です。
 私たちは人間ですから、やはり人間的に計算し、持てる力、今後どうなるということを決めるものです。しかし、最終的には神様の御力、御導きに委ねなければならないのです。神様の御導きは人間の計画をはるかに超えるのです。ここまでは計画できるが、後は神様に委ねるということでありましょう。その意味でも、教会の皆さんは祈りを深め、祈りつつ取り組むことが必要なのです。この計画は神様の御導きであることを、一人一人が示されるためにも祈りを合わせることなのです。ある教会は会堂建築のために、連日祈祷会を開いたと聞いています。この取り組みは人間の取り組みではなく、神様の御導きであることを示されるためなのです。人知を超えた神様の御導きを今朝は示されるのであります。

 今朝は主イエス・キリストによるパンの奇跡を示されるのですが、そのイエス様のパンの奇跡の基となっているのが、今朝の旧約聖書列王記下4章42節以下の示しです。エリシャの働きとして示されています。エリシャは神の人と言われていますが、その前のエリヤの後継者として登場しています。エリヤは自分の死の前にエリシャを選び、自分の職務を与えています。従ってエリヤの活動とエリシャの活動は類似していることが多いのですが、エリシャの活動として列王記下4章1節から6章7節まで、エリシャの奇跡物語を記しているのです。
 4章1節以下は、夫を亡くした女性が二人の子供と貧しく生きています。債権者に苦しんでいるのです。するとエリシャはその女性に空の器をできるだけ多く集めさせ、家の戸を閉めて、その空の器に油を注がせるのです。すべての器がいっぱいになるまで油は注がれました。そして女性はその油を売り、負債を払い、生活することができたという奇跡物語です。4章8節以下はシュネムの女性の物語です。ここでの女性の夫は年老いていて、女性は子供が与えられることを望んでいたのですが、それが適わないのです。エリシャはこの女性に子供が生まれることを預言しますとその通りになります。しかし、子供は急病で死んでしまうのです。女性がエリシャのもとにきて助けを求めると、子供は生き返るのです。エリヤ物語のサレプタの女性の中にも出てくるお話です。4章38節以下は、野生のウリを食べるお話です。そのウリは毒性があり、食べれば死んでしまうのです。しかし、エリシャはウリを鍋で煮て、そこに麦粉を入れるのです。すると毒性がなくなり、食べることにこと欠いていた人々のお腹を満たしたのでした。これらはいずれも困難な状況をエリシャが救済する物語です。エリシャの奇跡により救済されますが、困難な状況の中で、エリシャに委ねる人々の姿を特に示されなければならないのです。
 そこで今朝の聖書になりますが、4章42節以下も困難な状況が祝福になることを示しているのです。一人の男が、神の人と言われるエリシャのもとに初物のパン、大麦パン20個と新しい穀物を持って来ます。聖書で規定されている初物は神様にささげるためです。状況的にも飢饉の中に人々が生きているのです。だから、エリシャはささげられた大麦パン20個を「人々に与えて食べさせなさい」と言うのです。すると召し使いは、それは不可能であるとの口調で、「どうしてこれを100人の人々に分け与えることができるでしょうか」と言いました。100人と言っていますが、もっと多くの人々がいる訳です。パンはわずか20個しかないのです。たったこれだけで、人々のお腹を満たすことはできないというわけです。それに対してエリシャは再び命じます。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」と言うのです。不本意でありますが、召し使いはエリシャの示しを受け止め、エリシャにこの状況を委ねたのです。召使がパンを配ると、人々は食べきれずに残すほどになったのです。ここでも背景は飢饉であり、生活が困難な状況なのです。人間的に考えて、不可能であるということですが、この状況を神様に委ねることです。それをエリシャが神様の力を人々に示しているのです。
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 イエス様のパンの奇跡は、列王記下4章42節以下のエリシャの奇跡物語が基となっていることを示されます。そうであれば、イエス様のパンの奇跡も、単に不思議な奇跡物語として受け止めないで、人知を超えた神様の導きを示されなければならないのです。
 「その後、イエスガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」と言うことですが、「その後」とは5章のエルサレムにある「ベトザタの池」で病人を癒したことです。エルサレムにおられたのに、「その後」はガリラヤに居るのですから、随分と時間が経っているのです。しかし、ヨハネによる福音書は「ベトザタの池で病人を癒されたイエス様」と「ガリラヤでパンの奇跡を行われたこと」を一つの線で述べようとしているのです。すなわち、主イエス・キリストによる救いとして二つの出来事を結びつけているのです。ベトザタの池で病人を癒したとき、その日は安息日でありました。安息日に病人を癒す時、今まで寝ていた床を片づけたりしますから労働をするわけです。安息日にはいっさいの労働は禁じられています。案の定、病人を癒したイエス様は批判され、迫害されたと記しています。ベトザタの池の病人に対して、イエス様は「良くなりたいか」と尋ねています。良くなりたいのは当たり前ですが、この病人は「誰も私に構ってくれない」と良くなれない理由を述べるのです。そういう姿勢に対して、自分が信仰において主体的に生きることを導かれたのです。安息日に病気が癒されること、社会的にも問題がありました。この困難な状況をイエス様に委ねたことが示されているのです。
 ガリラヤに来ても大勢の人たちがイエス様の後を追って来ました。ベトザタの病人の奇跡を見たからでした。イエス様はこれらの群衆にパンを与える提案をします。お弟子さんのフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われるのです。男性の人数だけで5000人は居たと言われます。「200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」とフィリポは答えています。だいたい、こんなにパンを仕入れることはできないのです。従って、イエス様の提案は不可能であることを前提としながら答えているのです。お弟子さんのアンデレも「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年が居ます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にもたたないでしょう」と言っています。弟子たちは皆、イエス様の提案に対して不可能の答えを出しているのです。他の福音書では、「群衆を解散させ、めいめいに自分で食べ物を買いに行かせましょう」と弟子たちが提案しています。それに対して、「あなたがたが食べ物を与えなさい」とイエス様は言われているのです。
 どの福音書においても弟子たちの不可能の姿勢が記されています。自分達の手の内はこれだけであり、これだけでは絶対に無理であるという結論を持っているのです。イエス様は人々を座らせ、パンを取り感謝のお祈りをささげてからお弟子さん達に配らせます。お弟子さん達にとっては、「たったの五つパン」でしたが、イエス様にとっては「五つもあるお恵み」でありました。そのお恵みは、実に5000人の人々が満腹したのであります。しかも残ったパンは12の籠がいっぱいになるほどであったのです。不可能の状況を導くイエス様として示されていますが、この後、6章22節以下において、イエス様が「命のパン」であることを示しているのです。従って、ヨハネによる福音書5章、6章は、主体的に御心を求めること、そこにおいて不可能はなく、「命のパン」を与えられて、主体的に生きる者へと導かれることを示しているのです。「命のパン」はイエス様の御体であり、聖餐式として私たちに与えられ、主体的に生きる者へと導かれるのです。「命のパン」をいただいて生きるとき、私達には不可能がありません。前へと進む導きが与えられるのです。
 今朝は書簡からも示されます。コリントの信徒への手紙<二>12章1節以下は、パウロという伝道者が、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と述べています。そして、「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」と述べています。パウロは何かの病気があったようです。ときどきその病気に苦しむのですが、その度に「この苦しみを取り去ってください」と神様にお願いするのです。すると神様は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われたとパウロは証しています。パウロは、今の自分の姿、ありのままの自分こそ神様がお選びになり、伝道者へと召されていることを知るのです。伝道者になるにはこのようであればよい、あのような力があればよいと、力のある自分を設計してしまうのですが、今の姿、ありのままの自分が神様の御用に召されていることを示されているのです。
 困難な状況にいるということ、この状況に神様が遣わしてくださっていることを知るのです。旧約聖書のエリシャの物語は集中的に奇跡物語を記していますが、いずれも困難に生きる人々の状況の中にいるエリシャなのです。そこに神様の御導きがあるのです。新約聖書のイエス様によるパンの奇跡を示されるとき、イエス様の大きな御業が中心ですが、その困難な状況にお弟子さん達が置かれていることに注目すべきです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問われたフィリポさんは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えなければなりませんでした。さらに、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言わざるを得なかったアンデレさんですが、イエス様と共に困難な状況の中にいるのです。この困難な状況をどのように歩むのか、それが問われているのです。自分の思い、人間的なそろばん勘定ではなく御心に委ねる事なのです。イエス様の奇跡を担う者へと導かれたということです。このような困難な状況であったとしても、「わたしの恵みはあなたに十分である」と神様の御声を聞くのです。

 私たちが困難な状況の中にあり、しかし信仰に生きる私達ですから、聖書に示されるように大きな喜びの結果がある、ということが今朝のメッセージではありません。確かに、エリシャにしても、イエス様にしても奇跡により祝福の結果を与えています。それも示しとなっていますが、私たちがどのような状況の中に置かれましょうとも、そこに神様の恵みの御導きがあるということを示されているのです。祝福の結果も喜びですが、今の状況はお恵みであると信じることです。エリシャに関わった旧約聖書の人々も、イエス様と共にいたお弟子さん達も、最初から祝福の結果を夢見ていたのではありません。今の状況、苦しい状況をしっかりと受け止め、それを神様に委ねることへと導かれているのです。私たちの今の状況に対して、「わたしの恵みはあなたに十分である」と神様は言われています。昔、歌っていた賛美歌に、「数えてみよ、数えてみよ、主の恵み」とありましたが、人生の計画設計をする前に、神様のお恵みを数えることなのです。主イエス・キリストの十字架の贖い、救いが現実の中にあるのです。パウロのように「痛み」もまた恵みとなっているのです。私の今に、お恵みが与えられているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。数々のお恵みを感謝致します。どのような状況に置かれましょうとも、十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。主の御名によりおささげいたします。アーメン。