説教「永遠の命をいただく」

2011年11月6日、横須賀上町教会
「降誕前第7主日」(聖徒の日)、

説教、「永遠の命をいただく」 鈴木伸治牧師
聖書、 創世記12章1〜9節
ローマの信徒への手紙4章13〜25節
    ヨハネによる福音書8章48〜59節
賛美、(説教前)讃美歌21・535「正義の主イエスの」、
   (説教後)385「花彩る春を」


今朝は、日本基督教団は「聖徒の日」(永眠者記念日)として定めています。今は天におられる方々と地に生きる私たちが共に神様を礼拝しているのであります。そして、今は天にある人々の、信仰に力強く生きられて証を残されたように、私たちもやがて天に召される者として、信仰の歩みをいよいよ踏みしめたいと願うのであります。
昨年の11月の第一主日も講壇に立たせいいただき、召天者を覚えつつ御言葉をいただきました。私の叔母がこちらの教会員でありましたので、思い出しつつお話致しました。今朝も「聖徒の日」として叔母の信仰を示されたいのであります。叔母は石渡タキさんで、私の母の妹になります。私の家のすぐ近くに家がありました。娘が横浜の清水ヶ丘教会で信仰の導きが与えられ、教会員として歩んでいました。私の長姉が信仰に導かれるのも、この従姉の影響があったのです。長姉が信仰に導かれ、そして二番目の姉も清水ヶ丘教会に導かれるようになり、教会員としての歩みが導かれていました。そういう中で叔母も娘に導かれて清水ヶ丘教会に出席するようになり、洗礼を受けたのであります。清水ヶ丘教会は多くの教会員がいます。婦人会も壮年会も、青年会も高校生会も会員が多く、それぞれよいお交わりを重ねながら歩んでおりました。そのようなお交わりを喜びながら、叔母の石渡タキさんはこちらの横須賀上町教会に転会しました。清水ヶ丘教会の大勢の婦人会の皆さんとのお交わりを喜びながらも、自分の存在を顧みたのかもしれません。今までのいくつかの教会でも、そのような方がおられました。この教会にいても自分の働く場がないと思われるのです。もっと少人数の教会で奉仕したいと願われるのです。叔母もそのような思いであったと思います。当時の斎藤雄一牧師は清水ヶ丘教会の出身でありましたので、何回か出席しているうちに転会を決意されたのでしょう。その叔母がこちらの教会でどのような教会生活をされたかについては存じません。しかし、その後はこちらの教会員でありましたから、喜びつつ信仰の歩みをしていたと思います。
 その叔母が天に召された時、叔母の葬儀は仏教で行われました。息子夫婦と生活していたのです。私の姉たちを教会に結ぶきっかけを作った従姉、叔母の娘はアメリカ人と結婚してアメリカに在住しています。すべて息子の思いで葬儀が行われました。喪主として当然なのかもしれません。叔母が亡くなった時、私の姉が斎藤雄一先生に連絡を差し上げました。先生はすぐに石渡家を訪ねました。しかし、息子は牧師の訪問を喜びませんでした。葬儀は、本人が生きた信仰において行われるべきと思っています。その意味ではキリスト教の葬儀ではありませんでしたが、仏教で葬儀が行われたとしても、叔母の信仰に生きた証しはこの世に残されているのです。昨年に続いて叔母・石渡タキさんの証をここで示されることは、仏教で葬儀が行われたにしても、大変意義があると示されているのです。
キリスト教は、神の国、天国は彼方の世界ではなく、現実の続きとしています。一般的な理解は、死ぬことにより彼方の世界への旅たちであります。棺の中には草履を入れたり、杖を入れたりします。しかし、キリスト教はそんなに重々しくは考えないのです。現実を神の国として生きたとき、死を迎えてもそのまま永遠の神さまの国へと導かれていくのです。例えば、文章にたとえれば、一般の考え方は、死を迎えたとき、それは文章が終わったので句点をつけます。しかし、キリスト教では句点ではなく読み点なのです。点を打ち、そこで一呼吸し、さらに文章が続いていくのです。読み点までの文章はこの世を神の国として生きた歩みです。読み点後の文章は永遠の命なのです。
今生きている状況を神の国と信じて生きること、それが私たちキリスト者の生き方なのです。私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いをいただいています。十字架を仰ぎ見つつ生きるとき、私たちに関わってくる様々なことを受け止め、苦しいには違いない、悲しいには違いない、しかし、主に導かれている者として、現実を受け止めて生きることが神の国を生きる者なのです。この現実を主が共に歩んでくださっているのであります。召天された皆さんは主の光に導かれて、この世の人生を力強く生きた人々でありました。

 創世記の示しにより私たちも「永遠の命をいただく」信仰に導かれたいのであります。
 創世記12章1節以下、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と神様は言われました。アブラハムは、最初はアブラムと称していました。後に神様はアブラムと契約を結ぶことによりアブラハムと称することになったのです。今朝の聖書の前の段落、創世記の11章31節以下を見ると、アブラハムは父テラ、甥のロト、そして妻サライと共にカルデアのウルに住んでいましたが、そこを出立してハランに住んでいることになります。従って、ハランは生まれ故郷ではありませんが、父と共に住んでいたので、その父の家を後にしなさいというわけです。生まれ故郷をすでに出ているわけですが、場合によっては再びカルデアのウルに帰ることも考えられるわけです。改めて故郷に帰ることを戒め、新たな歩みを導いているのであります。
 故郷、生まれ育ったところに生きることは、何もかも分かっているので生活しやすい。しかし、神様はそのような平安の日々から、未知の世界へと導くのであります。不安が伴う歩みでもあります。故郷を後にしなさいと言われた神様は、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と言われます。ここで言う祝福は「大いなる国民」であり、「あなたの名を高める」ことであります。そのためには、与えられた約束を信じ、受止めて歩むことでありました。4節「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムはハランを出発したとき75歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナンに地方に入った」。こうして、アブラハムは神様の約束を信じて、神様の示す地へと出発しました。すると、アブラハムは神様の言葉に絶対に忠実に従い、黙々と従っているようです。しかし、その後のアブラハムの姿を見ると、必ずしも黙々と従っているとも思えないのです。
 例えば、創世記15章1節以下を見ると、ここでは神様がアブラハムを励ましています。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは大きいであろう」というのです。ところがアブラハムは、あたかも神様に抗議するかのように、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでした。家の僕が跡を継ぐことになるのです」というのです。神様は、アブラハムに大いなる国民にすると約束しました。ところがこの年になっても子供が生まれないではありませんか、と抗議しているのです。その時、神様は言います、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言われます。神様はアブラハムを外に連れ出して言われます、「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみよ。あなたの子孫はこのようになる」と。アブラハムは不平を言いましたが、改めて神様から約束を与えられ、その約束を信じて歩むことになります。その信じて歩むことで祝福が与えられたのでありました。
 今朝のローマの信徒への手紙4章13節には、「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」と示しています。つまり、アブラハムは神様の祝福をいただき未知の世界へと歩みだしたのでありますが、神様がアブラハムを受止め、包み、導いてくれるので、その神様の導きに委ねて歩んだのです。信仰に生きるとは神様が私を受止めてくださっていることを信じることです。私達は不平、不満をいつも言うものですが、しかし信仰の導きをいただいている者として、信仰の基である神様のお心に委ねて歩むことが求められているのです。
 アブラハムが神様の導きのもとに新しい世界へと旅立つこと、これが信仰と言うことなのです。大いなる国民とする約束されていること、それは永遠の命をいただく約束なのであります。私たちが主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて歩むとき、永遠の命の約束をいただいているのですが、新しい信仰の歩みは未知の世界です。アブラハムが約束を信じて未知の世界へと歩み始めたように、私達も信仰によって未知の明日へと歩むことなのです。未知の明日ではありますが、永遠の命をいただく約束が与えられているのです。

 神様の祝福をいただき、永遠の命を約束されているのは主イエス・キリストです。ヨハネによる福音書は8章48節からが今朝の聖書です。ここではイエス様がユダヤ人達と論争をしています。論争の中でユダヤ人達が、「わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と言います。それに対してイエス様は、「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父である」と言っています。さらに、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われました。それを聞いたユダヤ人達は、石を取り上げ、イエス様に投げつけようとしましたが、イエス様は身を隠して、神殿の境内から出て行かれたのでありました。
「わたしはある」とは神様の名であります。出エジプト記で神様はモーセに現れて、あなたはエジプトで奴隷として苦しんでいる人々を助け出しなさいと命じられます。モーセはこの重い使命を受けるにあたり、奴隷の人々に、どのようにして神様を示すのかを神様に聞くのです。すると、神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお応えになりました。「わたしはある」、これを聖書のヘブル語で言えば「エホバ」ということです。神様は「ある」という存在なのです。「ある」という存在なので、私たちと共におられる神様なのです。それに対して偶像の神様は、形はあっても実態がないということなのです。
エス様は「わたしはある」者だというとき、神様であることを示していますが、もちろん人間として今は存在しています。人間として存在するとき、神様を信じることを基としているのです。旧約聖書は信仰を基とするとき、大いなる者へと導かれることを示しています。イエス様はこの信仰を基にして、救いの完成へと歩まれたのでした。人間の罪は、自らは決して克服できないので、神様はイエス・キリストが十字架に架けられたとき、それは時の指導者のねたみによるものでありますが、神様は救いの基とされました。イエス・キリストが十字架で血を流して死ぬと共に、人間の奥深くにある自己満足、他者排除の原罪を滅ぼされたのであります。イエス様はその神様の御心を受止め、十字架の道を歩みました。人間的には、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っています。十字架で死にたくありません、と言っている訳です。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」とすべてを神様に委ねておられるのです。
エス様は神様の約束を基としていました。神様がイエス様を受止め、包み、導いておられることに委ねていたのであります。それが信仰なのです。十字架の道を歩みました。死んで葬られました。しかし、三日目によみがえり、天に昇られたのでした。イエス・キリストのこの世における信仰、神様の約束を信じることを基とする姿こそ、私達は示されなければなりません。信仰の人生は、神様が私を受止め、包み、導いていることを信じて前進することであります。

 前任の大塚平安教会時代、11月の第一主日は「聖徒の日」ですので、召天者記念礼拝としていました。今日まで信仰を持って生きた皆さんの写真を前に飾り、皆さんのお証を再び示されながら礼拝をささげていました。そして、午後からは教会墓地が厚木にありますので、墓前礼拝をささげるのです。礼拝でも召天された方々のお名前を示されますが、墓前礼拝では墓誌に刻まれた皆さんのお名前を読み上げ、信仰に生きた皆さんを示されます。神様の約束を信じて、永遠の命を与えられている皆さんなのです。
神様は私たちに永遠の命を与えるために、独り子を世にお与えになりました。悲しいときには、悲しみを受け止めて生きましょう。苦しみがあるときには、その苦しみを受け止めて生きましょう。現実から逃げることは信仰ではありません。この現実を真正面から受止め、未知の明日へと信仰を持って歩むのです。その私達に主イエス・キリストが命の息を与えてくださり、現実を生きることができるように導いてくださるのです。ヨハネによる福音書20章19節以下に、十字架で死に、埋葬され、しかし三日目に復活されたイエス様がお弟子さん達に現われ、命の息を吹きかけていることが記されている。イエス様の死により、力をなくしているお弟子さん達に、まず息を吹きかけ、導かれているのです。イエス様はわたしたちに神様の命の息を吹きかけておられます。永遠の命へと導くために神様の命の息を与えてくださっているのです。信仰に生きる、永遠の命をいただくのです。
<祈祷>
聖なる神様。永遠の命へのお約束をくださり感謝致します。主の十字架を仰ぎ見つつ、未知の明日へ信仰をもって歩ませてください。主の御名によりおささげします。アーメン。