説教「世が救われるために」

2011年10月30日、薬円台教会 特別伝道礼拝
「降誕前第8主日」、

説教、「世が救われるために」 鈴木伸治牧師
聖書、創世記3章1〜7節
   ヨハネによる福音書3章16〜21節
賛美、(説教前)讃美歌21・160「深き悩みより」、
   (説教後)377「神はわが砦」


本日はお招きをいただき、御教会の講壇に立たせていただき、感謝致します。皆様と共に聖書の御言葉を示され、新しい歩みを導かれたいのであります。
さて、今週は、明日になりますが、10月31日は宗教改革記念日であります。宗教改革記念日と申しますと、この日によってプロテスタント教会が存在するようになったのです。それまでの教会をローマ・カトリック教会と称しています。カトリックと言うのは「公同教会」と言う意味です。カトリック教会を旧教と言い、プロテスタント教会を新教と言うのは間違いです。プロテスタントと言うのは、「プロテスト」、「抗議した」と言うことです。今までのカトリック教会に抗議してできたのがプロテスタント教会と言うことになるのです。16世紀にプロテスタント教会ができたのですが、まだ500年の歴史です。それに対してカトリック教会は紀元313年にキリスト教が公認されてからの歴史だとすると、1300年の歴史を歩んでいたのです。
もう少しキリスト教の歴史をお話しておきます。キリスト教は、イエス・キリストによって教えが広められました。それを福音と称しております。今は西暦2011年でありますが、西暦はイエス・キリストがこの世に生まれたときから始まる暦です。ですから今から2011年前にイエス・キリストが生まれたことになりますが、2000年も経つと誤差が出て来て、紀元前に生まれたことにもなります。間もなくクリスマスを迎えるわけですが、イエス・キリストが生まれた日としてお祝いされています。聖書はイエス様の伝記を記しているのではなく、神様の御心をイエス・キリストにより示しているのであります。その聖書によりますとイエス・キリストは30歳で人々の前に現れ、33歳のとき十字架で殺されてしまうのです。たった3年間の働きなのですが、重い3年間でありました。聖書によれば、イエス・キリストが十字架で殺されるのは、当時の社会の指導者達の妬みによるものです。しかし、神様は十字架を救いの原点とされたのであります。イエス様が十字架で死ぬことによって、人間の奥深くにある罪の姿を滅ぼされたのです。これが、キリスト教の救いと言うものですが、これは後でお話致します。
エス様の十字架の救いを信じて生きることが祝福であります。その信仰が次第に広まっていきました。イエス様が十字架にお架かりになった後、お弟子さん達は聖霊の導きのままに力強く福音を宣べ伝えました。それによりキリスト教が世界の人々に伝えられていきました。しかし、イエス様を信じて生きる人々の前に大きく立ちはだかる存在がありました。ローマ帝国であります。ローマ帝国の中にはユダヤ教キリスト教、その他の宗教の人々が住むようになります。ローマはいかなる宗教も認めていました。もともとローマは多神教の国です。ですからキリスト教でも自由にローマの国で生きることができるのです。それなのに、なぜキリスト教が迫害されたのか。ローマはキリスト教が社会に同化しないことで、キリスト教を禁じたのでありました。ローマは多神教であり、どの神様を拝もうと干渉しなかったのです。ですから当初は、キリスト教も神様を信じる群れですから、その信仰は認められていたのです。しかし、キリスト教は絶対者である神様を信じるあまり、ローマ社会の生活習慣を共にしなかったのです。いろいろな神々を拝むことを許されているにしても、国家が主催する神々の祭りには参加しないのがキリスト教の人々でありました。従って、これでは社会が統一されない、社会が乱れると言うことでキリスト教が禁令となったのです。迫害され、殺されることになります。その苦しみは新約聖書ヘブライ人への手紙11章35節以下に記されています。「他の人達は、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。」このような苦しみを余儀なくさせられたのです。しかし、イエス様を信じる人々は迫害されても迫害されても信仰を捨てませんでした。むしろ迫害を受けながらも喜んで死んでいくのです。迫害を喜んで受けるキリスト者の存在にローマは脅威を持ち始めます。そして、この宗教を公認したのが313年のコンスタンティヌス皇帝でありました。ローマはキリスト教国家として存在するようになっていくのです。
ローマのキリスト教カトリック教会として発展していきます。カトリック教会は公同教会という意味であり、広く開かれた教会を意味しています。そして、ヨーロッパ全域がカトリックの世界になっていくのでした。しかし、発展はまた堕落を誘うものです。キリスト教も堕落していきました。中世といわれる14世紀から16世紀にかけては、ルネッサンスと言われ、芸術や文化の革新運動が展開されていたのです。文芸復興とも言われています。社会的にも見直される時代になっていくのです。
当時のカトリック教会は、大きな教会を造ることが目的であり、人々の献金を奨励するのです。その一つとして「免罪符」を発行して売り出します。この免罪符というお札を買うことによって、どんな罪も赦されるというのです。こんなにありがたいことはない訳で、人々は競って免罪符を買ったのでした。「あなたがたが免罪符を買うために、お金を箱に入れた瞬間にあなたがたの罪は赦される」との触れ込みです。マルチン・ルターはまずそのことに疑問を持ちます。そして、図書館で聖書に出会うのです。当時のキリスト教は聖書など用いないし、知らないのです。教父と言われる人たちが教えるもので、それで信仰が導かれていたのです。ルターは初めて聖書を紐解き、初めてイエス・キリストの救いの導きを知ったのでした。聖書を読めば読むほど、今のカトリック教会は間違っていることを知るのでした。そこで、ルターは95の問題点を書き、教会の扉に張り出しました。1517年10月31日であります。それが大きな波紋となり、激しく論争が展開されるのです。ルターはカトリック教会から破門されることになりますが、そのルターを引き受けたのがドイツの国でした。ヨーロッパの国々はかねてよりローマ・カトリック教会に対して良い思いをもってなく、ルターが反旗を翻したとき大いに喜んだのでした。ドイツに逃れたルターは聖書に向かい、聖書から信仰を強められて行ったのです。ルターと共に各国で宗教改革運動が始まりました。フランスではカルバンという人が聖書に根ざした新しい信仰を人々に示しました。まさに聖書は新しい歩みを導いてくれるのです。カトリック教会にプロテスト、抗議してできたのでプロテスタント教会と称しました。それが今から500年前です。日本にプロテスタントキリスト教が伝えられるのは2009年の年で150年でした。まだ150年しか経っていないのです。

 キリスト教の簡単な歴史をお話しましたが、カトリック教会にしても、プロテスタント教会にしても信仰の内容は同じです。どちらも聖書を聖典として、信仰の基としています。イエス・キリストの十字架による救いも、同じように信仰の原点としています。十字架による罪の救いを信じているのです。今、私達は「新共同訳聖書」を用いています。この聖書はカトリックプロテスタントの聖書学者が共同で聖書を訳しなおしたのです。その場合、問題となるのは固有名詞でした。カトリック教会では「イエズス・キリスト」でありますが、プロテスタント教会は「イエス・キリスト」です。この「イエス・キリスト」の固有名詞は社会的にも広まっているので、カトリック教会は妥協したのです。今まで「イエズス様」と称していましたが、「イエス様」と呼びかけるようになったのです。
ルネッサンスの時代に触れましたが、堕落すること、本来の道から外れること、これは人間が根本的にもっている罪があるからです。その罪とは自己満足であり、他者排除というものです。人間は存在が始まった時から、この罪なる姿をもっていたのです。
 聖書の旧約聖書、創世記3章は人間の原罪を示す聖書です。人間の根本的な罪を示しています。神様が天地創造をされたことは創世記1章、2章に記されています。聖書は創世記に、天地は神様によって創造されたと記しています。聖書によりますと、最初は混沌とした状況であり、その混沌に神様が言葉を与えます。「光あれ」と神様が言葉を与えますと、光が現れ、闇と光を分けられたと記します。神様は順次言葉を与え、陸ができ、動植物ができて行くのです。いかにも神話です。これをもって、天地の始まりであるとは、もちろん科学的には言えないわけです。しかし、科学者が天地の始まりを調べれば調べるほど、限りなく言えることは、神様が最初を造られたということです。聖書は天地創造を科学的に証明しようとしているのではありません。天地創造を記すことによって、神様のメッセージを与えているのです。何が何だか分からない状況に神様の言葉が与えられる、すると見えるようになる、形あるものができてくると言うことです。何が何だか分からないこの社会、だからこそ、神様の言葉が与えられていることを受け止めなければならないのです。東北関東大震災が起きて7ヶ月経ちました。さらに大雨による洪水や土砂崩れの災害が発生しています。世の中、この地球はどうなっているのか、と思います。だからこそ、創世記のメッセージは現代に示されているのです。
 そして、人間も創造されました。人間創造については二つの資料があります。一つは創世記1章26節に、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と言って人を造ったと記されています。ここで神様が「我々」と言っています。それは、唯一の神様でありますが、その存在がすべてに及ぶので複数をもって表しているのであります。あるいは、天上の世界において天使たちに語られたので複数になっているとも示されます。さらに「我々に似せて」でありますが、逆に考えると、では神様も五体のある姿なのかと思ってしまいます。そうではなく神様は人間のように形ある存在ではなく、霊的な存在なのです。神様が宇宙万物を支配されるように、人間は天地においても動植物においても、神様から委ねられている管理者であるということです。
そして、人間創造のもう一つの資料は創世記2章7節に記されます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と示しています。ここでは神様が粘土で人の形を造る。しかし、まだ人間ではない。その土の形の顔の鼻に神様の息を吹き入れた。すると人間は生きる者になったと記しているのです。すなわち、人は神様の「命の息」をいただいて生きた者として存在するのですが、その神様の「命の息」から離れ、人の思いに生きるとき、罪が生まれてくることを聖書は示しているのであります。
神様はアダムを造り、そしてエバを造りました。そして、二人をエデンの園に住まわせられるのであります。そして「園のすべての木からとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。」と命じたのであります。二人は神様の戒めを守りつつエデンの園で過ごしていました。ある日、最も賢い蛇が現われ、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と二人を誘惑するのです。二人は今まで神様の戒めだからと、禁断の木には近づかなかったし、忘れてもいたと思われます。しかし、改めて「そうなの?」と聞かれると気になるのでした。そして、改めてその木を見ると「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」のであります。神様の「命の息」をいただいているのに、それはどこかに行ってしまい、今は自分の満足をさせることが優先されているのです。食べること、美しいこと、賢いこと、人間の根本的な願いなのであります。これらの人間の欲望を満たすために、つい人を押しのけてしまうのです。人を切り捨ててしまうのです。これが人間の原罪であると聖書は示しているのです。創世記は神様の「命の息」から離れることにより、原罪におちいることを示しているのです。常に「命の息」を保っていなければならないのです。それができない人間の弱さを創世記は示しています。結局、旧約聖書は神様のお心に生きることができない人間の歴史を記しています。神様の「命の息」を保つために十戒が与えられ、あるいは預言者を通して御心を示されましたが、常に人間は欲望に走ってしまうのでした。
もはや古典にもなっていますが、三浦綾子さんが「氷点」と言う小説を書き、一躍有名になりました。「氷点」は聖書が示す原罪を展開しているのです。人間がどうしても原罪の奴隷になってしまう人間の弱さを物語っているのです。
「氷点」はお医者さんの夫婦が、自分達の娘を殺されてしまうのでありますが、偶然にも自分達の娘を殺した犯人の娘を育てるこになるのであります。後になってお医者さんの奥さんが、自分の娘を殺したのは、今育てている娘の父親であることを知るようになり、娘の陽子をいじめるようになります。お医者さん夫婦には息子がいますが、その息子が陽子をかばい、そして恋に代わっていったり、人間の根源的な自己満足との戦いが展開されるのであります。「氷点」は、何があっても前向きに生きようとする陽子の心がついに凍った瞬間でありました。その原因は、単に継母にひどい仕打ちを受けたという表面的なものではなく、人間が生まれながらにして持つ「原罪」に気付いたことであるとされるのです。三浦綾子さんは「氷点」を書くことにより、人間の原罪を鋭く世に問うているのです。

神様はそのような弱い人間でありますが、人間をあきらめません。罪におちいった人間の世界を嘆き、洪水を持って人間を滅ぼしました。その時、義人ノアに箱舟を造らせ、家族と動物達を箱舟に乗せます。すると雨が続き、洪水となって悪に染まった人間が滅ぼされるのです。しかし、ノアの時代からまた罪の歴史が新しく始まったと言うことなのです。しかし、神様は人間をあきらめてはいません。人間が永遠の神の国に生きることができるように、御子イエス・キリストをこの世に生まれせしめたのでありました。
新約聖書ヨハネによる福音書3章16節以下に記される神様のお心に希望が与えられています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と示されています。神様がイエス・キリストを世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、イエス・キリストによって世が救われるためであります。イエス・キリストによって神様の「命の息」が人々に与えられ、その「命の息」によって永遠の神様の国に生きるものへと導かれるのであります。その命の息を与えるイエス・キリストを、聖書は「光」として示しています。「光が世に来たのに人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」と示し、闇すなわち人間の原罪に生きる姿を指摘しているのです。こうして原罪を求めて生きてしまう私たちでありますが、光は常に私たちの前にあり、私たちを導いておられるのです。光に導かれた人々が永遠の神様の国に召されるのです。
イエス・キリストが十字架で死ぬのは当時の社会的指導者達のねたみでありました。神の国に人々を導くために現われたイエス様は、十戒として示されていた戒めを改めて教えました。十戒は人間の基本的な生き方を示しています。まず「あなたは、父母を敬いなさい」と戒めています。そして「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、隣人に対して偽証してはならない、隣人のものを欲してはならない」と戒めを与えているのです。これは戒めと言うより、人間の基本的な生き方であります。しかし、人間はこの基本が守れないと言うことでありました。十の戒をイエス様は二つにまとめます。「神様を愛し、人々を愛する」ことが十戒の基本であると示します。そのイエス様の教えが人々に受け入れられていくとき、指導者たちは人々がイエス様に傾いていくことを恐れ、殺してしまうのでありました。しかし、神様はイエス様の十字架の死を救いの基としたのであります。イエス様の死と共に人間の原罪を滅ぼされたのでした。従って、イエス様が私を自己満足、他者排除を滅ぼされ、神様の「命の息」によって生きるよう導いておられることを信じるのであります。十字架の贖いを信じて生きる者がキリスト者なのです。そのしるしとして洗礼を受けます。洗礼を受けた者は常に十字架に基本を置き、新しい命の息によって導かれるのです。私たちのすべてが十字架なのです。それは原罪からの救いでありますが、苦しみからの解放であり、悲しみへの慰めが十字架であるのです。イエス様が十字架にお架かりになったのは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ためでありました。悲しく生きるときも、苦しみを持って生きるときにも十字架を仰ぎ見ることによって平安が与えられ、この状況を、勇気を持って生きる者へと導かれるのであります。

 「世が救われるために」聖書の導きをいただいたのでありますが、世界が平和になることは言うまでもありませんが、私たちが永遠の命を得るために主イエス・キリストが十字架の救いを与えてくださいました。私たちがイエス様を信じるのは永遠の命をいただくためです。イエス様によって、「永遠の命」に生きる者へと導かれますが、イエス様は今も「神の国」に生きることを導いているのであります。死んでから「永遠の命」に導かれる喜びでありますが、今が「神の国」に生きているので「永遠の命」に導かれる喜びが与えられるのです。
 ここで、キリスト教の死生観についてお話致します。人間はいずれは死を迎えるのですが、生きている今、「神の国」に生きている喜びを持っています。それはイエス・キリストの十字の贖いにより、罪なる姿が新しい存在へと導かれるのです。生きている今、イエス様が教えられたように、「自分を愛するように、隣人を愛する」者へと導かれているのです。そのように生きるには常に自分の自己満足との戦いがありますが、いつも自分を超えて他者の存在を受け止めつつ生きるときに喜びがあるのです。だから、現実は「神の国」なのです。境遇としては苦しいかもしれません。病があって苦しいかもしれません。悲しみの状況であるかも知れません。しかし、イエス様の御心を持って生きることの現実は「神の国」に生きていることになるのです。従って、現実の「神の国」と、死んでからの「永遠の命」はつながっているのです。文章に例えれば、句点を置くと言うことは仏教的な考えです。この世の生を終えて死んだということは句点になります。彼方の国に送ると言う葬儀になります。しかし、キリスト教は句点ではなく、読み点なのです。生を終えたと言うことは読み点なのです。読み点は一息入れて、まだ文章が続くのです。読み点を入れて、その後は永遠の命に生きると言うことになります。従って、この世の「神の国」も「永遠の命」も読み点によってつながっていることになります。今、「神の国」を生きることが主イエス・キリストの導きであり、世をお救いくださるためにイエス様が現れたということです。そして、生きていながら、既に神の国を生きる者へと導かれているのですが、いよいよ永遠の命への確信を与えられて歩みたいのであります。
 
前任の大塚平安教会時代、一人の方のお証がいつも心に示されています。

証「77年目のイエス様のお招き」 伊藤雪子
 「私は1915年生まれで、今年10月には83歳になります。私の人生の転機について書きたいと思います。それは今から5年位前のことですが、生まれて初めて教会を訪ねた時のことです。イエス様は、そんな私をそれはそれは長い77年もの間、ずつと待っていて下さったということを知りました。私は自分の希望で教会を訪ね、礼拝に出席しましたが、それは今から考えると私の意志ではない、もっと大きな別の力が働いたのだと思います。それは神様が77年も前から準備してくださり、イエス様のお恵みに導かれたということでした。神様のお心を知るようになってから、私は何だか生まれ変ったような気がしています。でも、どんな年齢になっても神様のお心をいただいて生きていくことは、今までとは違った別の人生が導かれるのではないかということでした。どうか神様のお心を頂いて、新しく生まれる人へ皆様と共に導かれ、力強く歩んで行くことができますようお祈りいたします。いつまでもイエス様の十字架を見上げつつ歩んで行くことができますように。」
 幼くしてイエス様の導きを信じて歩んでおられる方がおられましょう。しかし、77歳になってイエス様を信じ、十字架を仰ぎ見つつ歩まれる方もおられます。世が救われるために、神様は主イエス・キリストの十字架の贖いにより、「命の息」を私達に与えてくださっているのです。だから私達はこの世がどのように揺れ動きましょうとも、力強く生きる者へと導かれているのであります。
<祈り>
聖なる神様、私たちに「命の息」を与えてくださりありがとうございます。永遠の生命にいたるまで、神様の命の息により、現実を歩ませてください。イエス・キリストの名によっておささげいたします。アーメン。