説教「『わたしはある』という存在」

2019年11月10日、六浦谷間の集会
「降誕前第7主日



説教・「『わたしはある』という存在」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記12章1~9節

   ローマの信徒への手紙4章13~25節
   ヨハネによる福音書8章51~59節
賛美・(説教前)讃美歌21・411「うたがい迷いの」
   (説教後)讃美歌21・517「信仰こそ旅路を」

 


今朝は11月の第二日曜日でありますが、前週の第一日曜日は、日本基督教団は「聖徒の日」(永眠者記念日)として定めていました。前任の大塚平安教会時代は、この日を召天者記念礼拝としていました。教会の創立以来、50名くらいの召天された皆さんの写真を飾り、皆さんのお証を示されながら礼拝をささげたのであります。この世の人生を偲ぶということ、一時的なこの世の人生は旅路でございまして、私たちはこの旅路をどのように歩み、喜びを持って終わるのか、それが課題であります。その示しとして、今朝はアブラハムの人生を示されるのであります。
人世そのものが旅でありますが、この世に生きる者として、やはり旅をすることは喜びであります。私は、最初の青山教会に4年間、宮城の陸前古川教会に6年半、そして大塚平安教会に30年半、更に横浜本牧教会に6ヶ月在任しました。約42年間の牧会でした。長い間、牧師として務めましたが、あまり旅をする機会がありませんでした。もっとも家族で二三泊の旅行はしています。子供たちが小さい頃は、それこそ毎年のように旅行していました。そういう中で10日ほどの日程でイスラエル聖地旅行をしています。そして、大塚平安教会時代には日本基督教団の書記に就任しましたので、毎年5月になると、日本全国の教区を訪問していました。日本基督教団には17教区があり、毎年5月になりますと教区総会が開催されます。教団の議長、副議長、書記、総幹事が手分けしてそれぞれの教区総会を訪問するのです。教区総会は一泊、二泊で開催されます。北海道から九州、四国等、それこそ全国の都市を訪問していたのです、しかし、教区総会に出席した後は、すぐに帰ってきましたので、観光どころではありません。いずれ隠退したら、ゆっくりと訪問したいとは思っていましたが、隠退したら隠退したで、日本の観光ではなく、娘がスペイン・バルセロナにいるものですから、2011年からは三度も滞在しています。2011年にはバルセロナに一ヶ月半、2012年には二ヶ月、2013年にはマレーシア・クアラルンプールの日本人教会のボランティア牧師として三ヶ月滞在をしました。そして2014年から2015年にかけてはバルセロナに二ヶ月半滞在しています。いろいろな人々との出会い、慣れない生活の体験等で旅をしている思いが深まるのです。
しかし、何も外国生活をして過ごすことが人生の旅路ではありません。日々、普通の生活をして過ごすことが人生の旅路であります。この普通の生活の旅路が祝福されることが私達の願いなのであります。やがてこの世の旅路を終えて、永遠の生命へと導かれるのであります。しかし、この世の旅路が終わると、別の世界へと行くようでありますが、そのようには考えていないのです。キリスト教は、神の国、天国は彼方の世界ではなく、現実の続きとしています。一般的な理解は、死ぬことにより彼方の世界への旅たちであります。棺の中には草履を入れたり、杖を入れたりします。しかし、キリスト教はそんなに重々しくは考えないのです。現実を神の国として生きたとき、死を迎えてもそのまま永遠の神さまの国へと導かれていくのです。例えば、文章にたとえれば、一般の考え方は、死を迎えたとき、それは文章が終わったので句点をつけます。しかし、キリスト教では句点ではなく読み点なのです。点を打ち、そこで一呼吸し、さらに文章が続いていくのです。読み点までの文章はこの世を神の国として生きた歩みです。読み点後の文章は永遠の命なのです。
今生きている状況を神の国と信じて生きること、それが私たちキリスト者の生き方なのです。私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いをいただいています。十字架を仰ぎ見つつ生きるとき、私たちに関わってくる様々なことを受け止め、苦しいには違いない、悲しいには違いない、しかし、主に導かれている者として、現実を受け止めて生きることが神の国を生きる者なのです。この現実を主が共に歩んでくださっているのであります。召天された皆さんはイエス様に導かれて、この世の人生を力強く生きた人々でありました。

 創世記の示しにより私たちも「永遠の命をいただく」信仰に導かれたいのであります。創世記12章1節以下で神様がアブラハムに、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われました。アブラハムは、最初はアブラムと称していました。後に神様はアブラムと契約を結ぶことによりアブラハムと称することになったのです。今朝の聖書の前の段落、創世記の11章31節以下を見ると、アブラハムは父テラ、甥のロト、そして妻サライと共にカルデアのウルに住んでいましたが、そこを出立してハランに住んでいることになります。従って、ハランは生まれ故郷ではありませんが、父と共に住んでいたので、その父の家を後にしなさいというわけです。生まれ故郷をすでに出ているわけですが、場合によっては再びカルデアのウルに帰ることも考えられるわけです。改めて故郷に帰ることを戒め、新たな歩みを導いているのであります。
 故郷、生まれ育ったところに生きることは、何もかも分かっているので生活しやすいのです。しかし、神様はそのような平安の日々から、未知の世界へと導くのであります。不安が伴う歩みでもあります。故郷を後にしなさいと言われた神様は、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と言われます。ここで言う祝福は「大いなる国民」であり、「あなたの名を高める」ことであります。そのためには、与えられた約束を信じ、受止めて歩むことでありました。4節「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムはハランを出発したとき75歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った」。こうして、アブラハムは神様の約束を信じて、神様の示す地へと出発しました。すると、アブラハムは神様の言葉に絶対に忠実に従い、黙々と従っているようです。しかし、その後のアブラハムの姿を見ると、必ずしも黙々と従っているとも思えないのです。
 例えば、創世記15章1節以下を見ると、ここでは神様がアブラハムを励ましています。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは大きいであろう」というのです。ところがアブラハムは、あたかも神様に抗議するかのように、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでした。家の僕が跡を継ぐことになるのです」というのです。神様は、アブラハムに大いなる国民にすると約束しました。ところがこの年になっても子供が生まれないではありませんか、と抗議しているのです。その時、神様は言います、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言われます。神様はアブラハムを外に連れ出して言われます、「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみよ。あなたの子孫はこのようになる」と。アブラハムは不平を言いましたが、改めて、その約束を信じて歩むことになります。その信じて歩むことで祝福が与えられたのでありました。
 ローマの信徒への手紙4章13節には、「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」と示しています。つまり、アブラハムは神様の祝福をいただき未知の世界へと歩みだしたのでありますが、神様がアブラハムを受止め、包み、導いてくれるので、その神様の導きに委ねて歩んだのです。信仰に生きるとは神様が私を受止めてくださっていることを信じることです。私達は不平、不満をいつも言いますが、信仰の導きをいただいている者として、信仰の基である神様のお心に委ねて歩むことが求められているのです。
 アブラハムが神様の導きのもとに新しい世界へと旅立つこと、これが信仰と言うことなのです。大いなる国民とする約束されていること、それは永遠の命をいただく約束なのであります。私たちが主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて歩むとき、永遠の命の約束をいただいているのですが、新しい信仰の歩みは未知の世界です。アブラハムが約束を信じて未知の世界へと歩み始めたように、私達も信仰によって未知の明日へと歩むことなのです。未知の明日ではありますが、永遠の命をいただく約束が与えられているのです。

 神様の祝福をいただき、永遠の命を約束されているのは主イエス・キリストです。ヨハネによる福音書は8章48節からが今朝の聖書です。ここではイエス様がユダヤ人達と論争をしています。論争の中でユダヤ人達が、「わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と言います。それに対してイエス様は、「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父である」と言っています。さらに、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われました。それを聞いたユダヤ人達は、石を取り上げ、イエス様に投げつけようとしましたが、イエス様は身を隠して、出て行かれたのでありました。
「わたしはある」とは神様の名であります。出エジプト記で神様はモーセに現れて、あなたはエジプトで奴隷として苦しんでいる人々を助け出しなさいと命じられます。モーセはこの重い使命を受けるにあたり、奴隷の人々に、どのようにして神様を示すのかを神様に聞くのです。すると、神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお応えになりました。「わたしはある」、これを聖書のヘブル語で言えば「エホバ」ということです。神様は「ある」という存在なのです。「ある」という存在なので、私たちと共におられる神様なのです。それに対して偶像の神様は、形はあっても実態が「ない」ということなのです。
エス様は「わたしはある」者だというとき、神様であることを示していますが、もちろん人間として今は存在しています。人間として存在するとき、神様を信じることを基としているのです。旧約聖書は信仰を基とするとき、大いなる者へと導かれることを示しています。イエス様はこの信仰を基にして、救いの完成へと歩まれたのでした。人間の罪は、自らは決して克服できないので、神様はイエス・キリストが十字架に架けられたとき、それは時の指導者のねたみによるものでありますが、神様は救いの基とされました。イエス・キリストが十字架で血を流して死ぬと共に、人間の奥深くにある自己満足、他者排除の原罪を滅ぼされたのであります。イエス様はその神様の御心を受止め、十字架の道を歩みました。人間的には、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っています。十字架で死にたくありません、と言っている訳です。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」とすべてを神様に委ねておられるのです。

 神様はアブラハムに故郷から導き出し、未知の世界を歩ませました。アブラハムは旅の一生でしたが、祝福の人生であったことを聖書は示しているのです。ところで私の場合、故郷を出ましたが、故郷に戻ってきたのです。今住んでいる家で生長しましたが、23歳の時、牧師になるため、日本聖書神学校に入ります。神学校は寮生活であり、卒業するや牧師になり、実家に戻るとことなく歩むようになるのです。最初は青山教会でしたので、東京の芝白金の生活になり、その後は六郷土手の公団住宅に住むようになります。そして、その後は宮城県の教会に赴任します。そして大塚平安教会に赴任します。もはや70歳になって、隠退しまして、結局は成長した実家に帰ってきたのです。牧師になって、隠退したら自分の家に帰ってきたという人はあまりいません。その場合、このアブラハムの生き方が常に示されるのです。しかし、神様は故郷を後にしなかった者へのお導きを与えてくださっているのです。六浦谷間の集会として、夫婦で礼拝が導かれていること、その礼拝に、時には知人が出席されること、あるいは今までお交わりのあった皆さんがお訪ねくださること、祝福の歩みであると示されています。この様な歩みもまた、旅路の人生であり、神様のお導きの旅路であると示されています。私達の旅路の人生をイエス様に委ねて歩むことを今朝は示されたのであります。「わたしはある」という存在、イエス様に委ねての人生なのです。
<祈祷>
聖なる神様。永遠の命へのお約束をくださり感謝致します。主の十字架を仰ぎ見つつ、今置かれている状況を歩ませてください。主の御名によりおささげします。アーメン

noburahamu2.hatenablog.com