説教「キリストの昇天」

2011年6月5日、横須賀上町教会 
「復活節第7主日」、

説教、「キリストの昇天」鈴木伸治牧師
聖書、エゼキエル書43章1〜7節、使徒言行録1章3〜11節
マタイよる福音書28章16〜20節
賛美・(説教前)讃美歌21・336「主の昇天こそ」、(説教後)405「すべての人に」


 今朝は主イエス・キリストの昇天の意義を示されます。今年の暦は4月22日に主イエス・キリストは復活され、その後40日間、ご復活を人々に証しされました。そして前週の5月2日に天に昇られたのでありました。
今朝の聖書、使徒言行録の証をまず示されておきましょう。使徒言行録は1章8節以下に昇天についての証を記しています。「イエスは言われた。『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土まで、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。お弟子さん達がイエス様の昇天の証ししていることを示しています。
イエス・キリストは3年間、お弟子さん達を導き、訓練しつつ神の国の示しを人々に与えました。そして、十字架の救いを与えて墓に埋葬されますが、三日目に復活されます。復活されたイエス様は40日間、お弟子さん達を始め多くの人々にご復活の証をされました。そして、天に昇られたのです。もはや、主イエス・キリストは現実にはいなくなるのであります。昇天にあたりイエス様が言われたこと、これはかねてよりの約束ですが、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」ということであります。弁護者、パラクレートス、助け主という言い方で聖霊が与えられることを示されていました。昇天にあたり、約束の聖霊を待つ励ましを与えて天に昇られたのでした。従って、イエス様は天に昇られていなくなっており、約束の聖霊はまだ与えられておりません。聖霊降臨までの10日間は空白の日々なのです。しかし、イエス様から示されたように、彼らは一堂に会し、常に祈りつつ過ごしていたのでした。空白の日々だからこそ、ひたすら心を神様に向けて祈っていたのであります。
前週は「信仰に報いる主」について示されました。神様に全身を向け、御心をいただきつつ姿勢をイエス様から与えられました。心から神様に向かうこと、必ず神様は私たちの祈りを受けてくださることを示されました。今、不安の日々を歩むお弟子さん達は、何よりも神様に全身を向ける導きを与えられているのであります。神様に向かう時、神様が私たちを見守り、生きる指針を与え、導いてくださっていることを信じるのです。

 この横須賀上町教会の講壇は、毎月第一日曜日に務めさせていただいています。4月4日から5月18日まで、娘が10年前にスペインのバルセロナに渡り、ピアノの演奏活動をしていますので、ぜひ一度来るように言われておりましたので、行ってまいりました。そのため5月の第一日曜日は休ませていただきました。一ヶ月半の滞在でしたが、いろいろと新しい経験を与えられたのであります。言うまでもないことですが、神様を信じ、主イエス・キリストのお導きに委ねて生きる人々は世界中にいるということです。スペインはカトリック教会の国です。もちろんキリスト教プロテスタントの教会もありますが、圧倒的にカトリック教会が多いのです。しかし、だからと言って、国民がみんな教会に出席するかと言えば、どこの国も同じことが言えますが、若い人たちはあまり教会には出席しません。出席しているのは、若い人も数人いましたが、多くは年齢を重ねた人たちでした。いつもは30名、40名くらいの出席でした。娘はそのカトリック教会に出席し、ピアノやオルガンで奏楽の奉仕をしています。最初、他のカトリック教会に出席しました。そしたら、その教会の神父さんは、プロテスタント教会の信者が聖餐に与ることを拒否したということです。それで、今出席している教会の神父さんに、聖餐式について尋ねると、プロテスタントの信仰でも聖餐式に与ることができると言ってくれました。比較的若い神父さんで、いろいろと理解を示してくれました。それで娘はそのカトリック教会に出席するようになったのです。カトリック教会は讃美歌を歌うにあたり、オルガンやピアノによる奏楽はありません。聖壇にいる信者が発声すると、一緒に歌うことになるのです。讃美歌集がありますが、歌詞だけで曲は記されていないのです。従って、信者の皆さんは耳で覚えて讃美歌をうたっているのです。娘はそのような状況で、会衆の賛美に合わせて奏楽を担当するようになりました。今では娘の奏楽が、皆さんの賛美を励ますことになっているのです。皆さんはミサに集まり、神様を礼拝し、力を得て、また一週間の生活をする。
 バルセロナ日本語で聖書を読む会というグループがあります。バルセロナ在住のプロテスタントの信者の皆さんが、月に一度でありますが、一緒に礼拝をささげているのです。私は4月と5月の礼拝説教を担当させていただきました。出席はいずれも7名でしたが、たとえ少人数でも共に礼拝をささげては信仰が導かれているのです。スペインの首都はマドリッドです。娘がマドリッドで日本の東北関東大震災救援コンサートを開きましたので、私達も一緒に行きました。バルセロナから特急電車で4時間の距離ですから、かなり離れています。マドリッドにあるプロテスタント教会でコンサートを開き、200名の皆さんが日本の災害を覚えつつ出席してくれたのです。そこでもマドリッド日本語で聖書を読む集いが開かれていました。やはり月に一度の集会でしたが、5月の礼拝の説教を担当させていただいたのであります。そこでは8名の皆さんと礼拝をささげました。こうして人数は少ないにしても、共に集まり、心を一つにして礼拝をささげること、世界中のあちらこちらで行われていることを示されました。こちらの横須賀上町教会も出席者がそんなにおられるわけではありませんが、今日も皆さんが導かれて礼拝をささげているのです。スペインで少人数の礼拝をささげておられる皆さんを心に示されながら。今朝の礼拝説教を担当させていただいているのです。思いは唯一つ、神様に全身を向け、主イエス・キリストのお導きをいただくことなのです。
 今朝は主のご昇天を示されています。6月2日が昇天日ですから、6月12日の聖霊降臨日までの10日間は、空白の日々となります。今まではご復活のイエス様がお弟子さん達を励まし導かれていたのです。しかし、今は昇天されてしまったので、今までのようにご復活の主は現れないのです。聖霊降臨後は聖霊の力強い導きをいただくことになりますが、まだ聖霊は降ってはいないのです。
 この時、エゼキエルは神様の顕現を証しし、神様の存在を力強く示しているのです。エゼキエルという預言者は、聖書の人々がバビロンに滅ぼされて、多くの人々がバビロンに連れて行かれましたが、エゼキエルもその一人なのです。捕囚の民と言っていますが、捕囚となって5年後に神様の召命をいただくのです。希望を無くして生きている人々に、神様の御心を示し、導くことでした。預言者として活躍したイザヤ、エレミヤは神様のみ言葉をそのまま語りましたが、エゼキエルは黙示的に、幻を通して神様の御心を示すのです。今朝の聖書、エゼキエル書43章も幻のうちに神様の御心を示しているのです。その幻は、エルサレムの神殿を基としています。そこに神様のご栄光を示されるのであります。その幻は、召命を受けたとき、エゼキエルはケバル川の河畔に住んでいたのですが、幻のうちに御心を示されるのであります。1章4節、「わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起し、火を発し、周囲に光を放ちながら、吹いてくるではないか。その中、つまり火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった」と幻を説明します。この幻はさらに続くのですが、一連の幻を示された後に、神様のみ声が聞こえるのです。これはエゼキエル書2章になって示されています。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」と言われ、希望を無くしている人々に力を与え、神様を仰ぎ見つつ歩むように導きなさいと使命を与えられるのでした。
 今朝の聖書は栄光に輝く神殿を幻のうちに示されます。その神殿は、「ここにわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である」と神様は示しています。栄光に輝く神殿、まさに人々の希望であります。捕囚から解放されて、栄光に輝く神殿に集まるということなのです。そこに人々の生きる希望があるのです。

 新約聖書はマタイによる福音書28章16節以下でありますが、ここにはイエス様が天にあげられることについては記されていません。ここではイエス様がお弟子さん達を宣教に遣わす大伝道命令が記されているのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエス様はお弟子さん達に命令されているのであります。マルコによる福音書ルカによる福音書も、それぞれ最後はイエス様の昇天を証しして終わっていますが、マタイによる福音書は宣教の大伝道命令を与えているだけで昇天については記しません。しかし、この大伝道命令を与えて、イエス様が昇天されたことは、他の福音書使徒言行録によっても示されることなのです。
 使徒言行録では、イエス様が天にあげられる前に、お弟子さん達はイエス様に尋ねています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と聞いています。するとイエス様は、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と言われたのであります。そう言われてから天に上げられたと記しています。つまり、私達が主イエス・キリストの昇天を示されるということは、栄光に輝くイエス様を思いうかべることですが、何よりもイエス様の昇天により、イエス様から宣教の大使命を与えられていることを確認することなのであります。すべての人々に主イエス・キリストの十字架による贖い、救いを与えることです。それと共に「あなたがたに命じておいたこと」を人々に示すこと、それが大伝道命令ということです。
 イエス様が命じたこと、このマタイによる福音書の中にも繰り返し示されています。5章43節、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えています。イエス様はいろいろな教えをしているようですが、根底にあるのは「他者を愛する」ということです。ヨハネによる福音書ははっきりと示します。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15章12節)と命令として教えているのです。
 今朝は主イエス・キリストのご昇天を覚えての礼拝ですが、この日こそイエス様の大伝道使命を深く受け止める日なのです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主イエス・キリストは私達に大伝道命令を与えておられるのです。

エス様の大伝道命令を受け止めましょう、と言うと、何か大がかりな伝道集会のようなことを考えてしまいます。今でも行われますが、大きな伝道集会です。多くの人々が集まり、最後には決心者を募ったりします。それはそれで伝道の成果があるでしょう。しかし、伝道は主イエス・キリストを信じる者が、その生活において救いの喜びを証しすることなのです。
私と共に神学校を卒業した友人は、卒業後は開拓伝道を始めました。開拓伝道というのは、まだ教会がない所で、人々に伝道し、集会を開き、次第に教会を作り上げて行く働きです。チラシを配ったり、案内の看板を作ったりして人々に呼びかけますが、だからと言って人々が集まるものではありません。そのためいつも夫人と共に集会を開いて、続けていたのであります。クリスマスがやってきました。クリスマスだから、どなたかは出席するのではないか、期待を持ちつつチラシを配り、立て看板をあちらこちらに立てたのでした。当日、夫人は祝会用にとお料理やお菓子を用意しました。いよいよ開始の時刻ですが、どなたも来ないのです。例によって、二人でクリスマス礼拝を致しました。結局、最後まで誰も来なかったのです。祝会は二人でお料理をいただきお祝いしたのですが、二人ではなく夫人のお腹には赤ちゃんもいたので、三人でお祝いしたのであります。この手記を読んでいますので、彼は一生懸命にイエス様の大伝道命令に従っているのだなあと思っていました。数年前に、教団総会で逝去教師記念礼拝がささげられましたが、逝去教師の名簿の中に彼の名があり、初めて彼の消息を知ったのであります。それから数年して、日本聖書神学校の卒業式に教団を代表してお祝いを述べたのですが、卒業生の中に彼の夫人がおられたのでした。深い感銘を覚えました。イエス様の大伝道命令を、今度は夫人がいただいて働くこと、神様のお導きであることを示されたのでした。
私達は教会に導かれ、主イエス・キリストの十字架の贖いを与えられ、救われた者としての歩みが導かれています。その喜びを自分の生活の中で証しすることが、イエス様の大伝道命令に応えることなのです。今朝は主のご昇天を覚える日ですが、主のご昇天は私達に改めて大伝道命令を与えておられることを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。主のご昇天の導きを感謝致します。イエス様の大伝道命令に従いつつ歩むことができますようお導きください。主の御名によりおささげ致します。アーメン。