説教「聖霊の賜物」

2011年6月12日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨日(ペンテコステ
聖霊降臨節第1主日」、

説教、「聖霊の賜物」 鈴木伸治牧師
聖書、創世記11章1〜9節、使徒言行録2章1〜11節
ルカよる福音書11章1〜13節
賛美・(説教前)讃美歌21・346「来たれ聖霊よ」、(説教後)343「聖霊よ、降りて」


 今朝は聖霊降臨祭、ペンテコステであります。聖霊がお弟子さん達に降り、聖霊の導きのままにお弟子さん達は力強く立ち上がったのです。主イエス・キリストと共にいたお弟子さん達は、自分達の中で誰が一番偉いのかと論じ合ったり、イエス様が捕らえられると四散して、自分とは関係がないと言ったりしたのでした。極めて人間的に弱い弟子達でした。しかし、その人間的に弱いお弟子さん達に聖霊が降り、自らの足で立ち上がり、聖霊の導きのままに、主イエス・キリストの十字架の救いを人々に宣べ伝える者へと導かれたのです。彼らの証し、彼らの働きが全世界の人々に福音が宣べ伝えられていったのでした。今朝、私たちも聖霊をいただいています。もはや、自分の弱さを嘆く必要はありせん。聖霊が私たちを導いてくださるのです。聖霊の導きに委ねることが私たちの姿勢なのです。このことは前週もエゼキエル書を通して示されました。神様はエゼキエルに、「自分の足で立て」と言われました。神様が導き、力を与えるから、自分の力で立つのではなく、導きに委ねて立ちなさいと示したのでした。そして、エゼキエルは苦しみの人々に希望を与え、力を与えて導いたのでありました。
キリスト教聖霊降臨祭としてお祝いしていますが、この日はユダヤ教も深い意味があります。今朝の使徒言行録にも記されるように、この日はユダヤ教の五旬祭でした。五旬ですから、旬は10日であり、50日ということになります。50はギリシャ語で言いますとペンテコステということになります。五旬祭ユダヤ教の大切なお祭りです。過ぎ越しの祭りの第二日から数えて7週後、50日目にお祝いされました。これは小麦の収穫感謝祭ですが、ユダヤ教では十戒が授与された日とされました。神様から食べる恵みの小麦と生きる指針である十戒が与えられた日としてお祝いするようになっていました。しかし、キリスト教ではペンテコステ、50という数字は単なる数字ではなく、ペンテコステ聖霊降臨の内容になったのです。主イエス・キリストの復活から50日後のペンテコステの日に聖霊が降り、人々に力が与えられ、新しい歩みが導かれたのであります。
 聖霊、聖なる霊は神様です。人間の思いではなく、神様のお心が導きとなるのです。主イエス・キリストは天に昇られるとき、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と弟子達にお話しになりました。そして、天に昇られたのです。お弟子さん達はイエス様が天に昇られたので、何をしてよいか分からないままに、イエス様が導かれたように、共に集まり祈りつつ過ごしていたのでした。これは前週の聖書で示されました。何をしてよいか分かりませんが、何よりもイエス様を裏切ったイスカリオテのユダの後任を決めることでした。候補になったのはバルサバと呼ばれるヨセフとマティアでした。そして神様にお祈りしました。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください」と祈り、二人のことでくじを引いたのです。くじはマティアにあたり、このマティアが弟子に加えられました。くじで決めること、原始的なことと思えますが、人間の判断ではなく、そこには神様の御心があることを信じたのです。お弟子さんは12人であり、欠けを補うということは、神様のお導きを待つということでありました。

 聖霊降臨祭は一つの霊により、一つの心に導かれ、一つの人になるということです。今までは、人間は一つの心にはなれなかったのです。人間の根本的な姿、自己満足と他者排除があったからです。そのことを旧約聖書創世記11章の「バベルの塔」の物語は意味深く示しています。
 天地創造物語において、今朝の聖書に示されるように、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」と記しています。もともと同じ言葉を話していたのに、世界のそれぞれの国はみな違う言葉を話している、その意味を示しているのが「バベルの塔」の物語なのです。東の方からやってきた人々は、シンアルの平野に住み着いたと言われます。ここはバビロニアの土地であります。彼らは「レンガを作り、それを良く焼こう」と言い、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言うことで町づくりを始めるのです。彼らの目的は「有名になること」、「全地に散らされない」ことが目的です。「有名になる」ということは、神様を忘れていることであり、自分自身のためです。また、「全地に散らされることのないように」とは、本来人間が造られたのは「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言うことです。だから神様の本来の意図から外れることになるのです。バベルの塔の町を造るということは、極めて人間的な思いであったわけです。この人間の自分本位の思いを、神様は打ち砕くのです。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉で話しているから、このようなことを始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と神様は言われました。こうしてバベルの塔のある町づくりは建設が中止になりました。そして、人間は全地に散らされたのでした。
 「バベル」とは「混乱」という意味があります。人間は人間的な一つの思いになると、極めて自己満足的な思いに統一されるのです。これは歴史を通して示されています。今でも独裁者がいますが、自分の思いのままに国造りをしています。人々はその独裁者の思いに統一されて行くのであります。今のNHK連続テレビ小説は日本の戦争が背景になっています。子供たちが兵隊さんを称える歌を学校で教わり、歌っている状況が放映されていますが、日本の戦争時代は国民こぞって戦争への道を歩んでいました。これはそのように一つの国民を作り上げていたのです。人間的な一つの思いは、自己満足なのです。日本が戦争により、アジアに侵略し、自分の国を広げて行ったことは、極めて人間的な思いであります。バベルの塔の物語は、「有名になること」、「一つになること」が目的でした。一つになることは、人間的に一つになることであり、これほど恐ろしいものはないのです。人間的に一つになった時、弱き存在、貧しき存在は置き去りにされ、あるいは切り捨てられていくのです。神様がバベルの塔の町を破壊したのは、その人間達の思いでした。人間は全地に散らされ、言葉が通じなくなりました。それにより人間的に一つになることは阻止されましたが、各地においても人間的に一つになろうとすることは、その後も続くことになるということです。

 人間的な思いで一つになるのではなく、御心において一つになることを導くのが、今朝の聖書であります。まず、使徒言行録に示される聖霊降臨を示されておきましょう。
 今朝の使徒言行録により示されます。使徒言行録2章はお弟子さん達に聖霊が降った状況が示されています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されています。聖霊が降った証しです。聖霊は「激しい風のような」、「炎のような舌」と示されています。これはそのようにたとえているのでありまして、「〜のような」としています。聖霊が風であることはエゼキエル書において示されました。風、ルアッハ(霊、神様の息、風)が枯れた骨に吹き込まれます。散らばっていた骨が相つらなり、筋ができ、皮で覆われ、生きた者へと導かれたのでした。死んだように力をなくしている人々に神さまのルアッハが与えられることにより、力を得るのです。立ち上がることができたのです。この使徒言行録においても、力をなくしているお弟子さん達にルアッハが与えられたのです。「激しい風のような音」を聞いたのです。聞いたばかりでなく、一人ひとりに聖霊が降ったということです。
 そして、炎のような舌が弟子達の上に留まりました。舌、べろは味わう部分です。それと共に舌は言葉を作る部分であります。炎のような舌が留まるとは、力強い神さまのお言葉がお弟子さん達に与えられたことを示しているのです。それはまた、主イエス・キリストのお心であり、お導きなのであります。イエス様はこの聖霊を弁護者と言われ、真理の霊とも言われました。イエス様御自身が私たちの弁護者となり、真理の霊を与えてくださるのです。お弟子さん達は聖霊をいただき、もはや家の中に引きこもっていませんでした。五旬祭でにぎわう人々の中に出て行きました。聖霊の導きであり、力が働いて、今まで考えも及ばない歩みが始まったのであります。
 「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と証しされています。聖書の民、ユダヤ人は歴史を通して各地に散らされた民族でした。離散の民、ディアスポラと称しています。その散らされた人々が祭りになると故郷へ帰ってくるのです。旧約聖書詩編の中には「都もうでの歌」というものがあります。遠くから都に集まってくるのでありますが、道々何があるか分かりません。不安を持ち、危険をおかしながらも都に帰って来るのは、祭りを共に喜び、神様の救いの喜びを分かち合いたいからであります。こうして外国に住むうちに言葉も外国語になっているのです。ところが、自分の国の言葉で「神さまの偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚きつつお弟子さん達の証しに耳を傾けたのでした。聖霊の導きは人と人とを分かり合わせるのです。言葉が異なっても、聖霊の導きにより、出会いが与えられるのです。このことは、聖霊をいただいて語り合うとき、言葉と心が通じ合うことを示しているのです。聖霊は人と人とを結びつけます。一つの心へと導かれるのであります。
 もう一度、「バベルの塔」の物語を示されておきましょう。人間的な思いで一つになろうとしたから、神様は人間を全地に散らせ、言葉を混乱させたのでした。今、五旬祭に集まっている人々は各地から集まっており、皆言葉が違います。それなのに使徒達の話すことが分かるのです。御心の言葉により一つにさせられたのであります。聖霊は神様の御心により一つの思いを与えられるのです。
 そこで主イエス・キリストの教えを示されます。ルカによる福音書は、イエス様が「主の祈り」をお弟子さん達に教えておられます。マタイによる福音書の場合は、「主の祈り」は群衆に向けて教えておられますが、ルカの場合はお弟子さん達なのです。ルカは使徒言行録と関係しますので、まずお弟子さん達が「主の祈り」を示され、聖霊を求める者に導かれ、聖霊により一つの心になる働きを導くのです。「主の祈り」は人間の基本的な生き方を求める祈りです。神の国が地上に実現できますように、日毎の糧が与えられますように、赦し合うことができますように、悪の力に打ち勝ちますように、との祈りです。このように祈り、繰り返し祈り求めなさいと教えています。祈り求めることによって、神様は「聖霊」をくださると結んでいるのです。すなわち、「主の祈り」は御心において人間が一つになることを願う祈りであるのです。人間的な一つの心ではなく、御心にあって一つの心を求め、人間は一つになるのです。聖霊が一つの心へと導いてくださるのです。

 一ヶ月半、スペイン・バルセロナにいる娘のところで過ごしてきました。以前は忙しくて行かれないと思いつつも、いずれはスペインに行くので、少しはスペイン語を勉強しなければと思っていました。結局、何も勉強ができませんでした。行く前に簡単なスペイン語会話の本を買いましたが、それも読むことなく、結局は飛行機の中で少し勉強した程度した。せいぜい挨拶の仕方ぐらいです。娘の関わりでいろいろな人たちと出会いました。スペインでは「オラ」が挨拶言葉で、朝でも夜でもその言葉が使えました。後は「グラシアス」の「ありがとう」であり、「アディオス」の「さようなら」の言葉くらいしか話せませんでした。時々、日本語で挨拶します。娘が通訳してくれるので、日本語でよろしいわけです。あちらの皆さんも「ありがとう」に興味があり、何回も言っていました。聖書によれば、人間的に一つになろうとしたから、言葉が混乱したのであり、御心にあって一つになろうとするとき、使徒言行録に示されますように、自分の言葉で示されて来るのです。バルセロナのいろいろな皆さんとの出会いが与えられましたが、一つの言葉に導かれていたと思います。主にあって、一つの思いであり、一つの家族ということでした。
 今朝は聖霊降臨祭です。聖霊は私達にも与えられているのです。その聖霊は私達を一つの心に導いてくださるのです。表面的には言葉の違いがあったとしても、主の御心に生きるものは一つの心に導かれるのであります。お弟子さん達は、聖霊をいただき、力強く立ちあがり、主の福音を人々に語り継いで行きました。私達は主にある出会いを喜びつつ重ねて行きたいのです。そして、人間的な一つの思いを退けながら、主にある一つの心になりたいのであります。主イエス・キリストの福音は、「キリストは、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させてくださいました」とエフェソの信徒の手紙2章14節以下で示しています。聖霊の導きが確信させてくださるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。聖霊をくださり感謝致します。世界の人々が主にあって一つとなるよう、私達を用いてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。