説教「教会の使信」

2011年6月19日、六浦谷間の集会 
三位一体主日
聖霊降臨節第2主日」、

説教、「教会の使信」 鈴木伸治牧師
聖書、出エジプト記19章1〜9節、使徒言行録2章29〜36節
ルカよる福音書10章17〜24節
賛美・(説教前)讃美歌21・351「聖なる聖なる」、(説教後)353「父・子・聖霊の」


 今朝は三位一体主日であります。私達の信仰は、「父なる神、子なるキリスト、助け主なる聖霊」としての神様を信じているのです。神様が三人いるというのではなく、三様に言い表すことのできる神様であるということです。
旧約聖書の時代は唯一なる神様、ヤハウエ(エホバ)の神様が聖書の人々を導き、御心を示していました。聖書の民族の歴史が始まるのはアブラハムからでした。神様はアブラハムを選びました。それはアブラハムを通して神様の御心を人々に示すためであり、ご栄光を現すためでした。神様はアブラハムに言われました。「あなたは生れ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福しあなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12章1-4節)と約束されました。すなわち、神様がアブラハムをお選びになったのは、人間が祝福の民となることです。地上が神の楽園のように、祝福の国になるということなのです。聖書は最初に創世記がおかれますが、そこで最初の人間アダムとエバが創造されました。彼らはエデンの園に過ごすことになります。まさに神様のお造りになった楽園です。聖書の最初にエデンの園が示されることは、人間がこの楽園に生きるということなのです。しかし、アダムとエバが罪に陥っていくように、人間は罪を持つ者として楽園には生きられなくなりました。彼らは楽園から追放されます。しかし、神様は人間を再びエデンの園に生きさせるために、アブラハムを通して御心を示すようになりました。アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヤコブの子ども達へと御心が示されていくのであります。そして、与えられたのが十戒でありました。人間の生きるに必要な基本的な戒めです。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト記20章5-6節)と示されています。幾千代にも及ぶ幸せが与えられるのです。しかし、人間はこの十戒を守ることができませんでした。十戒は基本的に生きる指針ですが、守ることができないのです。
 神様は神様の御心である十戒を守ることのできない人間に対して、御子である主イエス・キリストをこの世に生まれせしめるのであります。イエス様は旧約聖書では絶対的な神様の存在を、「父なる神様」と親しく呼ぶことのできるお方として人々を導かれました。今までは神様の名を呼ぶことすら畏れ多いのに、「父なる神様」と呼ばせてくれたのです。そして、神様の御心を人々に示すとき、イエス様の目的も人々が神の国に生きることでありました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)と宣言して神の国運動を始められました。神の国は死んで彼方の国へ赴くものではなく、今生きているこの世において、神の国を生きるということなのです。しかし、イエス様の教えを受けて神の国に導かれることは、人々にとって困難でした。自分自身を克服できないからです。神様は人間が真に救われ、神の国に生きるために、主イエス・キリストを十字架で死なしめ、イエス様の死により、人間の奥深くにある自己満足、他者排除の姿を十字架と共に滅ぼされたのです。これで主イエス・キリストの時代が終わりました。そして、聖霊の時代になるのであります。聖霊降臨、ペンテコステにより、聖霊の導きが始まったのであります。
 このように父なる神様の導き、主イエス・キリストの十字架の贖い、聖霊の導きはいずれも三位一体の神様であります。神様が三人いるのではなく、それぞれの時代を通して神の国に生きるために神様が人間に関わってくださっているのです。

 今朝は6月の第三主日ですが、毎年6月の第二主日は「子どもの日・花の日」の行事を教会で行っています。今年は前週の聖霊降臨祭と重なりましたが、聖霊に励まされてこの日を迎えています。「花の日」ということで、子供たちが花を持参して、礼拝堂の前に飾り、このように美しく花を咲かせてくださる神様のお恵みは、私達にもくださっていることを示されていました。そして、持参した花は病院や施設、教会に来られない方々を訪問して、神様のお恵みをお届けするのです。この行事については、教会によっては行わないところもありますが、前任の大塚平安教会では「花の日」は神様のお恵みをいただく日として、大切にしていました。というのは私自身が「花の日」によって教会に導かれたからでした。このことについては、この時期になると繰り返しお話していますので、多くはお話致しません。日本の敗戦後、しばらくして私の母が病院に入院するようになりました。その母を、近くの教会学校の子供たちが花をもつてお見舞いしてくれたのです。その日は「花の日」であったのです。見ず知らずの子供たちにお見舞いされた母は、丁度同じくらいの息子、すなわち私の兄を亡くしていますので、深い感動を与えられたのでした。その後、退院しますと、私をその教会学校に連れて行き、花の日の御礼と、今後は息子が教会学校に通いますから、よろしくお願いしますと挨拶するのです。それからは、私は母の励ましにより教会学校に通い続けたのでした。これが私のキリスト教の始まりなのです。花の日の深い意味を示されていますので、今は花を持って病院を訪問することは、いろいろと問題がありますので行きませんが、教会と関わりのある二つの施設を訪問しては利用者の皆さんに花を差し上げ、お交わりを持っているのです。利用者の皆さんもこの日を心待ちにしています。子供達も良い触れ合いの時が与えられるのです。花を差し上げること、教会の業としてお花を差し上げるとき、その花は神様のお言葉でもあるということです。
 旧約聖書は神様のお語りになる言葉こそ、真に人を生かすことを示しています。出エジプト記19章が今朝の聖書であります。エジプトで奴隷の苦しみのうちに400年を過ごした聖書の人々は、神様に選ばれたモーセの導きのもとにシナイ山に到着しました。エジプトを出て三ヶ月を経ていました。このシナイ山で、モーセは奴隷として苦しむイスラエルの人々を救済する使命をいただいたのです。人々はシナイ山の麓で宿営していますが、モーセはこのシナイ山に登ります。神様の使命を行ってきた報告でありますが、今ここで、改めて神様のご使命をいただくことになるのです。シナイ山に登ると神様の御声を聞きます。「あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」と言われたのであります。さらに、「これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」と言われました。神様がお語りになる言葉、それは苦しみからの救済であり、与える戒めを守ることであります。救済を喜び、感謝しつつ戒めにより生きるならば、神様の宝となるといことなのです。この後に十戒が与えられますので、まだこの時点では戒めはありませんが、あらかじめ神様のお語りになることに従って生きるよう導いておられるのです。これを聞いたイスラエルの人々は、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と告白しています。神様がお語りになったことを実践するならば、神様の宝となると示しています。

 神様がお語りになられたことを受け止め、実践して守るということ、これが私達の生き方なのです。新約聖書ルカによる福音書10章17節以下ですが、お弟子さんたちの働きが記されています。主イエス・キリストは10章のはじめに72人のお弟子さん達を町や村に派遣したことが記されています。派遣の内容は、「神の国はあなたがたに近づいた」ということであります。神の国に生きるには神様がお語りになられたことを守ることであるのです。基本的には十戒ですが、改めて神様は主イエス・キリストをとおして、「自分を愛するように、隣人を愛する」と示しているのです。イエス様は「愛する」ことを掟、戒めとして教えておられるのです。派遣されたお弟子さん達は、イエス様のお語りになられたことを人々に教えたのであります。そのお弟子さん達は、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と報告しています。その時、イエス様は「悪霊があなたがたに屈服するからと言って、よろこんではならない。むしろ、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と示しています。神様のお語りになったことを実践することにより天に名が記される、すなわち神様の宝となるということをイエス様は示しています。
 神様の宝となるためには主イエス・キリストを見つめ、お語りなられた神様の御言葉をいただき守ることです。神様の御言葉はイエス様の十字架による救いであります。お弟子さん達の報告を受けたイエス様は神様にお祈りをささげています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるか知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、誰もいません」と言われています。つまり、お弟子さん達がイエス様のお語りになったことを真に受け止め、それを人々に語ったことが祝福されているのです。教会の使信とは、イエス様のお語りになられたことを人々に宣べ伝えることなのです。イエス様のお語りになられたことは神様がお語りになられたことです。十戒をもって、人間が平等に生きること、基本的に愛し合って生きることでありました。だから、イエス様も「互いに愛し合いなさい」と教え、「これはわたしが与える掟である」と教えられたのです。しかし、人間は基本的な生き方ができないのです。そこで神様は十字架の救いを人間にお与えになられたのです。
 使徒言行録は聖霊をいただいたお弟子さん達が、神様がお語りになられたことを証ししています。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」と人々に宣べ伝えています。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と大胆に神様の御言葉を語りました。神様がお語りになられたことは「人間の救い」です。そして、イエス様は救いを実現されました。今やイエス様は天に昇られており、しかし、聖霊の導きが与えられています。今は聖霊の時代なのです。あの弱きを覚えていたお弟子さん達に聖霊が降り、彼らは立ちあがったのです。聖霊の導きのままに神様の救いの御言葉を語る者へと導かれているのです。「父なる神、子なるキリスト、聖霊の導き」を信じているのが私達の信仰です。三位一体の神様がお語りになられたことを人々に宣べ伝えて行くのが私達なのです。

 「教会の使信」ということで今朝の聖書の示しをいただいています。教会の使信は、主イエス・キリストの十字架の救いであります。そこに至るまでの旧約聖書の背景も示されなければなりません。十字架の救いの真髄は「互いに愛し合う」ことであり、それにより永遠の生命へと導かれて行くのです。教会の使信を私達も宣べ伝えて行かなければなりません。何を、どのように宣べ伝えるのかという問いが出るでしょう。十字架の救いを、自分の喜びとして証ししてゆくことです。自分の生活の中心は、イエス様の十字架の救いであること、その信仰を基として普通に生活すれば良いことです。
 先ほども「花の日」について触れましたが、私は二つの施設に関わっていました。社会福祉法人「綾瀬ホーム」と「さがみ野ホーム」です。知的障害者の皆さんが利用しています。それぞれの施設に週に一度、礼拝に赴いていました。「花の日」には大塚平安教会の教会学校の子供たちが訪問しています。以前は日曜日の午後に訪問していましたが、最近は朝のうちに訪問しています。午後ですと、教会学校に出席し、改めて午後に集まるというのは困難でもあるからです。その日は教会の大人の礼拝と合同で行いますので、合同礼拝の前に訪問するようになりました。訪問すると利用者の皆さんが玄関に出てきて、子供たちからお花を贈られるのです。一緒に讃美歌を歌います。施設の礼拝でいつも歌っている「いつくしみ深き」は、皆さんは覚えてしまっているので、一緒に大きな声で歌うのでした。この時の喜びを利用者の皆さんは忘れることができないようです。その後、礼拝に行くと、利用者の皆さんが、「今度いつ来るの」と聞くのです。この間、来たばかりなので来年になることを言うと、頷くのですが、また次の礼拝になると同じ事を聞くのでした。
 この「花の日」の訪問は子供達自身も深く示されているのです。お花を施設の皆さんに贈ったということですが、この訪問を喜んでくれていることを受け止めているのです。これが「教会の使信」ということになるのです。喜びを運ぶということでしょう。イエス様の御言葉を聞いて、それを行うということは、他の存在が喜ぶということです。私の母、病院に入院中の母を、この「花の日」にお見舞いしてくれた近くの教会学校の子供達は、お花と共に「教会の使信」を届けたということになるでしょう。見ず知らずの子供たちから花を贈られた母は、自分の子供も人様に喜んでもらう人になってもらいたい、ということで私を教会学校に通わせたのでした。昔は日曜学校と称していました。日曜日は神様の御言葉を聞いて、行う人になるということを、母は暗黙のうちに理解していたのです。
 私という存在は神様の御言葉を聞いているのです。十字架の救いを基として、人々に「愛する」ことを実践して行くということなのです。これが「教会の使信」なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。神様の御言葉を聞かせてくださり感謝致します。この「教会の使信」を多くの人々に宣べ伝えさせてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。