説教「信仰に報いる主」

2011年5月29日、六浦谷間の集会 
「復活節第6主日」、

説教・「信仰に報いる主」、鈴木伸治牧師
聖書・ダニエル書6章19-25節、テサロニケへの手紙<二>3章1-5節
ルカによる福音書7章1-10節
賛美・(説教前)讃美歌21・318「勝利の声を」、(説教後)457「神はわが力」


 私達は、日曜日になると、神様を礼拝する喜びを得ております。礼拝において祝福が与えられ、力が与えられ、新しい一週間を歩むのであります。神様に向かいつつ歩む私達は、神様の恵みの内に生きていることを、より一層示されるのです。いつも喜びつつ礼拝に導かれたいと願っています。
 4月4日より5月18日まで、スペイン・バルセロナにいる娘の羊子のもとに行ってまいりました。6主日の日曜日を迎えていますが、2回ほどカトリック教会のミサに出席しました。娘の羊子がカトリック教会のミサで奏楽奉仕をしていますので、その教会に出席しました。その日は4月17日の棕櫚の主日でした。実はその前の週において、サグラダ・ファミリアの近くの通りで露天商が立ち並んでいました。それは棕櫚の主日を祝うための物が売られていたのです。いわゆる棕櫚の枝が売られていますが、それは子供たちが持つ物で、男の子用と女の子用がありました。木の葉ではなく、何かの枝で作られていました。合わせてお菓子類も売られており、何かお祭り騒ぎのようでした。その露天商がサグラダ・ファミリアの西側、すなわち東側の「聖誕の門」側ではなく、「受難の門」側で売られている意味を示されたのであります。売られている棕櫚の枝を買い、日曜日の棕櫚の主日のミサに持って行きます。子供達は前に出て棕櫚の枝で主イエス様をお迎えするということなのです。ミサは言葉が分からないので、何が行われているか分かりませんでしたが、流れからして何となく理解できました。十字架の救いを完成するために都エルサレムに入城するのです。受難のためですが、救いのためなのであり、都の人々が歓呼して迎えたように、棕櫚の枝を打ちならしてイエス様をお迎えするミサでありました。
 カトリック教会のミサに出席するのは三回目かと思います。一度は東京カテドラル教会のクリスマス礼拝でした。目白の神学校に近いので、12月24日の夜中に行きました。人が大勢で、後ろの方から覗いた程度でした。何やら神父さんのお祈りが聞こえていました。二回目はNCC宗教研究所の研修会で、そのときはカトリック教会についての研修会でした。ミサを見学していましたが、神父さんが一人で進めていたようでした。そのような理解しかなかったのですが、スペインにおいてカトリック教会のミサに出席し、理解が変えられたのであります。神父さんが一人でミサを仕切るのではなく、信者の皆さんと共にミサが行われるということです。聖書朗読者、リタニーにおきましても、信者が聖壇に進み担当するのです。聖歌も聖壇にいる信者が歌い始め、会衆も一緒に歌うのです。聖歌集は詞だけで曲はありません。皆さんは耳で覚えているということになります。羊子がこの教会に出席するようになって、ピアノやオルガンに合わせて歌うようになったのでした。
 フランス・パリでノートルダム教会のミサを見学した時にも、女性がマイクを通して聖歌を歌い、会衆が共に歌っていたのです。あるいはサグラダ・ファミリアのミサを見学する機会を得ました。南米系の信者のミサということでした。このミサでは、聖書が読まれたり、聖歌が歌われたりする合間に、会衆が手拍子を打つのです。皆でミサに参加しているということです。こうしてミサに参加しては神様の恵みと祝福をいただき、自分の生活に帰っていくのであります。信仰の祝福をいただいて、新しい歩みが導かれるのです。

 旧約聖書における信仰を示されます。今朝はダニエルの信仰です。ダニエル書は聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕らえ移されたことが背景になっています。捕らえ移された者の中にダニエルと3人の若者がいました。彼らは真の神様を心から信じ、異教の世界の中にあっても、信仰に強く生きたのであります。この四人の若者は、知識と才能を神様から与えられており、文書や知恵についても優れていたと記されています。特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができました。それは神様の御心をいただいているからです。バビロンの王様はネブカドネツァル、ベルシャツァル、ダレイオスと代わりますが、そのダレイオス王の時代が今朝の聖書、ダニエル書6章であります。今までの王様もダニエルを大事にしてくれましたが、ダレイオスもダニエルを三人の大臣の一人にもしていたのでした。しかし、捕われの身分でありながら大臣になっているダニエルに対して妬む人々がおりました。何とかしてダニエルを陥れようとしていました。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、妬む人々は訴え出る口実を見つけることができなかったのです。しかし、一つだけ見つけることができるのです。それはダニエルの真の神様への信仰であります。
 それで、妬む人々は王様に進言するのであります。「向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、誰であれ獅子の洞窟に投げ込まれる」との禁令を発布することでした。王様はそれに署名します。ダニエルはダレイオス王がそのような禁令に署名したことを知っていましたが、家に帰ると、いつもの通り二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を神様にささげていたのです。妬む人々はこの事実を見届け、ダレイオス王に訴えたのでした。王様は何とかしてダニエルを救済したいと思うのですが、自分が署名して出した禁令であり、どうすることもできません。家来の言うとおり、ダニエルを獅子の洞窟に投げ込ませたのであります。さて、ダニエルはどうなるのでしょうか。
 そこで今朝の聖書になります。ダレイオス王はダニエルのことで心が痛み、食事をとることもしませんでした。そして朝になると急いで洞窟に行ったのであります。そして不安に満ちた声で洞窟に向かって言うのです。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救いだす力があったか」というのでした。すると洞窟の中から、「王様がとこしえまで生き永らえますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしは何の危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません」とのダニエルの声が帰ってきたのであります。すぐさまダニエルは洞窟から引き出されました。何一つ体に害はありませんでした。
 このダニエルの物語は、信仰に生きる人々を励ましているのであります。このダニエル書の背景は、バビロンに捕われている人々を示していますが、時代的には後の時代になります。その時代はマカバイ時代ということですが、信仰に生きる人々の迫害の時代でした。ダニエル書の著者は時代を遡って、バビロンに捕われの時代における、苦しい状況の中でも信仰に力強く生きた人々を示し、今の迫害の時代に生きる人々を励ましているのであります。神様に向かって生きるならば、必ず祝福が与えられるということです。このことは旧約聖書の信仰の中心なのであります。それはモーセを通して与えられた十戒に示されているのです。神様に向かい、神様の御心に生きるならば、「千代に至るまで恵みが与えられる」ということなのです。これが旧約聖書の基本です。

 神様に向かうならば必ず恵みが与えられるという基本は主イエス・キリストにおいて奨励されているのです。ルカによる福音書7章1節以下は「百人隊長の僕をいやす」との標題で示されています。マタイによる福音書は5章から7章まで、「山上の説教」としてイエス様の教えを集中して記しています。このルカによる福音書は6章20節からイエス様の教えを記しています。「幸いと不幸」、27節からは「敵を愛しなさい」、37節からは「人を裁くな」、43節からは「実によって木を知る」、そして46節から「家と土台」について教えておられるのです。そして今朝の聖書になります。「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入った」と記されます。「これらのこと」とは6章でお話されたことなのです。
 カファルナウムの町に入ると、ユダヤ人の長老達がイエス様にお願いにやってきます。ユダヤにはローマから遣わされている兵隊がいます。百人の兵を率いる隊長、百人隊長はイエス様が町にやってきたことを知り、部下が病気で死にかかっているので、ユダヤ人の長老達に使いを出し、イエス様によって部下を助けてもらいたいとお願いするのです。そこで長老達はイエス様のもとに来て、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛し、自ら会堂を建ててくれたのです」とお願いしたのでした。普通なら自分達を支配しているローマ兵のために何かをするということはないのですが、長老達が言うように、この百人隊長はユダヤ人の人望を得ていたのです。それを聞いたイエス様は長老たちと百人隊長の部下のもとへ向かいました。それを知った百人隊長は友達によりイエス様に使いを出すのです。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします」というのでありました。
 イエス様は、この百人隊長の言葉に感心します。そして、イエス様についてきた群衆に向かって言われるのです。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と信仰というものを教えられました。百人隊長によって使いに出された者が家に帰ると、部下は元気になっていたのであります。百人隊長の神様への信仰、主イエス・キリストへの信仰が祝福されたということです。苦しい時の神頼みという言葉がありますが、この百人隊長は部下が死にそうだから、神様にお願いしようということではなく、日ごろから神様に向かう姿勢を持っていたのです。長老達が言うように、この百人隊長は「ユダヤ人を愛し、自ら会堂を建てた」のであります。それは神様に向かう姿勢です。神様に向かう姿勢がそのままイエス様に向けられたということなのです。日ごろから神様に向かう姿勢が祝されているということなのです。
 イエス様は「これほどの信仰」と言われて感心されていますが、感心される信仰は他にも記されています。ルカによる福音書8章43節以下に、12年間も病気の女性の信仰について記されています。この女性は医者には全財産を使いはたして治してもらおうとしましたが、誰も治すことはできなかったのであります。この女性はイエス様に全身を向けました。イエス様がヤイロの娘が死にかけているので、ヤイロの家に向かっている途上、大勢の群衆がイエス様を囲むようにしているのですが、病気の女性はイエス様の衣に触れたのです。すると、イエス様はご自分から力が出て行ったことを知ります。だから御自分に触った人を探そうとします。お弟子さん達は、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言い、皆がイエス様に触れているというのでした。女性は隠しきれなくなり、震えながら進み出るのでした。イエス様のみ衣に触れると自分の病気がいやされたことを告白したのでした。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とイエス様は女性を祝福されたのでした。「あなたの信仰があなたを救った」と言われますが、その信仰を神様がお受け止めくださったからであります。女性の力ではなく、神様への信仰が祝福されたということであります。

 信仰とは神様を仰ぎ見ることです。それにより神様の御心をいただくことであります。神様の御心は主イエス・キリストにより私達に与えられています。神様の御心は、人間が祝福の人生を歩み、永遠の生命に生きることです。しかし、人間は自己満足他者排除に生きていますので、どうしても神様の祝福の歩みができないのです。そのため、神様は主イエス・キリストの十字架により私達を真に生きる者へと導いてくださいました。十字架は私の奥深くにある罪なる姿を滅ぼしてくださるのです。私達が主の十字架に向かいつつ歩むとき、私達は祝福の神の国に生きる者へと導かれるのです。
 六浦谷間の集会は連れ合いのスミさんと二人だけで始めました。しかし、時にはこの集会に加わってくださる方があるので、平均すると3名位になります。このような少人数の礼拝をささげているとき、スペインに行きまして、改めて少人数の集会の祝福を示されました。バルセロナ日本語で聖書を読む会の皆さんと礼拝をささげることができました。4月16日は私達家族4人と3人の皆さんが出席し、7人の皆さんで礼拝をささげました。5月15日も7人でありました。月に一度、集まって礼拝をささげているのです。流動的であり、日本に帰国されたり、お出かけになったりする方がありますので、なかなか固定しないということです。しかし、集会を支えておられる方がおられますので、このバルセロナ日本語で聖書を読む会が20年も続けられているのです。マドリッド日本語で聖書を読む会においても礼拝をささげました。8人の皆さんと共に礼拝をささげたのでした。こちらも10年の歴史を歩んでいます。たとえ少人数でも神様に向かい、礼拝をささげつつ歩むこと、祝福の人生が導かれるのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。今日も少人数ではありますが、礼拝をお導きくださり感謝いたします。常に神様に向かい御心により歩むことを得させてください。主の御名によ