説教「良い知らせを告げる者」

2010年12月12日、六浦谷間の集会 
待降節第3主日」(アドベント

説教・「良い知らせを告げる者」、鈴木伸治牧師
聖書・ゼファニヤ書3章14-20節、テサロニケの信徒への手紙<一>5章16-24節、
ルカによる福音書1章5-25節
賛美・(説教前)讃美歌21・236「見張りの人よ」、(説教後)431「喜ばしい声ひびかせ」

 待降節第三週になりました。今年のクリスマス礼拝は次週19日ですから、もっとも早い礼拝となります。今年は早いクリスマス礼拝ですが、もうすでにクリスマスの喜びの集いが開かれています。前週の水曜日には、4月から9月までの半年間でありましたが早苗幼稚園の園長を務めましたので、お招きをいただき、クリスマスの集いに行ってまいりました。クリスマスページェントを行うことでした。お祝いの集いは翌日の木曜日に行うということでした。今年はクリスマス礼拝前のクリスマスのお祝いは、早苗幼稚園のクリスマスだけになりました。昨年までは、教会や幼稚園、二つの施設等のクリスマスがあり、忙しく過ごすクリスマスシーズンでもありました。今年は静かに、イエス様のご降誕の喜びをいただきたいと願っています。
 本来、クリスマスは一人一人が主イエス・キリストのお生まれになったこと、それは私自身のためであること、イエス様が私の現実の中におられて導いておられること、その喜びを持つことであります。もちろん、その喜びを皆さんと共にお祝いするのでありますが、個人のクリスマスとして受けとめなければならないのであります。今までは、多くの人々とクリスマスをお祝いしてまいりましたが、今年は真にクリスマスのお恵みをいただいているようであります。
 私の姉の美喜子は68歳をもちまして天に召されました。15年間、リュウマチと闘いながら、信仰に生きる喜びを感謝しながら生きたのであります。母は既に天に送っておりますが、高齢の父と共に寄り添いつつ歩んでいました。姉は12月24日が誕生日でした。その日、姉は父と共に自分の誕生会をしたのであります。お寿司を取り、食前に姉がお祈りしました。お祈りが終わると、父もアーメンと唱和したということです。父は浄土真宗の信仰もっていますが、子供たちのキリスト教の信仰を受け止め、理解していたのです。だから、リュウマチという病を持ち、痛みを持ちつつ歩んでいる娘の生きざまを受け止め、お祈りには共に「アーメン」と唱和したのでした。そのことをここでお話するのは、姉がその状況を日記に記しているのであります。私は、その日記をいつも読みながら、ここに真のクリスマスの喜びがあると示されているのであります。それは姉の誕生日でありましたが、姉はクリスマスを感謝しつつ、自分の誕生日を感謝したと思います。かねがねクリスマスと自分の誕生日が重なることを感謝していたのです。高齢の父を介護し、進行する病と闘いながら、父と共にクリスマスと自分の誕生日を感謝し、お祝いしたのであります。ここに真のクリスマスの喜びが与えられていたのであります。

 「主なる神様はあなたの中にいるのです」と示しているのがゼファニヤという預言者でした。旧約聖書ゼファニヤ書は3章までしかない短い預言書です。この預言の中で、ゼファニヤは都エルサレムにおりますが、社会の悪を指摘し、異教の習慣への批判、どんなに強い国でも神様の支配におかれていることを力強く示しているのです。特に、苦しめられている人々、卑しめられている人々こそ神様の恵みと導きがあることを告知しているのであります。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ」と叫んでいます。エルサレムは中心である都であります。シオンはエルサレムの東の丘であり、ダビデの町と称されていました。しかし、シオンはエルサレムの町を言うようになっていきますが、シオンは広範囲のエルサレムの意味になります。そして、イスラエルはさらに大きな意味でのエルサレムにもなります。イスラエルは国でありますが、エルサレム、シオン、イスラエルは同じ意味、すなわち神様のいますところ、御心が示される場として同等の意味を持つのであります。
 都の中で社会の悪、貧しきもの、弱い者が苦しめられています。それをしっかりと見据えたゼファニヤは神様の御心を人々に示すのであります。だから、「喜び叫べ、歓呼の声をあげよ、喜び踊れ」と叫んでいるのです。「主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」と励ましています。喜びの基は、「王なる主はお前の中におられ」ということであります。さらに、たたみ掛けるように、「シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる」とも示しているのです。あなたのただ中に神様がおられるということです。
 さらにゼファニヤは社会の中で苦しんでいる人々を見つめています。「わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた」と指摘しています。神様が苦しめられている人々を集めてくださるのでありますが、あなたがた自身がそれらの人々を社会の片隅に追いやっていたと指摘しているのです。「お前の重い恥となっていた」と言われる時、私たちの姿を鋭く指摘されているようです。クリスマスのお祝いの時については先ほどもお話し致しました。前任の幼稚園時代ですが、ハンディキャップを持つ子供たちと共に歩む幼稚園として、幾人かの子供たちを受け入れていました。以前のことですが、クリスマスのお祝いが近づき、毎日ページェントの練習をしていました。一人の子供は、落ち着きがなく、いつも補助の先生が付き添っていないと、徘徊して回るのです。その都度、子供を席に戻しますが、いつまでも座っていることができないのです。時には、席に戻すことなく、そのままにしていることがありますが、他の子供たちが落ち着かなくなるのです。だから、やはり席に戻すということですが、補助の先生も大変な介助でもあります。いよいよ当日、クリスマスのお祝いの日がやってきました。朝、教職員礼拝をおこない、いくつかの連絡を確認している時、電話がありました。問題の子供のお母さんからでした。今日はお休みしますということでした。応対した先生が、お休みの理由を聞いたりしていましたが、はっきりは言わなかったようです。お休みと聞いて、なんとなく安堵の思いがありました。しかし、その安堵の思いを消し去ろうとしたことも確かです。あれこれ考えながら、休むことで安堵の思いが出る姿勢を、お母さんに与えていたとしたら、これは本当に申し訳ないと思いました。しかし、お祝いには保護者の参観があるので、辞退したのかもしれません。ゼファニヤが「お前の重い恥となっていた」との言葉は、深く示される言葉であります。その人の存在があることで、この群れは困っているという思いを持ってしまうのです。しかし、神様は、その重い存在のために、御言葉を与えて導いてくださっているのです。
 ゼファニヤの預言の言葉は、現実は苦しい状況であり、神様の御心から離れているような人々であります。しかし、今与えている神様の御言葉は、ときが来れば必ず実現するのであります。今は苦しいのですが、悲しいのですが、ゼファニヤによって与えられた神様の御言葉は、ときが来れば必ず実現するのであります。「わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉を与え、その名をあげさせる」と示しているのであります。

 「時が来れば実現する神様の言葉」を証明しているのがルカによる福音書であります。今朝は主イエス・キリストの先駆者として現れるヨハネの誕生の予告であります。ヨハネはイエス様より先に現れて、時の社会に厳しく悔い改めを迫りました。先祖が祝福されたアブラハムであるので、自分たちは安泰であるという短絡的な考えを糾弾しています。そうではなく、あなた方はあなた方なのであり、神様に悔い改めなければならないと教えたのであります。そして、自分の後には真の救い主が現れるので、今のうちにお迎えする備えをしなさいと教えているのです。そのヨハネが誕生することを予告するのが今朝の聖書であります。祭司ザカリアとその妻エリサベトはもうかなりの高齢になっていました。彼らには子供がいませんでした。ザカリアが祭司のお務めの当番になり、職務を担っている時、天使が現れました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。彼はイスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる」というのでした。その時、ザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言います。何の証拠があってそのようなことを言われるのか、というザカリアの疑いでもあるのです。この年になって、そんなことはあり得ないと言っているのです。
 天使は言います。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことが起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われ、ザカリアは話すことができなくなるのであります。祭司としてのお務めが終わり家に帰りますが、妻エリサベトは身ごもることになるのであります。「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」とエリサベトは神様を賛美したのであります。ザカリアはこのまま話すことができないままヨハネの誕生に至るのです。
 ヨハネが生まれた時、親類や近所の人々が、生まれた子供に父の名を取って「ザカリア」と名づけようとした。ところがエリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」というのです。今まで、先祖にはこのような名前は付けられていませんので親類の人々は不思議に思います。今度は、話ができないザカリアに聞きます。するとザカリアは板に「その名はヨハネ」と書くのでした。もはや、ザカリアは神様の御心、時が来れば実現する神様の言葉を信じていたのであります。その時、ザカリアは話すことができるようなったのであります。与えられた神様のみ言葉を信じること、時が来れば必ず実現すると信じることです。そのように信じたザカリアは、我が子を通して神様が人々に平和をくださることを確信したのであります。この後、ザカリアの預言が記されています。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と救い主の到来を予言するのです。そして、我が子ヨハネについては、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らに訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く」と預言しています。主イエス・キリストの先駆者として、我が子ヨハネが使命を与えられていることを示しているのであります。ザカリアは、これは神様のみ言葉であり、時が来れば実現すると確信しているのです。

 たがら、私たちの日々の歩みは、「時が来れば実現する神様のみ言葉」を信じて歩むのであります。そのためテサロニケの信徒への手紙<一>5章16節以下におきまして、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と示しているのであります。この聖書の言葉については、施設の皆さんにお話していました。 
 聖書には「どんなことにも感謝しなさい」と書いてあります。お友達から何かもらったり、してもらったりすると、皆さんは「ありがとう」と感謝の言葉を言いますね。いつも皆さんは「ありがとう」と言っているのです。本当にそうなのかな。皆さんが歩いていて、横を向いて歩いていたものですから、柱にぶつかっちゃいます。なんで、こんな所に柱があるんだよと怒ることがありますよね。そこで怒っちゃあいけないのです。柱にぶつかったので瘤ができてしまいました。瘤を撫でながら「ありがとう」と言わなければならないのですよ。言えるかな。なんで、瘤ができているのに「ありがとう」って言わなければならないのでしょう。嫌ですよね。でも、柱に頭をぶつけて痛みを感じるのはありがたいことなんですよ。あるお父さんとお母さんには可愛い男の子がいます。いつもニコニコ笑っています。泣いたことがないので、両親は、うちの子はなんていい子なんでしょう、と思っていたんですって。ところがある日のこと、子供が血を流しつつ帰ってきました。おでこが切れています。両親はびっくりしましたが、子供はニコニコ笑っていたのです。普通なら大泣きしているでしょう。それで、両親は初めてこの子の様子を知ることになり、お医者さんに診てもらったのです。そしたら、この子は痛みの神経がないと言われたのです。それから治療が行ったということです。もし、この子がお腹が痛くても、この子はニコニコ笑っているのです。誰もお腹が悪くなっていることは分からないのです。だから、痛いと感じることはありがたいことなんですよ。皆さんは柱にぶつかったら、「ありがとう」って言わなければならないのです。それを感謝と言いますが、嬉しいことばかりではなく、嫌なことも、辛いことも、やはり感謝しながら毎日の生活をすると、生活全体がうれしくなるのです。痛いということも神様が与えて下さったのですよ。今日の聖書の教えです。
 以上のようにお話していますが、「良い知らせを告げる者」の声が聞こえてきていますので、主イエス・キリストのご降誕の備えを致しましょう。それは日々、喜び・祈り・感謝の生活をすることにより、真にクリスマスの喜びを示されるのであります。
<祈祷>
聖なる神様。主のご降誕が近づいてまいりました。日々の生活の現実の中で、真にイエス様をお迎えできますようお導きください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。