説教「招きの言葉」

2010年12月5日、六浦谷間の集会 
待降節第2主日」(アドベント

説教・「招きの言葉」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書55章1-11節、ローマの信徒への手紙15章1-6節、
ルカによる福音書4章14-21節
賛美・(説教前)讃美歌21・231「久しく待ちにし」、(説教後)493「いつくしみ深い」

 今年も早くも12月になりました。待降節は前週11月28日より始まっていますので、今朝はクリスマスを待望する第二日曜日です。12月になると一層イエス様のクリスマスが近づいてきた思いであります。私達夫婦はこの一年はいろいろと変化のある一年でした。今年の3月に30年間仕えた大塚平安教会を退任することでした。送別礼拝、送別会、いろいろ関わったグループ等の送別があり、感激の日々でした。そして、それと共に転居があり、大変な作業でもありました。引越しの整理がつかないまま、4月からは横浜本牧教会の代務者となり、また新しい出会いの中で半年間を過ごしたのであります。大塚平安教会の後任の牧師が10月に赴任するので、それまではということで、社会福祉法人綾瀬ホームやさがみ野ホームの礼拝は続けていました。また、学校法人大塚平安学園理事長も担っていました。それらの職務がすべて終わりました。10月からはどちらの教会にも所属しない無任所教師になりました。10月からは月に一度でありますが、第一日曜日は横須賀上町教会の講壇に立ち、礼拝を担当させていただいております。その他の日曜日は、私の出身教会の清水ヶ丘教会、連れ合いの出身教会の高輪教会等に出席しました。大塚平安教会の就任式があるので、礼拝から出席したり、また横浜本牧教会の就任式がありますので、礼拝から出席したりしていました。そうした中で、私は牧師であり、連れ合いのスミさんは信徒でありますから、この家で礼拝をささげましょうということになり、前週第一回の礼拝をささげたのであります。今日は夫婦ではなく、集められた会衆の皆さんがおられ、主にある礼拝をささげているのであります。今後、どのように導かれていくかは分かりませんが、小さな群れの祝福をお祈りしたいと思います。
 この一年、あわただしく過ごしたのでありますが、今年も流行語というものが発表されました。流行語というのは、今年の世相を反映し、話題になった言葉です。それはテレビや新聞等で紹介される言葉が、人々の言葉になっていくということなのです。NHKの朝の連続テレビ小説ゲゲゲの女房」から「ゲゲゲの〜」ということが使われました。その他、池上彰さんが使う言葉「いい質問ですね」との言葉も流行したということです。あと、いくつかありますが、私自身初めての言葉があり、こんな言葉が流行したんだ、と世の中に取り残されたような思いで読みました。大学野球で日本一になった斎藤佑樹選手が、「何か持っていると言われ続けてきました。今日何を持っているのか確信しました。それは仲間です」との言葉も、社会的に大切な発言であるだけに流行語になったようです。流行語になるということは、自分を代弁する言葉として、ぴったりと思うからです。また、流行語は自分を招いているような面もあるのです。自分の内面にまで入って来る言葉であるのです。その言葉に招かれているのです。今朝は聖書により神様の私たちへの招きの言葉を聞き、その言葉に招かれたいのであります。

 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」と招きの言葉が与えられています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」ということですが、水は人間にとって大切なものです。この水は人間に必要な水分でありますが、それと共に人間に必要な活力、神様からいただく人間の力なのであります。聖書は人間に必要な水が神様から与えられることを示しています。まず、旧約聖書創世記で天地が神様によって造られ、人間がエデンの園に住むことから始められています。そのエデンから一つの川が流れ出ています。エデンの園をうるおし、流れ出た川は四つの川となって行くのであります。ピション川、ギホン川、チグリス川、ユーフラテス川であります。これらの川は世界の隅々まで流れ出ていることを示しているのです。神様によって命の水が与えられていることを示します。聖書の人々がエジプトで奴隷であり、モーセを通して救われ、神様の約束の地を目指す途上、飲み水がなくて人々は不平を述べモーセに詰め寄ります。その時、神様は岩から水を流れさせ、人々の喉をうるおしました。エゼキエル書には神の都から「命の水」が流れ出ていることを示しています(47章)。詩編第1編の2節「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときがめぐり来れば実を結び、葉もしおれることがない」と示していますが、水すなわち神様の御心に生きることが祝福であることを教えているのです。
 イザヤ書が招きの言葉をもつて始めているのは、今や神様の御救いが実現していることを示しているからであります。イザヤ書55章は第二イザヤによって書かれたとされています。この第二イザヤ書イザヤ書40章から55章までで、バビロンに捕われている人々を励まし、慰め、希望を与えるのであります。もともと聖書の人々がバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捉え移されたのは、人々が神様の御心に従わなかったからであります。バビロン、エジプト、アッシリアという大国の狭間にあって、どの国に頼るかが最大の課題となり、神様の御心に従わなかったことでありました。バビロンに滅ぼされるということ、一つには神様の審判でもありました。バビロンに捕らえ移された人々は、改めて神様の御救いを待望するように導かれていくのであります。その働きをしているのが、やはり捕らえられ、共にバビロンにいる預言者、第二イザヤなのであります。そして、バビロンの勢力が弱くなり、ペルシャの国が強くなっている状況下で、今こそ神様がお救いくださることを示しているのです。神様の招きの言葉を聞きなさいと示しています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」と示しています。
 私たちは、この招きの言葉がイエス様によって私たちに与えられていることを知っています。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と示されています(ヨハネによる福音書4章14節)。
 このイザヤ書55章は「御言葉の力」として書かれています。神様の「招きの言葉」には力があります。神様がくださる御言葉は、この地上において人間の希望になるのであります。今朝の聖書55章11節、「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と示しています。「わたしの口から出るわたしの言葉も」と言われています。それは前の段落で示されています。すなわち、「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない」のです。「それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える」のであります。雨や雪が降ればむなしくならず、祝福を与えるように、神様の言葉も、人間に与えられるならば、むなしく神様のもとには帰らないと言われています。必ず祝福に変えられて神様のもとに帰るのです。今、イザヤを通して神様の「招きの言葉」が与えられています。その招きの言葉がどのように神様のもとに帰って行くのでしょうか。

 それが新約聖書の報告となっていくのであります。ルカによる福音書4章14節からが今朝の聖書です。ここでは主イエス・キリストが「ガリラヤで伝道を始める」ことが記されています。イエス様がお生まれになること、それはこのルカによる福音書の1章、2章で記されています。今朝はそのイエス様が世に現れることを記しているのです。今朝の聖書の前で、イエス様が誘惑を受け、悪魔と闘い、退けたことが記されています。神様の御言葉により悪魔に勝利したことが記されているのです。そして、今朝は神様の霊に満たされ、ガリラヤに帰えられたと記しています。すぐにもイエス様の評判が高まり、人々から尊敬されたとも記されています。
 イエス様はナザレに来て、ここはイエス様が育ったところですが、会堂で聖書を読まれました。それはイザヤ書61章1節、2節であります。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」との言葉を読まれました。イザヤ書の言葉とは少し言い方が異なりますが、救い主が人々に解放と回復、自由と恵みを与えるために到来したことを示しているのであります。
 旧約聖書で「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と預言されていますが、わたしの言葉とは、実に主イエス・キリストなのであります。イエス様が神様の言葉としてこの世に現れたことを示すのが聖書の証しであります。イエス様は、社会の中で弱きを覚えている人々の友となりました。当時の社会は因果応報の考えを持ちますから、病気であるとか、体が不自由であると、それは悪いことをしたからだと因果的に言うのです。目が見えない、先祖が悪い人であったとします。そういうことで差別を受け、排除されていくのです。また、社会的にも貧しい人々がいます。そういう人々も社会の隅におかれながら生きていたのであります。イエス様が神様の御言葉として現れた時、解放と回復、自由と恵みを人々に与えたのであります。
 このルカによる福音書には「ザアカイさん物語」が記されています。ザアカイさんは徴税人です。聖書の国ユダヤはローマに支配されていますから、ローマに税金を納めなければならないのです。誰もローマに税金を納めることは嫌がっています。まして徴税人になるのは嫌です。しかし、生活のためにもそのような仕事をする人がいます。ザアカイさんです。ザアカイさんは悪い人ではありません。しかし、人々はザアカイさんを悪者にしているのです。自分たちからローマのために税金を徴収するからです。ザアカイさん自身、自分は皆から悪者にされているという思いがあり、孤独に生きていたのです。社会から差別を受けて生きなければならないこと、ザアカイさんは本当につらい人生であったのです。そのザアカイさんがイエス様と出会いました。イエス様は積極的にザアカイさんに近づいてくださったのであります。イエス様と出会ったザアカイさんは、その後、心を開き、たとえ人々がなんと言おうとも社会の中で生きるようになったのであります。まさに解放と回復を与えられたザアカイさんでありました。
 「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」のがイエス様であります。イエス様は、時の指導者の妬みにより十字架への道を歩みます。人々がイエス様の教えを喜び、心をイエス様に向けるようになった時、ユダヤ教の指導者達は妬みを起こし、何とかしなければ自分たちが浮かばれないと考えたのであります。十字架に付けてイエス様を無くすことです。こうした人間のたくらみに対して、神様は御言葉としてこの世に出現したイエス様でありますので、むなしくは死に至らしめませんでした。人間のどうしても救われない姿、自己満足、他者排除、この姿を神様が十字架で滅ぼされたのであります。従って、十字架によって抹殺されたイエス様ですが、この十字架から新しい命が生まれるようになったのであります。神様の言葉としてこの世に与えられたイエス様は、むなしく終わったのではありません。「むなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と示される通り、人々の救いとなられたのであります。その主イエス・キリストの招きの言葉を聞きましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様が招きの言葉をくださっています。

 「六浦谷間の集会」との名前で、前週から礼拝を始めました。「谷間」というのは、四方山に囲まれて、あまり陽もささない場所であり、人々も忘れているような場所であります。「谷間の百合」という言葉がありますが、あの谷間でも百合が咲くというような印象があります。御存知のようにここは谷間とは言われない場所です。なぜならば里山でしたが、そこにはいたるところに家が建ち、谷間どころか、上の家、下の家のような印象です。鈴木家がここに転居したのは私が4歳の時でした。追浜の浦郷というところに住んでいたのですが、そこには日本軍の追浜飛行場があり、戦争中で危険であるからと強制的に転居させられたのです。周りは小高い里山でした。少年の頃はこの里山で遊んで育ったものです。今は里山どころか家が建ち並んでいます。しかし、あえて谷間の集会としました。私自身、現役から退く身になり、次第に忘れられていくような存在になっています。「去る人は日々に疎し」と言われますが、群れから離れると人々から忘れられていくのです。
 しかし、招きの言葉をいただき、神様の御言葉をこの体に宿している私たちは、たとえ人々に忘れられようとも、この社会の中に場所を得て生きているのです。それが谷間なのです。この集会、谷間に来てくださる皆さんが、孤立することなく、この谷間から希望を与えられ、この谷間から喜びと希望を持ってそれぞれ場で生きるのです。谷間に生きる私たちに、神様が力強く招きの言葉を下さっているのです。
<祈祷>
聖なる神様。この谷間の集会に私たちを集めてくださり感謝致します。神様のお招きの言葉を受け止めて歩ませてください。主イエス様の御名によりおささげ致します。アーメン。