説教「命の収穫」

2010年11月21日 
「降誕前第5主日

説教・「命の収穫」、鈴木伸治
聖書・サムエル記下5章1-5節、コリントの信徒への手紙<一>15章20-28節、
ルカによる福音書23章35-43節
賛美・(説教前)讃美歌21・471「勝利をのぞみ」、(説教後)386「人は畑を良く耕し」

 今朝はいろいろな意義が示されます。まず、本日は「収穫感謝日」であります。ユダヤ教では麦の収穫感謝としての五旬祭と、ぶどうの収穫感謝としての仮庵祭があり、その他の国でも収穫祭がおこなわれています。日本では昔、新嘗祭というものがありました。これは皇室の行事であり、今では「勤労感謝の日」とされています。日本の教会が「収穫感謝日」としているのは、アメリカが第四木曜日に「収穫感謝祭」を行っているので、11月の第三、または第四日曜日を「収穫感謝日」として礼拝をささげています。神様が私達にお恵みを下さっているので、私たちが日々の歩みを導かれているのです。使徒言行録14章16節以下には、「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」と示されています。まさに神様は自然の恵みを通して、私たちを導いてくださっているのです。人間はその恵みを思うことなく、これは自らが植え、育て、収穫したと思っています。しかし、あの小さな種粒から、どうして芽が出てくるのか、その自然の神秘を探ることはできないのです。神様が自然の神秘を導いてくださっているのです。収穫感謝日には子どもの教会も大人の教会も、皆さんが果物、野菜等を持ちより、前方に飾り、これはまさに神様のお恵みであることを感謝しつつ礼拝をささげます。持ち寄った神様のお恵みは、前任のドレーパー記念幼稚園では社会福祉法人綾瀬ホームやさがみ野ホームにお届けします。施設の利用者の皆さんにも、神様のお恵みをお分けするという意味があるのです。
 本日はまた「謝恩日」とされています。謝恩とは、長年牧師として歩まれた皆さんが、隠退されて過ごされていますが、隠退された教師、また御遺族への感謝をあらわす日にもなっています。私自身、まだ無任所教師ですが、いずれ隠退教師になります。牧師はもともと信徒でありました。神様に召されて教師、牧師になりますと死ぬまで教師の身分になります。隠退しても隠退教師なのです。私も40年間、牧師として歩んでまいりました。まだまだ働かれるではありませんか、と言われますが、そうだとしてもお手伝い程度の働きはできるでしょう。日本基督教団は年金制度を設けています。隠退教師にわずかではありますが年金を支給しています。年金の財源は牧師の掛金がありますが、教会の献金で支えることになります。「謝恩日」には謝恩日献金をささげ、年金の財源としています。また、「隠退教師を支える100円献金運動」があります。全国の教会の信徒の皆さんが、毎月100円をささげる運動です。この運動からも年金局に繰り入れ、年金の財源にしているのであります。長年、牧師として働かれた隠退教師を覚えてお祈り致しましょう。
 さらに、本日は「終末主日」であります。来週からは早くもアドベントになります。主イエス・キリストがこの世に到来するのを心から待望するのです。今年のクリスマス礼拝は12月19日であります。26日に行う教会もありますが、この世的には歳晩礼拝であり、重なりますので、多くの教会が19日に行うでしょう。アドベントはクリスマスの4週間前から始まるのです。キリスト教の暦はクリスマスをもって新しい歩みが始まります。昨年の新しい歩みは本日の終末主日をもって終わります。そして、来週から新たなる歩みとなるのです。終末主日におきまして、終末を深く受け止めなければなりません。天地宇宙の始まりがあったのですから、天地宇宙の終わりもあるということです。聖書は終末を教えていますが、その時には主イエス・キリストが再び現れて、正しい者と悪いものを選別すると示しています。マタイによる福音書24章43節以下に、「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とイエス様がお示しになっています。
 今朝はこのようないくつかの意義を示されながら、「命の収穫」を与えられ、祝福の歩みを導かれたいのであります。命の収穫をいただくことは、神様の御心をいただくことでありますが、その道筋が今朝の示しなのであります。

 旧約聖書ダビデイスラエル国家の王様に選任されたことを記しています。サムエル記下5章からであります。イスラエルの国は、もともと王国ではありませんでした。神様を中心とする12部族の宗教連合体でありました。従って、各部族の長を中心にそれぞれが歩んでいたのです。しかし、周辺の国々に悩まされておりました。その時、現れたのが士師と言われる人たちです。ギデオン、サムソンという士師が現れて、地域的に聖書の人々を救ったことが士師記に記されています。そういう中で、我々も王国になる必要があるとして、祭司サムエルに王を立てるように申し入れるのです。そして、最初に立てられたのがサウル王でした。サウル王は当初は神様の御心をもって国を治めていましたが、次第に自分の思いで国を治めることになるのです。それで、神様はサウルではなく、ダビデを王として選任します。しかし、この世的にはサウルが王として君臨しているのです。ダビデはサウルの家来として仕えますが、ダビデの働き、武勲もあり、人々はダビデに心を寄せるようになります。サウルは面白くなく、ダビデを殺そうとするのです。サウルから逃れて、ダビデは逃亡の身となります。そのことを記しているのがサムエル記上であります。
 サウルが戦いで死にました。その子どものヨナタンダビデとは親友の仲ですが、彼も戦いで死んでいくのです。サウル王が死んだので、サウルの司令官アブネルは、サウルの子供イシュ・ボシェトを擁立してイスラエルの国を守ろうとします。しかし、ダビデが属するユダ族はダビデこそ王であることを主張して、アブネルには従いませんでした。その後、イシュ・ボシェトとアブネルの仲が悪くなり、アブネルはダビデにつくことになるのですが、ダビデの家臣が自分の兄弟がアブネルによって殺されたとして、アブネルを殺してしまうのです。こうしてダビデには敵対する者がいなくなり、全イスラエルの王様に選任されたのであります。それが今朝の聖書です。
 ダビデは長老たちから油を注がれます。神様の御心としてダビデが神様に選任された時、サムエルはダビデに油を注いでいます。そして、まさに新しい王として油が注がれたのであります。「油を注ぐ」ということは、救い主として選任することであります。油注がれた者は指導者となりますが、神様の御心により人々を指導するのです。神様の御心による指導ですから、良い歩みが導かれるということであります。「油を注ぐ」との言葉は「メシア」であります。メシアは良き指導者、救い主であります。従って、「メシア」は「救い主」との意味に代って行ったのであります。ダビデは30歳で王となり、40年間王様でした。7年6ヶ月の間、ヘブロンの地でユダ族の王でしたが、33年間は全イスラエルの王様となったのであります。ダビデはまさにメシアでした。いつも神様の御心を人々に示したのであります。そのため、後の世の人々が、苦しい時代にあって、再びダビデが現れることを待望するようになったのであります。新しい命を与えてくださるメシア待望が生まれたのであります。そのメシア待望は新約聖書の時代になり、主イエス・キリストの出現で実現するのですが、人々は分からないままイエス様を迎えたのであります。

 終末主日であり、主イエス・キリストが十字架上で死ぬ状況が新約聖書の示しであります。マタイによる福音書は、東の国の占星術の学者たちが、都のエルサレムにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と言いながら探し歩きました。実際のヘロデ王は穏やかではありません。自分が王であるのに、新しい王が現れたとは、いったいどういうことかであります。学者たちはイエス様にお会いしますが、ヘロデ王には生まれた場所を告げずに帰って行ったのであります。王様として現れましたが、それはまた待望していたメシアの出現でありました。人々はイエス様の教えに驚き、また喜び、受入ました。しかし、一部には「ダビデの子よ」と呼びかける人がいますが、そういう呼び方をするのは危険でもあるのです。「ダビデの子」は王としての存在であるからです。救い主ではないか、と人々は思いながらも口には現すことができません。人々はイエス様により、驚くべき奇跡を体験し、心を揺さぶる御心の示しをいただくのですが、メシアとしての確信が持てなかったのであります。
 時の指導者の妬みによりイエス様は十字架にかけられました。総督ピラトの命令により、十字架には「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられていました。占星術の学者たちも総督ピラトも外国人であります。外国人がイエス様を「ユダヤ人の王」と呼んだのでありました。そして、人々はメシアなのか、分からないままに「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれたものなら、自分を救ってみろ」というのであります。主イエス・キリストはこの世に現れ、神様の御心を示し、苦しい状況にある人々をお救いになりました。差別を受けて生きる人々が多くいました。病にある者、社会の底辺におかれる人々、イエス様は社会の人々から除外されている人々と共におられたのであります。主イエス・キリストが十字架に架けられて死ぬのは、時の指導者達の妬みによるものですが、神様は救いようのない人間をお救いになるために、むしろイエス様が十字架で死なれることを御心とされたのでありました。すなわち、主イエス・キリストの十字架の死と共に、人間の奥深くにある罪、事故満足、他者排除をイエス様の十字架の血により贖われたのであります。私たちは十字架を仰ぎみるとき、私の罪をイエス様が贖ってくださったと信じるのであります。「自分を救え」と人々は言いました。イエス様は自分の命により私達に「命の収穫」を与えてくださいました。私たちはイエス様により永遠の命へと導かれているのであります。今与えられている私の命は、イエス様が新しい命へと導いてくださったのであります。新しい命を収穫する喜びを与えられたのであります。

 新しい命の収穫は、私達が他者と共に生きることを導いているのです。新しい命の収穫により、差別と闘い、貧困と闘い、暴力と闘う人々が導かれて来るのです。アッシジのフランシス、アルベルト・シュバイツァーマザー・テレサマハトマ・ガンジーマーチン・ルーサー・キング、ディートリッヒ・ボンヘッファー等、その人々をあげるとしたら枚挙にいとまがありません。マーチン・ルーサー・キング牧師は黒人差別に立ちあがりました。奴隷制度との戦いでもありました。キング牧師ばかりではなく、奴隷解放、差別撤廃を叫ぶ人々が多くいました。それらの人々は、手段として力で対抗していたのであります。それに対して、力をもってではなく、非暴力、無抵抗でデモ行進を展開して行くのです。次第にキング牧師の働きに共鳴し、共に非暴力デモ運動に参加する人々が多くなってくるなかで、キング牧師は自分の死を予測するようになります。しかし、今ここで運動をやめたら、奴隷制と差別はますます深くなっていくことを知っています。たとえ、死が待ち受けていようとも、差別と闘い、奴隷制度撤廃を叫び続けたのでありました。
 もう一人を紹介すると、ディートリッヒ・ボンヘッファー神学者・牧師はドイツの悪人ヒトラーと闘った人でした。ヒトラーは自分がドイツの中心となるために、ユダヤ人差別をドイツ国民に焚き付けました。ドイツ国民がユダヤ人差別へと変えられていくなかで、ボンヘッファーは憂慮します。ドイツ国民はヒトラーに利用されているだけであると主張し、大学をはじめ至るところで間違った差別について訴えていきます。そのボンヘッファーは当局からブラックマークをつけられ、監視されるようになります。彼はアメリカにわたりますが、そのことを深く後悔し、再びドイツに戻るのであります。ドイツに戻れば自分の命が危ないことを承知していました。しかし、アメリカの地でヒトラーに対抗するのではなく、祖国ドイツで叫ばなければならないと決心するのです。
 こうしてキング牧師ボンヘッファー牧師は主イエス・キリストの十字架に立ち、自分の命を張って差別と闘い、弱者と共に戦ったのであります。二人には共通点がありました。二人ともマハトマ・ガンジーの存在があったのです。ガンジーはインドの非暴力運動の指導者、政治家でありました。このガンジーの影響をキングもボンヘッファーも受けていたのです。しかし、影響は受けているものの、その根源は主イエス・キリストの十字架の救いであります。イエス様の十字架の愛に押し出されて、差別と闘い、弱者と共に生きたのであります。
 ガンジーの言葉として「敵と相対するときには、その敵を愛で征服しなさい」が残されています。ガンジーキリスト教徒ではありません。しかし、人間が基本的に生きる教えは共通するものがあります。イエス様は言われています。「悪人にて向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えておられるのです。何よりもイエス様が十字架にお架りになることは、神様の人間への愛であり、主イエス・キリストの愛であります。イエス様の愛を実践する時、私たちは祝福の命の収穫を与えられるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。多くの恵みをいただいておりますこと感謝であります。さらに祝福の命を収穫する者へと導いてください。主イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン