説教「生きている者の神様」

2010年11月14日 
「降誕前第6主日

説教・「生きている者の神様」、鈴木伸治
聖書・出エジプト記3章1-15節、ヘブライ人への手紙8章1-13節、
ルカによる福音書20章27-40節
賛美・(説教前)讃美歌21・58「み言葉をください」、(説教後)470「やさしい目が」

 先週の金曜日に映画「100歳の少年と12通の手紙」を鑑賞しました。この映画を知ったのは、10月19日に配信された「いのちのことば社メールマガジン」でこの映画を紹介していました。11月6日から公開されるというので、ぜひ見たいと思っていました。
 内容を紹介しておきましょう。オスカーという少年は10歳ですが、白血病で病院にいます。オスカーに対して両親もお医者さんも婦長さんも、何かを隠しているように感じるようになります。だからオスカーは大人たちの言動に不信感を抱くようになり、誰とも口を利かなくなるのです。ある時、オスカーはピザ屋のローズと出会います。ピザを配達に来たローズとぶつかってしまい、ローズは持っていたピザを廊下に落としてしまいます。ローズは口汚い言葉でオスカーを叱ります。しかし、オスカーはローズが真実に自分の気持ちを投げかけたので、気持ちがローズに向くのです。オスカーは主治医にローズを呼んでくださいと頼みます。主治医にしても婦長さん達も知らなかったのですが、どうやらピザを配達に来る人であると分かり、彼女を呼ぶのです。主治医からオスカーの様子を聞き、ぜひ話し相手になってほしいと頼まれますが、ローズは家族でもない子どもであり、死にゆく子どもの相手などできないと断ります。しかし、主治医のたっての願いで、ついにローズはオスカーの病室に入るのでした。ローズは元女子プロレスラーでした。オスカーはローズから12日間面会を許されたと聞き、自分の命を悟るのです。悲しみのどん底にいるオスカーに、ローズは故郷の言い伝えを話しました。「一日を10年と考えて生きようね。そして、毎日神様に手紙を書こうね」と勧めるのです。オスカーが手紙を書くと、ローズは病院の庭に出て、風船に手紙をつけ空に飛ばすのでした。病室から天国の神様に飛んでいく手紙を見つめるオスカーでした。オスカーは神様を否定していました。それでは神様に会わせてあげる言い、ローズは病院に分からないようにオスカーを連れ出し教会に連れて行きました。礼拝堂の正面には十字架のイエス様が置かれていました。それを見たオスカーは、苦しんでいるイエス様は神様ではないと言います。あなたのために苦しんでいるのだとローズ。神様にはおもちゃや自動車のようなものをお願いするのではなく、勇気や忍耐をお願いするの、ときっぱり言われるのです。オスカーは手紙を書くうちに神様を信じるようになって行くのです。1日を10年と数えはじめて10日を経ました。つまり100歳になっていました。そして、オスカーは静かに天国へと召されていったのです。その10日目には2通の手紙が書かれており、ローズは二つの風船に手紙を結び付けて天国へと送ったのでした。
 10日間は100年にも値するほど大切な日々でした。何よりも神様に心を向けながら、生きている証しを示されながら、力強く生きたのです。まさに神様は生きている者を導く方なのです。元女子プロレスラーのローズは気性の荒い人でしたが、小さな少年が命を見つめて生きており、自分が少年と共に生きるようになって変えられていきました。ひとりの存在を見つめることは、神様の御心が示されてくるということ、奇跡が起こるということ、周囲の者まで変えていくということを、この映画は示していたようです。小さな存在、弱い存在を見つめ、受け止めることは、自分が変えられていくということです。自分の苦しみを率直に手紙に書きました。今の状況をそのまま書きました。神様に向かっての短い命でありました。また、12通の手紙にも意味があります。12は聖書の聖なる数字とされているからです。神様の御心にある12通の手紙ということになるのでしょう。

 今、現実に苦しみがある。悲しみがある。その状況を神様に申し上げることです。私が生きているから、私を導いてくださるのです。死んでから天国に導かれることでありますが、現実に生きているからこそ、神様に心を向けるのであります。聖書の人々は苦しんでいました。だから、苦しみながら神様に心を向けていたのであります。
 今朝の旧約聖書出エジプト記3章であります。神様がモーセに対して、苦しみに生きる人々を救済させるために、その任を負うように迫っているのであります。モーセはもともとエジプトで奴隷として生きている夫婦から生まれました。その頃、エジプトの王様は、自分の国にこれ以上外国人であるイスラエル人が増えていくことの恐れを抱き、生まれてくる男の子を殺害していました。モーセの両親は心を痛め、箱舟に赤子のモーセを入れてナイル川に流すのであります。その箱舟を拾ったのが王の娘でした。娘は奴隷の子供と知りながら自分の子どもとして育てるのであります。従って、モーセはエジプトの王子として成長するのであります。モーセは自分の境遇を知るようになり、同胞がエジプト人に苦しめられている現場で、思わずそのエジプト人を殺してしまうのです。そのことが露見し、モーセはエジプトを追放されたのでした。苦しい砂漠の旅の末、行き着いたところがミディアンの地でした。そこでエトロの娘と結婚し、羊の群れを飼う牧者となり、平安な日々を過ごしていました。ある時、神の山と言われるホレブに来ました。シナイ山とも言います。そこで神様はモーセに声をかけるのです。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオの元に遣わす。わが民イスラエルの人々を連れ出すのだ」と神様はモーセに命じるのであります。しかし、モーセは「どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々を導き出さねばならないのですか」と答えています。エジプトの力強さを良く知っているからです。そのエジプトから追放されてきたのです。
 神様の励ましを受けたモーセはようやく決心するのですが、不安があります。「わたしは、今、イスラエルの人々のところに参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」とモーセは言いました。モーセ自身も神様については知らないのです。先祖の神が今も導いていることは信じています。しかし、具体的には神様を知らないのであります。その時、神様はご自分を示されました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました。「わたしはある」という方が神様のお名前なのです。この名を第三者的に言うと「エホバ」となります。昔からエホバの神様として私たちも知っています。しかし、この読み方は正確ではなかったようで、「ヤハウエ」という呼び方になっています。昔の文語訳聖書はエホバの神様の名がそのまま書かれていました。しかし、口語訳聖書になってからは神様の固有名詞が消えてしまいました。それは、十戒に「わが名をみだりに唱えてはならない」とありますので、エホバと書いてある部分は「主」と読み替えているのであります。
 神様のお名前は「わたしはある」ということです。生きて働く神様を意味しているのであります。神様は目には見えませんが、「有る」というお方なのです。それに対して、偶像なる神は、形があって見えていても、実態がない神なのです。「有る」神様だから、今苦しみ、悲しみつつ生きている人々を受け止め、導いてくださるのであります。モーセは、その後も、口下手であるからとか、理由を付けて辞退しようとしますが、神様はそのモーセを励まし、エジプトへと使わされたのでありました。エジプトにおける救済物語は割愛しますが、「有る」神様はあらゆる導きを示し、ついに約束の乳と蜜の流れる土地へと奴隷の人々を導かれたのでありました。「有る」神様は昔のアブラハムの時代、イサクの時代、ヤコブの時代の神様でした。そして、今、「有る」神様として苦しみに生きる人々の神様なのであります。生きている者の神様がエホバの神様であるということです。

 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と主イエス・キリストは示されています。新約聖書ルカによる福音書20章27節以下が示されています。サドカイ派の人々がイエス様のもとにきて尋ねました。サドカイ派の人々は復活を否定しています。それで、極端な例をあげながらイエス様に質問するのです。聖書の世界には「家名の存続」の掟があります。その家が絶えることなく、子孫を残していくためであります。これは旧約聖書申命記25章5節以下に示されていることです。サドカイ派の人々はその掟をまず引用します。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない」という掟です。そして尋ねたことは、7人の兄弟がいて、兄が結婚しましたが、子供ができないで死んでしまいます。だから弟が兄の嫁と結婚しますが、弟も子どもができないまま死んでしまいます。その後、兄弟たちが兄嫁と結婚することになるのです。最後に兄嫁も死んでしまいます。問題は復活した時、その女性は誰の妻になるかということです。面白い質問ですが、切実な問いでもあるでしょう。実際、お連れ合いが死んで、その後再婚しますが、天国ではどうなるのだろうと思われる方があるでしょう。しかし、再婚される方は、もはや死んだのであるからと割り切っておられます。
 サドカイ派の人々の意地悪な質問に、イエス様は見事な答えを示しています。「復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことはない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と示されたのであります。この世に生きているので、結婚して子供が与えられるのです。復活の世界は霊の世界ですから、肉体的な愛というものはありません。生きているから愛し合い、あるいは憎しみをもってしまうのです。愛し合う二人が、両親から許されず、自殺してしまうのです。天国で幸せに生きることが願いであるのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とイエス様はお示しになっておられます。この世で二人の愛が許されないのであれば、心を合わせて神様にお祈りすることです。神様は良い導きを与えてくださるのです。幸せはこの世に生きている時にいただかなければならないのです。「生きている者の神」様は、御心におとめくださるのです。「有る」と言われる神様は、私の現実に有られる方なのです。
 創世記のヤコブは、共におられる神様に気がつきます。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と告白するのでした。ヤコブは兄エサウと双子で生まれます。双子で生まれたのに、自分は弟の身分になったことで面白く有りません。昔のことですから、兄は家を継ぎ、豊かな財産を受け継ぐことになるのです。面白くないヤコブは兄をだまし、兄の権利を奪ってしまうのです。家を継ぐ者は父から祝福を受けなければなりません。それを知った兄は烈火のごとく怒ります。その兄から逃れて、母の兄、伯父さんのもとへと逃れていく旅の途上でした。ある夜、野宿していると夢をみます。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていたのであります。すると、神様が現れ、ヤコブに言うのです。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われたのであります。これは夢で示されたことなのです。ヤコブが眠りから覚めた時、まさに神様が共におられることを心から信じたのであります。神様は現実に生きておられ、私と共に歩んでくださるとの信仰をもってヤコブは生きたのであります。
 神様は彼方にいて、「お出で、お出で」と言って手招きされておられる神様なのではなく、「有る」神様として、私たちと共にいて歩んでくださる神様なのです。

 NHKが視力障害者の弁論大会を報じていました。優勝した人は弱視の女の子でした。弱視の自分が嫌でたまらなかったと言われます。中学を卒業し、高校へ進学する時、盲学校を選ぶのです。それは弱視の自分をはっきりと見つめるようになったからでした。今までは、人に知られまい、皆と同じようにしたいとの思いが強かったのです。しかし、自分と向き合った時、自分が社会の一員になることは、自分を社会に示すことであると思うようになったのです。弱視の自分を公にしたのです。それにより、力強く全身が導かれたとお話されていました。感銘を与えられました。自分が自分であることをしっかりと受け止めることなのです。その自分を包んでくれる存在を知るようになるのです。自分が自分ではないような生き方においては、自分を包み、導いてくださる存在との出会いはありません。絶えず自分から逃げているからです。
私たちはこの世に生きるものです。いろいろな人間の営みの中に置かれています。家族と共に歩んでいます。しかし、一人で歩んでおられる方もあるでしょう。障害を持って歩んでおられる方もあるでしょう。私たちの現実に主イエス・キリストがおられることを知ることです。私たちは、つい自己満足に生きてしまいます。それがために他者を排除しつつ生きてしまうのです。イエス様は十字架にお架りになり、私たちの中にある悪い姿を十字架により滅ぼされたのであります。そして、絶えず私の現実におられ、私と共に歩んでくださっているのです。神様は生きている者の神様であります。
<祈祷>
聖なる神様。私たちと共におられ、お導き下さり感謝致します。共におられる神様を多くの人々に証しできますよう導いてください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。