説教「みこころに適うこと」

2010年9月26日 横浜本牧教会
聖霊降臨節第19主日

説教・「みこころに適うこと」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記32章23-33節、コロサイの信徒への手紙1章24-29節
マルコによる福音書14章32-42節


 今朝は横浜本牧教会の最後の講壇となりました。お招きをいただき、この半年間、代務者としての務めをさせていただき感謝しています。前任の大塚平安教会を3月に退任することになり、4月からは無任所教師としてゆっくり過ごしましょうとの思いを持っていました。10月の教団総会で日本基督教団の総会書記を退任するので、それまでは隠退ができません。少なくとも今年の2月27日の神奈川教区総会まではそのように思っていました。教区総会のお昼の休憩のとき、古旗誠牧師や森田裕明牧師、他の牧師と共に食事をしました。その時、古旗牧師が横浜本牧教会の代務者をしていただけないかと再度打診されました。再度というのは、その前にも要請があったのですが、4月以降はゆっくりしたいとの思いがあり、お断りしていたのです。食事をしながら、再度依頼されて、思わず「行ってみるか」と言ってしまいました。そしてら、古旗牧師は他の牧師たちに、「聞いたよな」と確認させたのです。みんな「聞いた、聞いた」と言うのです。もう後には引けず、そこで決定となったのであります。変な代務者としての就任でありますが、それからは気持ちを変えて、横浜本牧教会の牧者として勤めを目指したのであります。原則として講壇は毎週立たせていただきました。皆さまと共に御言葉に向かうことができ、感謝しています。
 今朝の聖書を通して「みこころに適うこと」を示されるのでありますが、御心が与えられている私たちは、御心から逃げることなく、みこころに従うということを示されています。大塚平安教会の牧師は知的障害者施設の綾瀬ホーム、さがみ野のホームの嘱託牧師として関わることでありました。次の牧師が10月から赴任するので、それまで勤めることになりました。そして、先週の金曜日の礼拝で二つの施設の嘱託牧師としての職務が終わったことになります。ところがホームの利用者が召天され、本日は前夜式、明日は告別式の葬儀を行うことになりました。何か、まだまだと言われながら、職務に追いかけられているのであります。こちらの早苗幼稚園の入園案内を私が作ることになり、最終的に出来上がるのは9月30日であります。いろいろなところで、「まだ仕事があるよ」と後ろから声をかけられているようであります。
 自分自身が「みこころ」にどのように従っているのか。つくづく反省させられています。そういう私に示される御言葉は、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練をうけたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ人への手紙3章7、8節)であります。この私に「みこころ」が示されているということ、そのみこころに従うことが求められているのであります。今朝の聖書は私に与えられている御言葉であり、皆様と共に御心を示されたいのであります。

 旧約聖書は創世記32章23節以下、ヤコブの召命が示されています。「ペヌエルでの格闘」と題されていますが、この格闘を通してヤコブがみこころに従う者へと導かれていくのであります。ヤコブは聖書でも初期の人でありますが、極めて人間的に生きた人であります。その意味でヤコブを批判したくなりますが、しかしヤコブはこの私の自分の姿であると示されるのであります。聖書の最初の人物はアブラハムであり、ついでイサクに継がれ、そしてヤコブの時代になります。ヤコブはイサクの双子の子どもとして生まれますが、弟になります。ヤコブは自分が弟であることが面白くなく、兄エサウから兄の権利を奪ってしまうのであります。兄の怒りから逃れるために、ヤコブは母の兄ラバンのもとに逃れる事になります。ここで平和な生活をすることになりますが、伯父さんの羊を飼う仕事は、いくら働いても自分の財産とはならないのであります。そのため、伯父さんの羊とは別に、自分の羊を飼うようになり、それも随分と多くの羊を飼うようになるのであります。このこともヤコブの人間的に巧みな生き方でもありました。ヤコブは、年月を経ていよいよ故郷に帰ることにしました。しかし、故郷には騙した兄がおり、その兄のもとに帰ることの危険がありますが、やはり故郷へと帰って行くのであります。故郷を前にして、ヤコブは兄エサウへ沢山の贈り物を届けさせました。そして、明日は兄エサウとの再会というとき、ヤコブは家族や僕たち全員をヤボク川の向こうに渡します。そして、その夜は一人ヤボク川のこちら側で夜を過ごすことにしたのであります。
 そこで今朝の聖書になります。もはや夕刻でありますが、ヤコブが一人でいると、何者かが現れ、ヤコブと格闘をしたと言うのであります。その辺りは詳しく記されません。一晩中格闘したと記しています。「その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた」と記しています。するとヤコブと格闘している人は「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言いました。するとヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と言いました。すると、格闘していた相手は、ヤコブの名を確かめ、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と言われたのでありました。
 ここに示されていることは、何かよく分からない面があります。ヤコブと闘った相手は神様であるということは、ヤコブ自身が分かるようになります。そして、自分と闘っている存在が神様であるとき、ヤコブは相手に祝福を与えてくれるまで離さないと言いました。まさに、今まで人間的に狡猾と思える生き方でありました。今までは人間に対しての生き方でありましたが、今まさに神様と向き合うことになったということであります。人間ではなく、神様に向くとき、神様の祝福をいただかなければならないのであります。イサクの双子として生まれ、弟であるので家を継ぐことはできません。家を継ぐのは兄であり、父からの祝福をいただかなければなりません。ヤコブは兄をだまし、その祝福を狡猾な手段でもぎ取ってしまったのです。人間に対しては祝福をもぎ取ることはできました。しかし、神様の祝福はもぎ取ることはできないのです。だから、「祝福を与えてくださるまで離さない」というとき、「みこころに適うことをさせてください」と願っているのであります。そのように願うヤコブに、神様は「お前の名はなんというか」と尋ねます。「ヤコブです」とはっきり答えているのであります。ヤコブが自分の名は「ヤコブです」と答えたとき、それまでのヤコブの生き方がありました。人間的に狡猾に生きてきたヤコブです。自分の望む通りの生き方でありました。「ヤコブです」と答えたヤコブは、自分の人生のすべてを神様に申し上げたのであります。こういう私ですが、みこころに適うことを、させてくださいと願っているのであります。そのようなヤコブでありますが、神様はヤコブに御心を示しました。ヤコブは、もはや個人ではなく、イスラエル国家の中心になって行くのであります。神様のみこころに適うことを求め、また実践する者へと導かれていったのであります。

 ヤコブと同じような存在が、新約聖書のペトロであります。マタイによる福音書16章13節以下にペトロの信仰告白が記されています。イエス様は世の中の人々がイエス様をどのように理解しているのかお弟子さん達に尋ねました。するとお弟子さん達は、昔現れたエリアだとかエレミヤであると人々の評判を言うのでした。するとイエス様は「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお聞きになりました。シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。するとイエス様は、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたのであります。「この岩の上に」と言っていますが、「あなたはペトロ」と言われたとき、「ペトロ」とは「岩」を意味している言葉でありました。従って、ペトロという岩の上に、教会ができることを示しているのであります。イエス様が、「あなたはペトロ」と言われたとき、ペトロは実に間違いの多い人でした。湖の上でおぼれそうになるのはペトロであります。その時、「なぜ、疑ったのか」とイエス様から叱られるのであります。イエス様がお弟子さん達の足を洗うと言えば、手も頭も洗ってくださいと言うのはペトロでした。そして、ペトロはイエス様とは関係がないと三度も否定してしまうのであります。そのように人間的に弱いペトロでありますが、「あなたはペトロ」であると言われ、御心を示されているイエス様なのです。旧約聖書ヤコブ新約聖書のペトロはまさに人間的に弱い人達でありましたが、その彼らに神様は「みこころに適うこと」を示し、導いておられるのであります。御心をお示しになるとき、はっきりと自分の存在を確認させ、その上で御心を示されたのであります。今のあなたに御心を示すということであります。他の誰かのような姿でなく、知識があり、学問があり、あるいは優れた存在としての私ではなく、私というありのままの存在に御心が示されるということであります。
 「みこころに適うこと」を実践されているのは主イエス・キリストであります。マルコによる福音書14章32節以下はイエス様が「ゲッセマネで祈る」ことが示されています。もはや主イエス・キリストの十字架の救いの時が、目の前に迫っている状況であります。マルコによる福音書は1章15節でイエス様が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、宣教を開始しました。そして、ガリラヤで伝道を始められたのであります。まず、4人の人をお弟子さんにしました。シモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネであります。汚れた霊に取りつかれている人をいやし、多くの病人をいやしました。さらにお弟子さんを加え、12人のお弟子さんと共に神の国の実現のために伝道されたのであります。そのイエス様の前に立ちはだかり、イエス様の伝道を批判するのは指導者達、律法学者やファリサイ派の人々でした。イエス様はユダヤ教の宗教社会の中で、新しいキリスト教を広めていったというのではなく、神様のお心に導かれ、現実を神の国として生きるということでありました。しかし、人々は主イエス・キリスト神の国の福音を示されながらも、現実を神の国として生きることができなかったのであります。神様は人々の自己満足、他者排除をお救いになるために、旧約聖書以来、戒めを与え、預言者を通して教え導いて来ましたが、人間は救われない存在でありました。ついに神様は主イエス・キリストにより救いを完成させるのであります。主イエス・キリストの十字架による贖いであります。人間の自己満足による他者排除を十字架により滅ぼされることでした。主イエス・キリストは神様の御心を知ります。神の国の実現のために伝道を致しますが、救いの原点がない限り人間は救われないことを示されるのであります。ご自分が十字架にお架りになることであります。神の国の福音を述べ伝えながらも、十字架の道を踏みしめて進むことになるのであります。そして、ご自分が「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達から排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とお弟子さん達にお話するようになりました。このことは三度もお弟子さん達にお話致しますが、お弟子さん達はその都度、「そんなことがあってはなりません」とイエス様に進言したりしていました。その時が迫ってきました。
 今朝の聖書はイエス様の救いの時、十字架の救いの時が間近に迫ったことが記されているのであります。マルコによる福音書14章は、イエス様がお弟子さん達と最後の晩餐をします。そこで記念となる聖餐式の原型をお示しになりました。そして、食事の後、お弟子さん達と共にゲッセマネのというところに参りました。イエス様は、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われ、少し離れたところでお祈りするのであります。イエス様は地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにお祈りされたのであります。「アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください」とお祈りします。イエス様は一人の人間としてこの世に現れているのです。苦しいことは同じように苦しいのです。死にゆくこと、苦しみつつ死ぬことの恐れはあるのです。いよいよ、この時が来たのです。この時を見つめながら、神の国に生きる喜びを人々に示されてきたのです。しかし、ご自分の十字架の贖いがない限り、人々が神の国に生きることは実現できないのです。いよいよ、その時になりました。「この苦しみを過ぎ去らせてください」とお祈りしています。しかし、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とお祈りされています。神様の御心のままにしてくださいとお祈りしているのであります。すべてを神様に委ねておられるのであります。
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 「みこころに適うこと」、自分の思い、計画ではありません。神様の「みこころに適うこと」は、祈りつつ求めることであります。私は本日の講壇により代務者の務めが終わりますが、これは神様の「みこころに適うこと」と示されています。この3月で大塚平安教会を退任し、4月からはゆっくりとお茶でも飲みながら過ごしましょう、というのは自分の思いでありました。10月26日から開催される教団総会で書記の任が解かれるので、後はのんびり過ごしましょう、と思っています。その私に、どんな御心が示されるのでしょうか。「みこころに適うこと」を祈りたいと願っています。横浜本牧教会の皆さんにありましても、「みこころに適うこと」を祈りつつ歩むことであります。礼拝をささげ、祈りを共にし、お交わりを深めていくこと、「みこころに適うこと」であります。
<祈祷>
御神様。主の十字架の救いを与えられ、この群れの一員として歩むことができ感謝致します。みこころに適う歩みをお導きください。主の名によりおささげします。アーメン。