説教「救いの出来事」

2010年9月19日 横浜本牧教会
聖霊降臨節第18主日

説教・「救いの出来事」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記12章21-28節、ヘブライ人への手紙9章23-28節
マルコによる福音書14章12-26節


 今朝、私達は礼拝に導かれ、皆さまと共に礼拝をささげています。それは救いに与った者として、救いの喜びを確信し、この救いを基として歩むためであります。あるいはまた、救いを求めて礼拝をささげておられる方もおられます。救いを与えられている者、求めておられる方、いずれも「救い」が中心であります。聖書を開けば、「救い」という言葉があふれています。「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」(創世記49章18節)、「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(出エジプト記14章13節)と旧約聖書は神様による救いを次々に示しています。主イエス・キリストも「今日、救いがこの家に訪れた」(ルカによる福音書19章9節)と言われ、また「あなたの信仰があなたを救った」(マタイによる福音書9章22節)と言われて、一人の存在の救いを喜ばれているのであります。そして、お弟子さん達もイエス様の救いを人々に伝え、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマの信徒への手紙10章9節)と示しています。聖書は救いを示しているのであり、どこを開いても救いに関する出来事が記されているのであります。救いを示す聖書でありますが、救いの出来事の根本を今朝の聖書は示しているのであります。
 救いは聖書に示される過越しであり、十字架の救いであります。しかし、「救い」という言葉はキリスト教でなくても使われています。貧しさからの救い、病む人々の救いは人間の根本的な願いであります。私たちにとって、「救い」は聖書の救いの出来事であります。聖書の救いの出来事ではない「救い」の一人歩きがあります。宮城県の教会にいる頃、夏のお祭りには必ず出てくる人々がいます。その人たちは町の人たちがお祭りを楽しんでいるとき、「死後さばかれる」とか「今は救いのとき」などと書かれたプラカードをかざしながら、スピーカーを背負い、放送して歩くのです。こちらは子供を連れてお祭りを楽しんで歩いているのですが、近所の人から「関係あるのですか」などと聞かれるので、「全く関係ありませんよ」というのであります。他の牧師は、そういう人たちが来ると、「この人たちは私たちの○○教会とは関係ありません」とスピーカーで言って歩くなどと聞きました。一方、モルモン教の宣教師たちは町の人たちと共に歩むことが狙いであり、一緒になって神輿を担いだり、山車に乗って太鼓をたたいたりしていました。救いの出来事を真実示すことが伝道であります。 

 旧約聖書出エジプト記を示されています。神様の救いの根本がここに示されています。最初の人アブラハム、イサク、ヤコブの族長時代の救いというものも示されますが、奴隷からの解放、救いは聖書全体の救いの下敷きになっているのであります。
 今朝の聖書、出エジプト記12章21節以下は神様の救いが実現するにあたり、聖書の人々が救いに与る準備をする所であります。聖書の人々がエジプトで奴隷である、この意味を分からない人々がいます。奴隷として働かせているエジプト人も、奴隷として働かせらせている聖書の人々、イスラエル人も、なぜなのか分からない人々がいるのです。これは少し遡らなければなりません。族長ヤコブの時代、飢饉、冷害が起こり、食べ物に窮することになりました。それでエジプトに食料があるというので、ヤコブの子ども達10人が買い出しに行くのであります。そこで、はからずも11番目の兄弟ヨセフに出会います。ヨセフはエジプトで王様に次ぐ大臣になっていました。兄弟達は驚くと共に恐れるのであります。なぜならば、このヨセフを兄弟達が奴隷として売り渡してしまったからであります。ヨセフはヤコブの12人の子ども達の中でも、父のヤコブがこよなく愛している息子でした。他の兄弟達は面白くありません。何とかしなければとの思いが、ヨセフを奴隷として売ってしまうことでした。本当は殺すことまで考えたのですが、一番上の兄が殺すことは思いとどまらせたのでありました。売り飛ばされたヨセフは、不思議な力がありました。それは夢を解くということです。王様が変な夢を見ました。誰もその夢を解き明かすことができません。それがヨセフへの導きとなり、ヨセフは王様の不思議な夢を解き明かすのであります。7年間は豊作が続き、その次に来る7年間の飢饉は豊作を飲み込んでしまうというものです。だから、豊作の期間、穀物や食料を貯蔵することを王様に進言するのであります。王様はヨセフの夢の解き明かしを喜び、ヨセフを大臣にして食料の管理をさせたのであります。そこで食料の買い出しに来た兄弟達との再会になりました。ヨセフは恐れる兄弟たちに、「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここに売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言うのであります。
 こうしてヤコブの一族はエジプトに寄留することになりました。その後、ヤコブもヨセフも死んでしまいます。そして、このエジプトに外国人が住んでいることの意味を知らない王様の時代になります。自分の国で外国人が多くなっていくことに恐れを持つのであります。それにより奴隷の時代が始まるのであります。奴隷として苦しむこと400年と言われています。この苦しみの声を神様が受けとめ、モーセという指導者を立てて救い出すのであります。モーセはこの大きな職務に恐れを持ち躊躇します。しかし、神様はモーセを励まし、救いの業を行わせるのであります。モーセはエジプトの王様ファラオに、聖書の人々がこの国から出ていくことを交渉します。しかし、王様は応じません。今や奴隷の力はエジプトにとっては大きな力になっているのであります。奴隷の労力がなければ何もかも進められなくなるのであります。かたくなに拒否をする王様に、モーセは神様の力を持って迫ります。水を血に変えてしまいます。いよいよ飲み水がなくて、王様は出て行ってもよいと言うのですが、元に戻ると再び過酷な労働を命じるのであります。この後、蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災い、疫病の災い、はれ物の災い、雹の災い、いなごの災い、暗闇の災いを与えました。災いを与えられて苦しむときには、もはや奴隷を解放すると言うのですが、災いが無くなると心を翻してしまうのであります。
 そして、ついに最後の災いが下されるのであります。それが今朝の聖書になります。神様の最後の災いは、エジプトに住むすべての初子は死ぬということでした。聖書の人々もエジプトに住んでいるのです。神様の審判から救われるために、聖書の人々の家の鴨居に羊の血を塗っておくのです。審判の日、モーセは聖書の人々に、「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血をご覧になって、その入り口を過ぎ越される」と示すのであります。
 こうして過越の救いが与えられたのであります。この救いの過越は定めとし、永遠に守らなければならないと示しているのであります。子どもたちが、この儀式にはどういう意味があるのですか、と尋ねるならば、こう答えなさいと示します。「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」と示しなさいと言うことです。従って、毎年この過越の祭りがおこなわれ、救いの原点を示され、救いを確認しつつ歩むのであります。救いは昔の出来事ではなく、今の出来事であると受けとめるのであります。今生きている場が救いの出来事であるということであります。

 主イエス・キリストも過越の食事を致します。旧約聖書過越の祭りが、イエス様による救いの時となるのであります。「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意致しましょうか」と弟子たちが聞きました。すると、イエス様は、「都に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子達と一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」と言われたのであります。
最初のところに「除酵祭」とありますが、これは「種入れぬパンの祭り」であります。旧約聖書で、神様の最後の審判の時、羊の血を家の鴨居と二本の柱に塗っておきました。それによりエジプトに審判が下され、王様のファラオは奴隷を解放したのであります。人々は急いで種入れぬパンを作り、それを持って脱出したのであります。種とは膨らまし粉、イースト菌であります。パンをこねて、ゆっくりとパンを作る時間がありません。急いで脱出した記念であり、救いの記念でありました。それは歴史を通して守られてきました。イエス様の時代も種入れぬパンの祭りとして過越の祭りがお祝いされたのであります。
 こうして準備された食卓で、イエス様は救いの儀式を示されたのであります。マルコによる福音書14章22節以下は「主の晩餐」として示されていますが、「最後の晩餐」なのであります。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の地である』」と言われたのであります。イエス様の十字架による贖いはこの後ですが、あらかじめ儀式を示されたのであります。イエス様が十字架にお架りになり、復活されたとき、お弟子さん達はイエス様の残された儀式をしっかりと受け止め、聖餐式として守るようになりました。イエス様が十字架にお架りになる前に、最後の晩餐を通して聖餐式をお定めになられたのは、十字架の救いが前提であります。十字架により血が流されること、その血は救いの印しであるということを示されているのであります。従って、十字架の救いを信じて聖餐式に与ることが救いの確信となるのであります。

 救いの出来事は生涯にわたり、信仰者の基であります。救いの出来事をいつも原点にしつつ歩むことが私たちの願いであります。
 今朝は敬老祝福式を行います。信仰に生き、なお力強く歩んでおられ皆さんは信仰者の目標であります。レビ記19章32節には、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」と教えられています。引っかかるのは、「髪の薄い人の前」と言ってないことであります。長老は神様のお心を長い人生でよく示されているのであります。従って、聖書の人々は高齢者を敬い、神様の御心を示されていたのであります。その高齢者は救いの出来事を証しています。過越の祭りの意味を伝えたのは高齢者であり、主の十字架の救いを示すのは高齢者であります。使徒言行録には「神はこう言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(2章17節)と示されています。預言も幻も夢も神様の示しであり、御心でありますが、老人には夢を持って御心が示されるのであります。敬老ですから、私たちの信仰の高齢者を敬い、高齢者は祈りつつ救いの出来事を証しするのであります。
前週の金曜日の夕刻に、「神の庭サンフォーレ」支える会が開催されることで案内をいただきましたが、私は教団の委員会があり欠席の返事を出しました。返事を出しながら、改めて「神の庭サンフォーレ」の存立について思いを馳せたのであります。「神の庭サンフォーレ」は高齢者の居住施設であります。秦野の丹沢の麓に建てられています。信仰を持って人生を生きた人たちの終の住み家であります。神奈川教区の中にキリスト教の高齢者ホームを建設する計画が建てられたのは、私が神奈川教区議長の時でありました。しかし、神奈川教区が独自に高齢者のホームを造り、運営することは困難なことであります。いろいろと協議しているなかで、高齢者ホームを造り、運営している人に出会いました。私達の計画を受けとめてくれました。高齢者ホームを運営するのはサンフォーレという会社であり、ソフトの面、居住者がキリスト教の信仰をもって生活することができるために教区が関わるという計画です。そのような計画を議案として教区総会に上げました。しかし、さまざまな意見が出てまいりました。責任問題もあり、教区が民間会社と提携して取り組むことに対する疑義も出されたりして、なかなか決議には至りませんでした。総会から総会へと継続になり、これ以上論議しても並行意見は変わらないと判断しました。そして、有志が株式会社サンフォーレと提携して取り組むことになったのであります。それが「神の庭サンフォーレ」であります。月に二回の礼拝がささげられています。いろいろな教会の皆さんが訪問してくれています。クリスマスには皆さんでお祝いの集いを致します。本当に信仰をもって終の住み家で過ごすことの喜びを与えられているのであります。
 キリスト者の高齢者ホームを建設する目的は、最後まで救いの喜びを持ち続けることでありました。朝、目覚めれば讃美歌が耳に入り、夜休む時には祈りのうちに目を閉じる。「神の庭サンフォーレ」には牧師が主事となり、牧会の務めを果たしているのであります。
 救いの出来事をしっかりいただいて、天に召されるまで救いの出来事を基としつつ信仰の歩みが導かれることを今朝は示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。救いの出来事により、主の十字架の救いを与えてくださり感謝致します。救いの出来事が生涯の支えとなり、導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。