説教「慈しみが結ぶ実」

2010年9月12日 横浜本牧教会
聖霊降臨節第17主日

説教・「慈しみが結ぶ実」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記15章1-11節、コリントの信徒への手紙(二)9章6-15節
マルコによる福音書14章3-9節


 今朝は聖書における神様の「慈しみ」を示されています。申命記にしても、コリントの信徒の手紙にしても、マルコによる福音書にしても神様の「慈しみ」が示されています。「慈しみ」は旧約聖書では「へセド」という言葉であります。神様の「慈しみ」を現す言葉であります。「へセド」には「愛、あわれみ、親切、恵み、良き業」等の意味があります。神様が「へセド」をもって私たちを導いてくださっていることを示されるのであります。前週水曜日に聖書研究会が開かれ、コリントの信徒への第二の手紙4章を輪読し、パウロの示しを与えられたのであります。パウロは、私たちを「土の器」とし、この土の器に宝物が与えられていると示しているのであります。宝物とは、「キリストの栄光に関する福音の光」であり、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光が与えられている」ということであります。福音と神様のご栄光が、私の土の器の中に輝いていることを示されたのであります。それも「へセド」であります。神様の「慈しみ」「憐れみ」「神の愛」がこの土の器の中に与えられているということであります。自分を顧みるならば、「へセド」に満たされていることを確信しなければならないのであります。
 前任の幼稚園のことについては前週も触れましたが、ドレーパー記念幼稚園の園庭には大きなケヤキの木が二本存立しています。一本は道路に面していますが、もう一本は園庭の中にあります。もう、かなり大きくなって、両手を木にまわしても手と手がくっつかないのであります。夏の間は豊かな緑の葉によって木陰が与えられ、喜びでありますが、秋になり落葉の季節となると大変であります。毎朝、教職員が落葉拾いをしなければなりません。今までも大変であるので切り倒すことが要望されていましたが、そのままにしています。むしろ、ケヤキの木が幼稚園の象徴的な存在になっています。卒業した子どもたちが、幼稚園を思い出すのはケヤキの木でもあるのです。木陰で遊んだこと、落葉を集めて焼き芋をしたこと。掃き寄せた落葉の山に転がり込んだことなどが思い出されるのです。
 そのケヤキの木に新しい歴史が造られました。3月に退職するにあたり、記念になるものを購入するなり、作るなりしてもらいたいとして寄付金をしたのであります。そしたら、その象徴的ケヤキの木にアスレチックをからませて造られました。三段までステージを作り、登ったり降りたりと楽しい場所となりました。そのアスレチックの名を「のぶらはむのいえ」と命名したのであります。園長先生がいつまでも子どもたちを見守っていることを示すものであると言われました。
 自分の存在をしっかりと支え、見守っていること、幼稚園のケヤキの木を思い出しては示されることであります。それはまた神様の「へセド」でありますが、子ども達も象徴的なケヤキの木の存在から、それとなく「へセド」を示され、成長しているのであります。神様の「慈しみ」「あわれみ」により生かされていることを強く示されるのであります。

 「へセド」を実践しなさいと申命記は示しています。今朝の旧約聖書申命記15章1節から11節までであります。「負債の免除」の示しなのであります。借金を帳消しにしなさいとの教えであります。「7年目ごとに負債を免除しなさい」との教えは、まさに聖書の人道的な教えであります。人道的な教えとして、よく示される聖書は「落ち穂」の教えであります。麦刈をするとき、落ち穂を拾い集めてはならないし、むしろ落ち穂が出るような麦刈をしなさいとも教えているのであります。落ち穂は貧しい人々が、麦刈の後に畑に入り、落ち穂を集めて生活の糧にするのであります。こうした人道的な教えが他にも多くありますが、「負債の免除」もその一つであります。人にお金なり、物なりを貸した場合、6年経っても返すことができない。そして7年目には免除してあげなさい、との教えです。「だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除を布告されたからである」と示しています。聖書の民族は小さな民族であり、歴史において400年間も奴隷の苦しみを味わいました。苦しみを味わったあなたがたは、人に対して苦しみを与えてはならない、ということが神様の「へセド」であります。神様のあわれみ、慈しみによって奴隷から解放されたのであります。へセドを多く与えられているあなたがたは、神様のへセドを実践しなさいとの教えであります。「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」と示しています。貸してあげなさい、免除しなさいと繰り返し教えています。
 やはり人間ですから、基本的には自分が損をしたくないのであります。神様の教えであっても、どこかですり抜けることを考えています。そのことも、ちゃんと示されています。「7年目の負債免除の年が近づいた」、とよこしまな考えを持って、「貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい」と示されるのであります。そして、最後に言われたことは、「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」と示されています。
 教会は貧しい者に手を大きく開いている、ということを知っている人々がいます。「今日は朝から何も食べていない。いくらか貸してもらいたい」というので、パンや果物等をあげたりしますが、あまり喜ばないのであります。お金がほしいわけです。巧みに話を持ちかけてくる人もいます。「ダンプカーで仕事をしているが、駐車場がなくて困っている。この辺はダンプカーを止めるところがあるので、引っ越してくる。教会に来る途中で財布を落としてしまい、家に帰れない。ついては1万円ばかり貸してもらいたい。引っ越してきたら返す」というわけです。見事に引っかかってしまい、貸してあげました。連れ合いから、甘さを指摘されたりしました。そういう連れ合いも結構訪ねて来る人にお金を与えているのです。お金をあげなかったので、悪魔と言われたことがあります。その人は、教会は福祉に力を入れていますね、と社会的な話から始まり、結局はいくらか恵んでもらいたいということでした。どうも、最初から見え見えのお話なので、意地悪にもお金をあげませんでした。そしたら、「お前は悪魔だ。この教会は悪魔の教会だ」と言いつつ帰って行きました。なんか後味が悪くて、「お前は悪魔」の言葉が今でも耳に残っているのです。
 「この国から貧しい者がいなくなることはない。生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」と申命記で示しています。

 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる」と言われているのは主イエス・キリストであります。むしろ今、しなければならないことを示されているのがイエス様なのです。マルコによる福音書14章3節以下は、イエス様がベタニアのシモンの家で食事をしているときのことです。一人の女性が食事をしているイエス様の頭に、非常に高価なナルドの香油を注いだのであります。それを見た何人かが憤慨します。「なぜ、香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言うのです。申命記に示されていますように、聖書の世界では、貧しい人々を顧みることは神様の示しなのであり、社会的にも奨励されていることであります。女性のした行為は、批判し怒った人々の言う通りなのであります。300デナリオンもするナルドの香油は300日分に相当するお金になります。このように批判した人々にイエス様は、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われました。確かにイエス様にとっては高価なナルドの香油を注がれたのですから、うれしいことでありますが、もはや時が迫っているということであります。この後の聖書は、ユダが裏切りを計画し、最後の晩餐があり、裏切られて逮捕されるのです。マルコによる福音書14章は、もはや最後のイエス様なのです。十字架への道がはっきりと示される段階になっているのであります。
 この世の判断、聖書の世界では「貧しい人々に手を開くこと」は社会の常識になっています。申命記では「貧しい者がいなくなることはない」と示し、イエス様も「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」と示しています。そういう中で、イエス様が女性の行為を肯定しているのは、神様に向かっての好意であるからです。当時の宗教的倫理、あるいは旧約聖書における人道的な戒めを行うことは人々の生活であります。しかし、イエス様は、それぞれの行為は相対化されているのであります。この女性の行為は無駄使いでありますが、時が迫っているイエス様にささげた行為であり、神様を仰ぎ見つつの行為なのであります。だからイエス様は祝福されたのでもあります。
 マルコによる福音書1章16節以下でイエス様が4人の漁師を弟子にすることが記されています。彼らに「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と言われたのであります。彼らは網を捨ててイエス様に従ったのであります。社会的には魚を取る漁師が大切であります。それが人間を取る漁師になる。人間の常識ではない行為が求められたのであります。さらにマルコによる福音書2章13節以下では。「レビを弟子にする」ことが記されています。その中で、イエス様が罪人と言われている人々と食事をしていることで、当時の社会的指導者達が批判するのです。宗教的倫理においては、罪人と食事をすることなど考えられないのです。イエス様は批判があっても罪人と言われている人々と交わりました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたイエス様であります。その他、安息日論争があります。ユダヤ教においては土曜日の安息日は、一切の労働は禁じられています。しかし、イエス様は安息日に病人をいやしました。癒された病人は床をたたみ、担いで帰ります。労働行為であります。人々はイエス様の癒しを批判しますが、イエス様は、今救われることが必要であるとし、安息日を超えていたのであります。
 ナルドの香油は神様のへセドそのものであります。この世的に考えれば、香油を売って300デナリオンにし、貧しい人々に施してあげることです。貧しい人々は喜びますが、それと共に私自身の誇りが高くなるでしょう。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」とイエス様は教えておられます。地の塩・世の光として生きるとき、まさに人々は喜びへと導かれるのであります。その時、イエス様は「地の塩・世の光」を教えつつ、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイによる福音書5章13節以下)と教えておられるのです。今、わたしがしていることは人々に喜ばれることでありますが、そこに神様のへセドがあるか、と言うことであります。
 ナルドの香油をささげた女性は神様のへセドを実践しているのであります。この世的な300デナリオンではなく、救いの十字架に向かう主イエス・キリストヘの信仰なのであります。へセドと信仰が結びついているのであります。貧しい人々への救済運動は必要なことであります。しかし、神様のへセド、神様の愛、神様の慈しみを原点としなければならないのであります。

 横浜本牧教会は早苗幼稚園という大切な取り組みをしています。子どもたちをイエス様のお心によって育み、送り出しているのです。この幼稚園が歴史のある名門幼稚園ということでは存立の意義がありません。へセドとしての幼稚園であるかが問われるのであります。10月15日から募集開始であり、願書を配布することになります。今までの入園案内がありますが、もう少し早苗幼稚園の方針を知ってもらう意味でも、新しく入園案内を作ることにし、今検討しているところであります。
 キリスト教主義の幼稚園は障害を持つ子どもたち、またその傾向の子どもたちを積極的に受け入れています。しかし、一般の幼稚園はそれらの子どもたちをあまり受け入れない傾向があります。前任の幼稚園でのことです。願書を取りに来られた一人のお母さんが、お子さんが障がい的傾向があるので、入園できるのか心配され、事務員に繰り返し尋ねていました。そして11月1日の朝7時になって受付にこられましたが、心配のお気持ちは変わらず、繰り返し受付けてもらえるかと聞くのです。そして、その方の面接となりました。面接室に入ってきたとき、動揺していて、しばし言葉が出ません。「少し深呼吸されては」と言い、ようやくお話しが出来るようになりました。とにかく、障がい的傾向の子どもであり、受け入れてもらえるか、心配そうに尋ねます。面接をしているからには、もう受け入れているのですよ、と言いますと、涙を流しつつ喜ばれるのでした。
 キリスト教の幼稚園は、本当は園児があまり集まらないのが普通なのです。神様のへセドを実践することにより、希望が少なくなるということです。しかし、それでも神様のへセドを実践しつつ幼児教育に取り組むのは、教会の背後の祈りがあるからです。教会はへセドの祈りをもって幼稚園を支えているからであります。パウロも励ましています、「あなたがたの慈しみが結び実を成長させてくださいます」(第二コリント9章10節)。
<祈祷>
聖なる御神様。神様の御慈しみをいただき、十字架の救いを与えられ感謝致します。与えられている慈しみを世の人々に証しさせてください。主の御名により。アーメン。