説教「本当に価値あるもの」

2011年10月9日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第18主日」、

説教、「本当に価値あるもの」 鈴木伸治牧師
聖書、アモス書8章4〜7節
   テモテへの手紙<一>6章11〜19節
   ルカによる福音書16章1〜13節
賛美、(説教前)讃美歌21・404「あまつましみず」、
   (説教後)448「お招きに応えました」


 日本基督教団は毎年10月の第二日曜日を「神学校日・伝道献身者奨励日」として定め、伝道者の育成を祈ることになっています。神学校日が近づいたので、先週は私の出身である日本聖書神学校から学校案内書が送られてきました。あまりにも立派な案内書を手にして、いろいろと考えさせられたのでした。こういう立派な案内書に触発されて神学校に入るのかと思ったりします。日本聖書神学校はこんなに良い所ですよと紹介しています。何か大学の案内書のようで、豪華な紹介でもあるのです。神学校は日本基督教団立の東京神学大学、認可されている日本聖書神学校、東京聖書学校、農村伝道神学校、同志社大学神学部、関西学院大学神学部です。それぞれ特色がありますので、献身して神学校に進むとき、これらの神学校の中から選ぶというより、既に学ぶべき神学校を決めている場合が多いということです。案内書を見て、案内書により神学校を決めるというのではありません。また、学校案内に触発されて決心するということでもないでしょう。学校案内を批判しているのではなく、案内はそれでよろしいと思いますが、献身を奨励し、伝道者の証等を示しつつ学校案内をすべきだと思ったのです。
 私が伝道者へと導かれるのは高校生の頃でした。私は10月6日の世界聖餐日に洗礼を受けました。本日の説教を準備している日が10月6日であり、私の受洗と献身を示されながら御言葉に向かったのです。高校生の頃に伝道者への道を示されるのですが、その時はまだ受洗していませんでした。普通は洗礼を受けてから伝道者への道を歩み始めるのですが、まだ洗礼を受けていないのに伝道者への道を示されました。それは当時の「福音と世界」というキリスト教の雑誌に、ある牧師の手記が掲載されており、それを読んで強烈な印象を与えられたのでした。青森県五所川原にある教会の牧師、菊池吉弥先生が書いているものでした。農村地帯における伝道がいかに困難であるかを報告していました。しかし、困難な伝道の中にも福音を宣べ伝える喜びがあり、教会に来なくても周辺の皆さんとの触れ合い等を記しているのです。この報告を読んで、ここに私の進むべき道があると思うようになったのです。困難だからこそ私の歩むべき道ではないかということです。そのため、当初は農村伝道神学校で学ぶつもりでいましたが、いろいろな導きがあり日本聖書神学校に進むことになったのでした。
 当時のことですから、どこでも簡単な案内書であったと思います。案内書というより募集要項だけであったと思います。だから入学して初めて学校の様子、寮や図書館のこと等を知ることになるのです。昔の寮は二人部屋で、新入生は卒業年度の先輩と一緒の部屋でした。先輩に教えられながら寮生活をするうちにも、神学生としての姿勢が導かれてきたということです。昔と今を比較する必要はありませんが、伝道献身者を奨励する場合、何をもって奨励するのかということでありましょう。主イエス・キリストの十字架の贖い、救いの喜びを、福音を宣べ伝える伝道献身者を奨励したいのであります。

 旧約聖書アモスという預言者はいちじくを栽培する農民でした。神様はこのアモスを伝道者に選び、御心を人々に示したのです。聖書のこの時代は北イスラエルと南ユダに分かれていますが、北イスラエルの荒廃ぶりは南ユダに住むアモスの耳にも聞こえていました。当時のというのは紀元前8世紀の時代ですが、北イスラエルはヤロブアム2世が王様の時代でした。宗教的にも社会的にも堕落していたのです。その堕落ぶりは今朝の聖書で示す通りです。
 「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ」と叫んでいます。不正な商人たちが「新月祭はいつ終わるのか。穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売りつくしたいものだ」と言っていることを指摘します。「新月祭」は、月の始まる日を新月としてお祝いしていました。この習慣は聖書の人々がカナンに定着する以前からカナン地方でお祝いされていました。聖書の人々もこの習慣を取り入れ、むしろ新月祭は神様の示された日として聖なる日としていました。従って、この日は聖なる日ですから仕事を休んで、聖なる神様を崇めたのであります。「安息日」は土曜日になります。神様が天地を造られたのが日曜日から金曜日までで、土曜日は神様が安息された日であり、神様の創造の御業を仰ぎ見る日でした。そのため一切の労働が禁じられていたのです。商人たちは寸暇惜しまず商売をして金儲けをしたいのです。それも不正な金儲けでした。「エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう」と言いつつ商売をしているのです。升を小さくするということは、同じ値段で少ししか与えないということです。分銅を重くするということは、同じ目盛りでたくさん仕入れるということです。しかも靴の値段で人間を買い取るというのです。くず麦を売るとも言われています。不正を働いてはならないということは、そもそも十戒に示されている掟であります。そのため、レビ記19章35節以下、「あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導きだしたあなたたちの神、主である」と教えているのです。
 聖書の掟は人道的なものであり、人が共に生きるための指針であるのです。レビ記19章は人々が「聖なる者となれ」として教えています。時々引用しますが、9節以下に「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘みつくしてはならない。ぶどう畑の落ちた実は拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない」と定めています。貧しい者、寄留者、孤児等、これらの人々も生きて行かなければならないのです。その生きる道を与えてあげるのが、聖なる民としての生き方なのです。
 アモスは北イスラエルの人々が、この基本的人間の生き方を忘れていることに対して、声を大にして叫んでいるのです。あなたがたの不正は、神様が見ておられる、神様はその不正を決して忘れないとしています。神様を信じて生きる者は、共に生きることが原則であり、他の存在を心に与えられながら生きるべきだと示しているのです。あなたがたは金銭を中心に、そこに生きる価値を置いているが、そうではなく、本当に価値あるものを求めなさいと教えています。本当に価値あるものは、歴史を通して示されてきた十戒を中心とする神様の御心です。神様の御心は他者を見つめ、自分の心に入れ、共に生きることであり、聖なる者になるということです。

 主イエス・キリストは十字架の贖いにより、人々をお救いになりましたが、それは最後の導きになります。社会に現れたイエス様は、旧約聖書の示しのように、聖なる者となることの教えを人々にしているのです。
 ルカによる福音書16章は、イエス様が「不正な管理人」のたとえを通して聖なる者になることを教えています。前回は「放蕩息子」のたとえを通して、今の自分に神様の御心が注がれていることを知ることでした。15章でお話されている三つのたとえは、徴税人や罪人にお話されていますが、ファリサイ派や律法学者たちにもお話されているのです。そして16章になりますが、「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」として「不正な管理人」のたとえをお話されているのです。「放蕩息子」のお話は、人々に神様が御心を注いでくださっている教えですが、「不正な管理人」のお話はお弟子さん達のためでした。イエス様のお弟子さんとして従っているとき、いよいよ聖なる者になることを教えているのです。聖なるものとは、旧約聖書で示されているように、十戒を基として、人が共に生きることです。人が共に生きることで神様のお喜びがあり、人が祝福を与えられるのです。
 「ある金持ちに一人の管理人がいた」とお話を始めています。この男が主人の財産を無駄使いしていると告げ口する者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言う。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言うのです。そこで、管理人は生き伸びる策を立てます。管理人は主人に借りのある者を一人一人呼びます。最初の人は主人から油百バトス借りています。一バトスは23リットルですから、かなりの量になります。それを百バトスではなく、50バトスに書き直させるのでした。今度は小麦百コロス借りている人には80コロスと書き直させるのでした。一コロスも23リットルです。たくさんの小麦を借りていることになります。こうして出入りの商人に便宜を計って上げます。ところがこの不正なやり方を見た主人は、管理人の抜け目のないやり方を褒めたのであります。ここまではたとえですが、後のことはイエス様が教えとして言われていることです。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎えてもらえる」と言われているのです。
 この「不正な管理人」の教えをどのように理解されるでしょうか。主人の財産をごまかしているのですから、確かに不正な事をしています。ここで主人と管理人との関係を理解しておかなければなりません。マタイによる福音書25章14節以下で、イエス様は「タラントン」のたとえをお話されています。ルカによる福音書は19章11節以下に記していますが、マタイによって示されます。ある人が旅に出るにあたり、自分の財産を僕たちに預けます。ある人には5タラントン、ある人には2タラントン、ある人には1タラントンを委ねました。5タラントン預けられた人も2タラントン預けられた人も、それで商売をして、倍の利益をもたらしたのです。主人の財産を勝手に使って良いものかと思いますが、用いなければならないのです。そのまま持っているのではなく、有効に用いるということです。このタラントンから「タレント」という言葉ができるのですが、人には皆タラントン、賜物、能力、才能が与えられているのであり、それを生かしつつ生きることが人間であることを聖書は示しているのです。管理人は主人の財産の管理です。それは財産を十分用いることです。
 管理人は出入りの商人に便宜を計ってあげました。それなのに主人は管理人を褒めているのです。誰かが損をしていることになるのです。もちろん出入りの商人ではありません。主人でもないのです。主人は受けるべき収入があるのです。従って、損をしているのは管理人になるのです。便宜を計り、主人には利益を渡すと、自分の収入がなくなるということです。自分の利益を犠牲にして、出入りの商人を喜ばせてあげたのです。そこでイエス様は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」と教えています。ここで「小さな事」と言われていますが、人間関係のことです。毎日の営みの中で、他者の存在をしっかりと受け止めて生きること、小さな事ですが、これこそ「本当に価値あるもの」なのです。忠実に小さな人間関係を生きるとき、「本当に価値あるもの」をいただけるのです。「本当に価値あるもの」とは主イエス・キリストの御心です。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との「本当の価値あるもの」の生き方が導かれて来るのです。
 これは弟子たちにお話されていることです。「本当に価値あるもの」をいただいて生きるために、小事である人と共に生きること、旧約聖書以来示されてきた十戒を基本として生きること、それにより大事である福音の宣教者へと導かれていくのです。

 伝道者はこの世に生きるものです。社会の人々と共に生きるのです。私はキリスト教の牧師であるから、隣近所のお付き合いはしませんというのでは、小事に忠実ではないということです。神学校を卒業して青山教会の担任教師になり、4年後には宮城県の陸前古川教会に赴任しました。6年半の牧会でしたが、信者が増えたということではありません。むしろ、隣近所のお付き合いが深まったということでした。どなたかが亡くなれば葬式に参列し、法事に出なければなりません。法事に出ると、食前の前に経文を渡され、一同が一緒に読むのです。私は牧師であるから読みませんというのではなく、一緒に読み、一緒に会食を行い、故人の思い出を皆さんから聞いたりするのです。隣近所の付き合いをして、その土地の住人として認められ、教会には来ることはありませんが、牧師さんとしての位置付けが認められるのです。最初にお話した五所川原教会の菊池吉弥先生の手記を、東北の教会で経験したのでした。土地の人々に心を開いてもらって、存在が認められ、牧師としてのメッセージを語ることができるのです。
 「本当に価値あるもの」すなわち主イエス・キリストの「福音」であります。この福音をあまねく人々に宣べ伝える事をイエス様はお弟子さん達に委ねているのです。だから、このお話をお弟子さん達にしているのですが、私達も「福音」、「価値あるものを」人々に宣べ伝える使命を与えられていることを今朝の聖書により示されているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。小事に忠実な者へと導いてくださっていること感謝致します。「本当に価値あるもの」を人々に宣べ伝えさせてください。主の御名によりおささげします。アーメン。