説教「信仰の完成者を見つめつつ」

2011年10月16日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第19主日」、

説教、「信仰の完成者を見つめつつ」 鈴木伸治牧師
聖書、士師記7章1〜8節
   ヘブライ人への手紙11章32〜12章2節
   ルカによる福音書19章11〜27節
賛美、(説教前)讃美歌21・402「いともとうとき」、
   (説教後)564「イエスは委ねられる」


 今朝の日本基督教団の聖書日課から示されますが、聖書日課は主題として「天国に市民権をもつ者」としています。信仰に生きることで、天国の市民権を得ることを示しているのです。そのことから、今は天におられる皆さんを示されますが、11月の第一日曜日が聖徒の日(永眠者記念日)として日本基督教団は定めていますので、その時にも召天された皆さんを示されることになります。今は10月の歩みであり、大塚平安教会在任中、三人の方が10月に召天されています。一人の方は伊藤雪子さんで、2000年10月3日に84歳で召天されました。佐竹正道さんは2002年10月7日、73歳で召天されました。鈴木有一さんは2004年10月23日、87歳で召天されました。
 改めて生前、信仰のお交わりを思いうかべております。伊藤雪子さんのお証は時に触れて紹介していますが、再び示されておきましょう。

証「77年目のイエス様のお招き」 伊藤雪子
 1998年4月29日、神奈川教区湘北地区のCS生徒大会が大塚平安教会でありました。主題「新生をめざして」(お年寄りと共に歩みながら)。その時、長男がミュージックソウ、私がピアノでサンサースの「白鳥」を演奏し、皆様と共にその時を過ごしました。その時の思いを記し、50年誌の証しとしたいと思います。
 私は1915年生まれで、今年10月には83歳になります。私の人生の転機について書きたいと思います。それは今から5年位前のことですが、生まれて初めて教会を訪ねた時のことです。イエス様は、そんな私をそれはそれは長い77年もの間、ずつと待っていて下さったということを知りました。私は自分の希望で教会を訪ね、礼拝に出席しましたが、それは今から考えると私の意志ではない、もっと大きな別の力が働いたのだと思います。それは神様が77年も前から準備してくださり、イエス様のお恵みに導かれたということでした。神様のお心を知るようになってから、私は何だか生まれ変ったような気がしています。でも、どんな年齢になっても神様のお心をいただいて生きていくことは、今までとは違った別の人生が導かれるのではないかということでした。どうか神様のお心を頂いて、新しく生まれる人へ皆様と共に導かれ、力強く歩んで行くことができますようお祈りいたします。大塚平安教会の私たちが鈴木牧師御夫妻と共に神様のお恵みに支えられて、いつまでもいつまでもイエス様の十字架を見上げつつ歩んで行くことができますように。

 佐竹正道さんは大塚平安教会の草創期から教会を担っておられ、綾瀬町の町長、神奈川県議会議員等政治の世界でも活躍されていましたが、社会福祉法人の施設を担っていました。和服姿で礼拝に出席されていたことが思い出されます。この方の信仰の証として、詠まれた歌を紹介しておきましょう。
 本棚に文語の聖書古びゐて あまたの朱線母の残せし
スミ夫人の丹精さるる花鉢の 横にどくだみ白き十字架
 あの方の感謝の祈りにリズムあり 主の祈りの如詩編読む如
この週も悔い改めの数多き 説教聞きつつ悔いつ祈りつ

 鈴木有一さんはさがみ野ホームの利用者でした。身寄りが無いことから、教会を基とされるよう洗礼を勧められたのはホームの園長であった佐竹正道さんでした。さがみ野ホームの礼拝でいつもお会いしていましたが、天国に市民権を持つ方としてのお交わりでした。

 天にある方々を示されることは、生前の信仰の歩みを受け止めることであります。今朝の聖書は、この世の人生を「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜く」ことを教えています。そのために「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と教えているのです。主イエス・キリストを見つめながら生きることが天国に市民権をもつ者に導かれるのであります。
 旧約聖書は、神様の御心をもって生きる人々を示しています。士師記は一時的に現れた指導者を記しています。士師記ヨシュア記の次に置かれています。モーセの後継者ヨシュアと共に、聖書の人々は神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地カナンに侵入し、定着するのです。その時、神様はカナンに侵入するにあたり、皆殺しにしなさいと命じています。古代の生き残る術でもありました。しかし、ヨシュアは無益と思える殺生はしませんでした。従って、定着後、生き残った現地の人々が力をもち、聖書の人々を悩ますことになるのです。まだ、国家ではなく、12部族の連合体でありましたので、部族ごとの歩みでありました。襲ってくる周辺の国々に対抗するために立てられるのが士師と言われる人々です。今朝のヘブライ人への手紙にも記されていますように、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ等の人々が士師として登場したのです。
 今朝はギデオンの働きです。聖書の人々はミディアン人と戦いをしていました。その戦い方を今朝の聖書は示しているのです。聖書の人々は32000人の軍で戦おうとしています。その時、神様はその人数は多すぎるから民を帰らせなさいと言うのです。「恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ」と言うのです。なぜ帰らせたか。「イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と神様は言われました。救いは神様が導くことであり、自分で切り開くことで、傲慢とおごりが出ると言うのです。結局、22000人が帰り、10000人が残ります。しかし、神様は10000人でも多いというのです。そこで、この10000人の戦いの姿勢を調べるのです。10000人を川の水辺に連れて行き、水を飲ませるのです。その飲み方が焦点になります。川の水にいきなり動物のように口をつけて飲む人は除かれたのです。水を手にすくって飲む人300人が選ばれたのです。動物のように口を水につけて飲む人は、外敵が迫っているのに気が付きません。しかし、手にすくって飲む人は、目は周囲に向けている訳ですから、外敵が襲ってくればすぐに分かるのです。こうして300人が選ばれ、9700人はそれぞれ自分の所に帰ったのであります。
 この300人をもってミディアン人と戦うのですが、まさに神様の御心に従いつつ戦ったのであり、だから自らの力の強さで勝利を収めたとは思わないのです。神様の導きに委ねたということです。「イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と神様が言われた通りです。御心に従う人生が祝福であると聖書は示しているのです、

 御心に従う姿勢を主イエス・キリストは教えています。ルカによる福音書19章11節以下が今朝の新約聖書の示しです。11節の前の段落、1節からは徴税人のザアカイさんがイエス様と出会い、御心による生き方を示されたことが記されています。人々から疎外され、自分の殻の中に閉じこもっていたザアカイさんは、イエス様と出会い、自分ではなく御心により生きることへと導かれるのです。自分に与えられた賜物を十分に用いて生きる決心をしています。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、四倍にして返します」との告白が、主の御心に生きることであったのです。「今日、救いがこの家を訪れた」とイエス様はザアカイさんを祝福しました。
 今朝の聖書は、イエス様はまだザアカイさんの家にいるのです。11節に「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された」のであります。従って、ザアカイさんの主の御心に生きる決心は人々も聞いていたのです。ザアカイさんはイエス様だけに告白したのではなく、社会の人々にも告白しているのです。このようなザアカイさんの告白を聞いて、イエス様はたとえをお話されました。ここでは「ムナ」のたとえ話です。マタイによる福音書25章で「タラントン」のたとえ話をしています。1ムナはギリシャの銀貨で100ドラクメであり、1ドラクメは銀4.3グラムであります。それに対して1タラントンは6000ドラクメです。従って、タラントンとムナのたとえは似ているようでありますが、取り扱いが異なるのです。タラントンのたとえは莫大なお金を主人から預かるのでありますが、ムナのたとえはそんなには預からないのです。一ムナはローマの銀貨デナリオンと等価であります。一日の労働賃金が一デナリオンであるとはマタイによる福音書20章の「ぶどう園の労働者」のたとえで示されています。従って、一ムナを預かるということは三ヶ月分くらいのお金になります。ルカの場合は10人の人に一ムナずつ預けたのでした。
 「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、10人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい』と言った」という例えと、そこから続く国民の感情のお話は違うことをお話されています。ムナをお弟子さん達に預け、「これで商売をしなさい」と言われているのは、御心により歩みなさいと示しているのです。そうすれば十ムナを得るほど祝福があると言う教えです。弟子の務めを奨励しています。並行して国民の感情をお話しているのは、イエス様を救い主ではないとする人々を示しているのです。たとえは、ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つのですが、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせるのです。しかし、このたとえは、王の位を受けて帰ってきます。そして、反対した人たちへの審判があるのです。明らかに主イエス・キリストを示しています。遠い国とは神様の御もとであり、十字架にお架りになって復活し、その後昇天されますが、再びお出でになるとは聖書の証言であり、再臨信仰になっています。この神様のご計画に対して、人間は自分の都合で事を進めようとしている訳です。最後は自分たちの成果であると誇ることになります。ギデオンの300人選びのメッセージで示される通りです。人間を救うために主イエス・キリストをこの世に出現させ、十字架の救いを完成されました。その十字架の救いの完成に対して、人間は口をはさむことはできないのです。救いを信じ、御心に従うことが人間の生きる道なのです。そのために一ムナを与えられています。このムナは神様の御心であり、力であり、その人の生きる基であるのです。

今朝のヘブライ人の手紙11章までは、信仰に生きた人々を証し、その信仰の生きざまを示しながら、12章1節以下で「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と教えているのです。主イエス・キリストを見つめながら生きることが天国に市民権をもつ者に導かれるのであります。
 イエス様のたとえ話にも示されていますが、王の位を受けるために遠い国へと旅立った人については、実際にある出来事でもありました。イエス様がお生まれになった時、ローマの皇帝はアウグストゥスでありました。この人がローマの初代皇帝であります。その前のユリウス・カエサルが帝政の下準備をしたのです。本来、カエサルをもって初代皇帝なのですが、彼の時代は皇帝ではなく、最高権力者の執政官でした。ローマは共和制の社会であり、王とか皇帝とか、一人の権力者に委ねるのを嫌っていたのです。カエサルは「平和の王」、「救い主」とまで称されましたが、アウグストゥスもまた同じように言われまた。聖書の国、ユダヤはローマの支配下に置かれていましたが、多神教のローマに対して一神教の世界であり、ローマはユダヤ自治区と認めていました。しかし、ローマの指導のもとにあったのです。従って、ヘロデ王が死んだ時、息子のアルケラオが王になることの承認をローマからいただかなければならなかったのです。アルケラオは王になって帰還した時、自分に反対した人々を殺害したと言われます。このことが背景になっているようですが、イエス様は再臨と重ねて示しているのです。
 キリスト者として、主の御心を生きるとき、迫害があり、人々との摩擦もあります。何よりも自分との戦いがあります。しかし、主の御心をいただいている私達、一ムナを与えられている私達は信仰の完成者を見つめつつ歩むとき、天国の市民権を与えられるのです。
 タラントンの教えは莫大な財産を預けられて、それで商売をするお話ですが、ムナのお話はそんなに莫大ではなく、普通の財産と思えます。すなわち、無限の才能、力、賜物が与えられているとなると、なんとなく重荷を感じます。しかし、ムナはそんなに肩を張らなくても力を発揮できる賜物なのです。日々の生活の中で、信仰の完成者である主イエス・キリストを仰ぎ見つつ歩むとき、自然に信仰の歩みが導かれて来るのです。天国に市民権を持つ者の喜びの生活が導かれて来るのです。
<祈祷>
聖なる御神様。ムナをくださり、導きを感謝致します。いよいよ信仰の完成者を仰ぎ見つつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。