説教「御言葉の実践」

2011年9月4日、横須賀上町教会 
聖霊降臨節第13主日」、

説教、「御言葉の実践」 鈴木伸治牧師
聖書、アモス書5章21〜27節
   ヤコブの手紙1章19〜27節
   ルカによる福音書13章6〜17節
賛美、(説教前)讃美歌21・430「とびらの外に」、
   (説教後)448「お招きに応えました」


 日本の政治の世界は、また首長が交代することになり、それなりに新しい首長に期待をもっているのであります。政権が交代したのでないので、最初に掲げたマニフェストというものが問われるということになります。マニフェストは選挙の際、この党はこのようなことを行うと言い、政治の取組みを掲げることですが、取組みというものは普遍的なことではなく、当面、必要と思われる政策を掲げている訳で、その後、社会的な状況の中で変わってくる場合もあるのです。特に東北大震災を受けた後で、政策も変わることもあり、変わらなければならないこともあるのです。
 マニフェストは選挙の時に掲げる公約であり、当選したものは公約実現に努力するのは当然ですが、日進月歩の社会で、必ずしも公約に捕われることなく、今必要な取組みをしなければならないのであります。人間には普遍的なマニフェストがあることを忘れてはならないのであります。人間が共に生きるということです。聖書から教えられなくても、人間の基本的なマニフェストであるということです。
 古今東西、人間は平和に暮らすこと、食べるものがあること、それにより安心して生きることが出来ますし、自分たちの首長がそのように動くことで安心するのです。ヨーロッパの歴史を読むとき、ローマは名もなき少民族でした。それが次第に力を得て行き、ヨーロッパの世界の覇者になっていくわけです。世界の覇者になるローマでありますが、最初から非常に民主的な国でした。最初から共和制であり、元老院の組織のもとに国の繁栄が導かれてきたのです。そういう中で、多くの地域を支配するようになり、ユリウス・カエサルは共和制ではなく帝国へと移行させようとして行くのであります。カエサルはその下準備をしましたが、ついに第一代皇帝になるのはアウグストゥスでした。この初代皇帝の時、主イエス・キリストが出現したのであります。ローマの人々、またローマに支配される人々も、このアウグストゥスを「平和の王」とか「救い主としての王」と称するのですが、聖書は同時代に現れた真の「救い主」を人々に示しているのです。
 皇帝はアウグストゥスティベリウスと続いて行きますが、平和が続きます。その後の皇帝の中には1年ももたない皇帝、在位4ヶ月の皇帝もいました。これらの皇帝は権力を弄び、人民の平和を考えなかったのであります。人民を楽しませることは、自分も楽しみたいから、競技場を作らせて、いろいろな競技をして楽しみました。しかし、人々の願いは社会の平和、食べることが保障されることでありました。悪い皇帝は食べることには力を注がなかったのです。そのため元老院が立ち上がり、人々が立ちあがって皇帝を殺したり、失脚させたりするのです。人々にとって皇帝は誰でも良い。しかし、食べることが保障されなければ、自分たちの首長とは思わないのであります。
 今、世界は、独裁の国は人々の目が開け、みんなが自由に、食べることに不自由することなく生きて行く国を求めているのです。これは日本の国でも同じです。放射能を心配することなく、食べることに事欠かない社会を求めているのであります。マニフェストといっている場合ではない現実の社会があるのです。
 この時、神様が人間に求めておられることを示され、御心を実践することにより、真の平和な世界になることを導かれたいのであります。

 「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」と預言者アモスは神様の御心を示しています。旧約聖書アモス書5章21節からですが、「祭りにまさる正義」について教えています。「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りを喜ばない」とは神様の御心でした。アモスは紀元前8世紀の預言者であり、生まれはユダの国テコアで農民でありました。そのアモスが御心を示され、北イスラエルの国に行き、当時の宗教的、社会的堕落を厳しく攻撃し、神様の正義に立ち帰るよう諭したのであります。
 祭りを好むのは人間の素朴な姿です。日本でも7月は各地域のお祭りがあり、8月になると大きなお祭りが各地で開催されていました。祭りは神社が中心なのですが、むしろ宗教的には考えないで、みんなで楽しく行事に参加することなのです。昔、綾瀬に住んでいる頃、町内会の回覧板に、この町には神輿が無いから導入したいという内容でした。それについての意見を求めていましたので、有志が導入するのであれば意義はないが、町内会として導入するのは反対です、と意見を述べたのでした。それからこんなこともありました。町内の役員の人が、お宅から注文されたので、お祭りのはんてんを持って来ましたというのです。注文した覚えはないのです。しかし、おそらく子供が注文したのでしょう。お祭りは神道の行事であり、神輿を担ぐためのはんてんは、我が屋としては求めることは出来ないと言って断ってしまいました。しかし、後で考えてみて、子どもの世界であり、みんながはんてんを着るのであるから、求めてあげても良いのではないかと思ったりしたのでした。
 お祭りを楽しむことは聖書の世界でもありました。その時には、穀物、動物の献げ物があり、祭壇では犠牲の動物を焼き殺すのです。聖書の世界には、礼拝として播祭というものがあります。動物を焼き殺すのですが、焼肉の香ばしい匂いを神様に献げるというものです。また、酬恩祭があります。この礼拝は「和解の献げ物」をするのですが、献げ物により神様と和解するということになるのです。御心に従うということです。この時は焼き肉はそこで食べ、和解に与るのです。もう一つは罪祭があります。これも動物犠牲ですが、この動物は罪を犯した自分として、自分の身代わりとして焼き殺すということなのです。このような祭りは、人々は喜び、好んでしていました。しかし、そのような祭りより、神様が求めておられるのは、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」ということなのであります。祭りではなく、日々の歩みにおける御言葉の実践こそ大切なことであると示しています。
 お祭り騒ぎは日本ばかりではなく、世界の人々がお祭りをしては喜んでいます。4月5月にスペイン・バルセロナで滞在した時にもお祭りがありました。お祭りであるから、何か宗教的なことなのかと思うのですが、どうも宗教的なものとは関係ないようで、みんなで楽しんでいたのでした。人間の塔として、4段くらいの人間の塔を作ります。一番上は幼稚園くらいの子がよじ登り、手を広げて完成をアピールするのでした。バルセロナサグラダ・ファミリアには毎日のように外国人の多くの観光客が来ており、拍手喝采でお祝いしてあげるのでした。そうかと思うと、ステージの上では少年少女が楽器と共に歌を披露したり、フォークダンスをしたりしていました。また、婦人たちが刺繍のようなことをしていました。大勢の婦人たちが集まり刺繍、レース編みのようなことをするのです。時間になると皆さん引き上げて行くのですが、何の意味か分かりませんでした。一つのお祭りということです。このように、人々が喜びあうことは必要なことですが、毎日の生活で神様の御心を実践しつつ歩むことの大切さを示しているのです。

新約聖書ルカによる福音書13章6節以下が今朝の示しですが、二つの標題で示されていますが、一つのことを示しているのです。6節以下は、「実のならないいちじくの木」のたとえとしています。いちじくの木が3年も実を結ばないということで、持ち主の主人が切り倒すように言うのですが、園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」とお願いするのでした。このたとえ話は、神様が忍耐して私達の御言葉の実践をお待ちになっていることを示されます。そのために主イエス・キリストのお導きがあるということです。ぶどう園にいちじくの木を植えるということ、これは聖書の世界では良くあるということです。土地が開いていれば、ぶどう園であろうと、他の木を植えるということは、普通のことで特別な意味が無いのです。しかし、ぶどう園にいちじくの木を植えるということは、異なる存在を育てようとしていることとして示されるのです。つまり、ぶどう園は本来の聖書の人々ですが、いちじくの木は外国人、異邦人ではないかと思われます。外国人が神様の御心に養われるには、時間がかかります。それに対して園丁が肥料を施し、面倒を見てくれるのです。実のなるように手を加えてくださるということです。主イエス・キリストのすべての人々への福音を示していると思われるのです。従って、私たちが「いちじくの木」であるということです。なかなか実がならないいちじくの木に、変わらずに導きを与えてくださるイエス様として示されるのであります。
13章10節以下の段落では、「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす」として記されています。18年間も病であり、腰が曲がって生きている人をイエス様が癒してあげるのです。その日は安息日でありました。ユダヤ教では安息日は、何もしないで神様の創造の業を感謝する日なのです。だから、イエス様が婦人を癒したことは安息日違反になります。そこでユダヤ教の会堂長がイエス様に抗議するのです。それに対して、「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」と答えるのでした。「18年間もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」とイエス様は言われました。主の御心は今、実践しなければならないことを教えておられるのです。今は安息日あるから、御言葉の実践は明日にしましょうというのではなく、今実践すること。御言葉の実践は、何の制約もないということなのです。

 神様の御言葉を実践することの教えは、新約聖書ヤコブ書は強く示しています。今朝の聖書も「神の言葉を聞いて実践する」との標題で示しています。22節、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わるものになってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまうのです」と記していますが、面白いたとえを示していると思います。まさに
その通りで、私達は自分の顔をはっきりと覚えられないのです。鏡を見ているときだけは自分の顔を見るのですが、鏡から離れると自分の顔を思い出せないのです。御言葉を示されているときは、頷き、はい分かりましたという訳ですが、現実の生活に戻るとすぐに忘れてしまうのです。
 前任教会の幼稚園では毎週金曜日に合同礼拝をささげていました。3歳児から5歳児が一緒に礼拝します。3歳と5歳では、お話の理解度も随分と異なります。だから、いつも3歳児向けにお話をしていました。
 あるときの礼拝でこのようなお話をしました。ある日のこと、小さい太郎君がお母さんと電車に乗ってお出かけをしました。太郎君はいつも車に乗ってお出かけしているので、電車でのお出かけはうれしくてたまりません。昼間の電車ですから、そんなに混んではいませんでした。だから電車に乗るとすぐに座れました。座れたので、太郎君は靴を脱いでお座りし、窓の外を見ていました。お母さんは本を出して読んでいました。そのうち太郎君は窓の外を見ているのがつまらなくなりました。電車の中は空いているし、電車の中を走ってみたくなりました。それで靴を履いて、「たかたか」と走り出したのです。お母さんはすぐに、「太郎、電車の中で走ったりしたら危ないから、座っていなさい」と言いました。太郎君は言われるままに座りました。しかし、少ししてから、またつまらなくなり、また走り出したのです。今度はお母さんは怒っています。「座っていなさい、と言ったでしょう」と太郎君を叱っています。太郎君はお母さんが怒っているので「分かった。ごめんなさい、もうしない」といって座席に座りました。座っていましたが、またつまらなくなり、「たかたか」と走り出すのです。またお母さんが怒っています。「太郎、座ってなさいと言ったのに」と言って、お母さんが立って太郎君を捕まえに来るのです。「分かった、ごめんなさい、もうしない」と言っています。それで、お終いなら良いのですが、またしばらくすると、「たかたか」と走り出すのです。またお母さんに怒られていました。
 このお話をすると、3歳の子ども達も分かるようで、けらけらと笑いながら聞いているのです。分かった、もうしないと言いながら、またしてしまうことは身に染みて分かるようです。御言葉の実践として示されていますが、私達に御言葉を与え、実践することを忍耐して待っておられる主イエス・キリストのお導きを示されています。御言葉を実践すること、他の存在を受け止め、共に生きること、この実践が神の国に生きることであり、永遠の命へと導かれることなのです。そのために、御言葉の実践が出来るように主イエス・キリストが十字架にお架りになり、私達を贖い、導いてくださっているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。変わらずに御手を差し伸べて導きくださり感謝します。御言葉を実践しつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。