説教「その日、その時のために」

2011年8月28日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第12主日」、

説教、「その日、その時のために」 鈴木伸治牧師
聖書、エゼキエル書12章21〜28節
   テサロニケの信徒への手紙<一>1章1〜10節
   ルカによる福音書12章35〜48節
賛美、(説教前)讃美歌21・475 「あめなるよろこび」、
   (説教後)575「球根の中には」


 毎日の生活の中で、私達は明日からの予定を心に留めながら歩んでいます。現役の頃は、毎朝机の前に座り、まず手帳を開いてその日の予定を確認します。合わせて今後の予定に目を通し、それとなく段取りを考えておくのでした。なにしろ手帳には毎日の予定がぎっしりと書き込まれているのです。よくも毎日予定が入るかと、自分ながら驚きでもありました。教会の予定は定期的に開催されるので、いちいち書き込きこまないこともあります。定期の予定以外の予定を書き込んでいるのです。定期的予定を書いてないので、うっかり同じ時間帯に特別な予定を入れてしまう場合もあるのです。特に木曜日は、朝8時には綾瀬ホームに出かけます。職員礼拝、利用者礼拝が終わり教会に戻るのは9時40分頃になります。10時30分から家庭集会が開かれるので、10時過ぎには出かけることにしています。ところが幼稚園の行事が入ることがあります。運動会の予行練習における礼拝とか、野外保育のお出かけ前の園長によるお祈り等があるのです。綾瀬ホームから急いで帰ってきて、幼稚園の務めをなし、すぐに家庭集会に向かうのです。これが第四木曜日になると、刑務所に赴かなければなりません。家庭集会では昼食をいただくのですが、12時30分頃には失礼しなければなりません。教会から刑務所まで1時間30分の時間を見ておかないと午後2時からの刑務所の教誨に間に合わなくなるのです。朝8時からいろいろな集会に臨み、やれやれと思いつつ刑務所に向けて車を運転するのですが、お昼は美味しいものをいただき、お腹が満たされているものですから、当然のことながら眠くなるのです。眠気だましに冷たいお茶を飲んだり、眠気止めのスペアミントを口に入れたりしながら、どうにか刑務所に到達するという訳です。刑務所は午後2時から3時までですが、八王子の刑務所から30分くらいで相模原付近を通過するのですが、そこにサウナがありますので、いつもそこによっては疲れを癒してくるという訳です。月に一度でありましたが、目の回る忙しさでした。
 現役時代の手帳は、開けばどの月の頁も黒くなるほど予定で埋まっていました。しかし、現役を退いた今、手帳は真っ白というわけです。めったに予定が入らなくなりましたが、それでも時々入る予定を目指して日々の歩みがあるのですが、その日、その時は確実にやってくることを実感するようになりました。手帳が真っ黒の頃は、ただ予定をこなしつつ過ごしていましたが、今は一つの予定をしっかりと見据えながら歩んでおり、そしてその日の到来を重く受け止めながら臨んでいるのです。毎日、忙しく過ごしていると、一つひとつの予定の重みが感じられなくなってしまうのです。ほとんど予定が無い毎日を歩みながら、新たに出来た予定をしっかりと見つめながら歩んでいるという訳です。

 聖書は「その日、その時のために」備えをすることが教えられています。旧約聖書は「その日、その時のために」は解放の時であり、救いの時であります。新約聖書は主イエス・キリストの十字架による救いの完成が告知されますが、本当の救いは「主の来臨に備える」ことが教えとなります。すなわち、十字架によって救いを完成した主イエス・キリストは、再びお出でになって救いを完全なものとなさるということであります。「その日、その時のために」日々の歩みが御心に従うことなければならないのです。
 旧約聖書エゼキエル書12章21〜28節が今朝の示しです。エゼキエル書は聖書の人々がバビロンの国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンの捕虜、奴隷として連れて来られています。バビロンの空の下で希望を無くしている人々に対して、神様は捕囚の中でエゼキエルを預言者として立て、神様の御心を示しているのです。今朝の聖書は、人々が希望もなく、救いはほど遠いことであると信じている状況です。むしろ人々は「ことわざ」とか「言い伝え」を信じていました。「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」という「ことわざ」に重きを置いている現実がありました。ここで言う「幻」はエゼキエルの預言の言葉であるのです。苦しい歩みは変わりなく長引き、それに対してエゼキエルの預言、神様の御心だと示しているが、消え去っていくものだと言っている訳です。エゼキエルの預言をむなしい言葉としているのです。それに対して神様はエゼキエルに示しています。「もはや、イスラエルの家には、むなしい幻(預言)はひとつもない。なぜなら、主なるわたしが告げる言葉を告げるからであり、それは実現され、もはや、引き延ばされることはない。反逆の家よ、お前たちの生きている時代に、わたしは自分の語ることを実行する、と主は言われる」とエゼキエルは人々に示しています。
 「もはや、引き延ばされることはない」と神様の救いがすぐ近くであることを示しているのです。それなのに人々は相変わらず言うのです。「彼の見た幻(預言)は、はるか先の時についてであり、その預言は遠い将来についてである」と。「わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される」と神様は繰り返し示すのであります。「その日、その時のために」備えをするにしても、「はるか先のこと、遠い将来のこと」としている人々は間違いであるのです。「いつか、そのうち、いずれ」は、そうなると信じつつも、決してその日が来ないと思っていることでもあるのです。諦めきっている聖書の人々に、エゼキエルは現実に神の救いが実現することを示し、「その日、その時のために」備えなさいと繰り返し示しているのです。
 聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、捕われの身になる前に、エレミヤという預言者は再三神様の御心を示しました。すなわち、バビロンに対してエジプトに頼り、戦いをすることより、バビロンに降伏しなさいと示したのはエレミヤでした。滅ぼされるより降伏した方が、生き残る道が開かれるからです。しかし、指導者達は人間的な策略でバビロンに対抗したのでした。結局、滅ぼされたのです。多くの人が殺されたのです。生き残った者はバビロンの捕虜として、奴隷として連れて行かれたのであります。このように御心に反した人々ですが、神様はなお救いを与えておられるのです。エゼキエルを通して、救いは「はるか先」のことでもなく、「遠い将来」でもない現実に与えられるということなのです。「もはや引き延ばされない」と神様は示しているのであります。この神様の御心を信じて生きることなのです。「その日、その時のために」備えを持って歩むことであります。

 日々歩んでいるうちにも、予定されていることは確実にやってきます。現役時代は手帳が真っ黒になるほど予定が書き込まれていました。そのため、娘の羊子がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしているので、一度は行きたいと思っていましたが、実現不可能でした。しかし、いずれは行くことになるという思いは持っていました。そのように思いつつ過ごしていた頃を思うと、そのスペイン訪問を果たした今、「その日、その時のために」は、今から思えばあっという間に実現してしまったのです。「その日、その時のために」と備えをしていても、その日その時は必ず来るということです。
聖書は繰り返し備えるように示しているのです。新約聖書ルカによる福音書12章35〜48節からの示しです。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい」と主イエス・キリストは教えておられます。この部分の標題は「目を覚ましている僕」として教えられていますが、35節から40節までは一般の人々に対する教えであります。再臨についての教えは、イエス様が十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目に復活され、そして40日後には昇天されますが、イエス様が再びお出でになるという信仰です。ここではイエス様が現実にお話をしているのです。むしろ、これはイエス様が昇天された後の、弟子集団の教えということになります。それでは現実的に教えておられることを、どのように受け止めるかということです。再臨信仰ではなく、現実の信仰として示されるべきだということです。現実の信仰を励ましているのです。信仰は日々の生活の中で実践されて行くのです。信仰のお休みはないということです。今まで一生懸命信じてきたのであるから、この辺で少し休みましょうという信仰はあり得ないということなのです。
41節から48節までは弟子集団の指導者達への教えとされています。指導者たちが信者をおろそかにしては、「その日、その時のために」ならないということなのです。再臨の信仰が背景になっていますが、やはり現実的に示されなければならないのです。指導する者として、休むことなく、信者の皆さんを励まして歩むことの示しとして教えられたいのであります。「その日、その時のために」とは、再臨が背景になりますが、祝福が与えられるときであると示されるのです。目を覚まして主イエス・キリストの十字架の救いをいただき、神の国を現実に生きながら、永遠の生命の祝福をいただくことが「その日、その時のために」生きることなのです。そうすると、「その日、その時のために」は将来のことではなく、現実の「今」ということになります。
信仰の現実を励ますルカによる福音書であります。10章25節以下の「善いサマリア人」のたとえ話と「マルタとマリア」の示しについては、前週の説教で示されました。いずれも現実の信仰を励ます教えです。今を生きる者として、隣人と共に生きることを教えています。また、今を生きる者として、今をどのように生きるかを示しているのです。まず神様の御心をいただいて生きることを教えていました。15章には「無くした銀貨」と「放蕩息子」のたとえ話を示されています。道をはずした人に対して、神様は悔い改めて御心に戻ることを待っておられ、あるいは探し出してくださるという教えです。現実の信仰を励ます教えであります。さらに16章の「不正な管理人のたとえ」が示されます。御心にあって今をどのように生きるか、人間関係の中で祝福の関係を持ちつつ歩みなさいとの教えです。これも現実の信仰についての示しであります。そして、19章には「徴税人ザアカイ」について示されます。いじめや排除がある中で、自分から心を開いて社会の人々と共に生きることを教えておられるのです。やはり現実の信仰を励ます教えであるのです。これらは他の福音書には記されない、ルカによる福音書のイエス様の教えであります。イエス様は私達の現実の信仰を常に励まされておられるのです。現実を神の国として生きること、そのために信仰を持って力強く生きること、そして、その信仰の歩みは永遠の生命に導かれることなのです。「その日、その時のために」とは将来のことではなく、今の信仰に歩む私達を励ましておられる主イエス・キリストであります。
エゼキエル書の場合も、救いは「はるか先」のことでもなく、「遠い将来」でもなく、今こそ救いは現実であり、だから御言葉に委ねて歩みなさいと示していたのでした。ルカによる福音書も現実の信仰として、「目を覚ましていなさい」と教えているのです。

 将来、それは死んでからは天国に導かれるのですから、今は苦しくても悲しくても我慢して生きようという信仰がありますが、それは間違いです。天国、神の国は現実であるのです。今を苦しいと思っていますが、その中においても御心に生きる喜びがあるのです。苦しくても我慢をするのではなく、苦しくても御心に生きる喜びがあるのです。それが神の国を生きるということなのです。
 昔、東北の教会で牧会していた頃、召天者記念礼拝であったと思いますが、キリスト教の死生観について説教でお話しました。キリスト者は死んで彼方の国、天国に導かれるという信仰がありますが、そうではなく現実が天国であり、神の国として生きることがキリスト教の信仰であるとお話しました。イエス様の十字架の救いを与えられ、御心を示されて生きるときにも、苦しいこと、悲しいことがあります。それらを我慢して生きるというのではなく、そのような状況だからこそ御心を与えて導いておられるイエス様であるのです。だから現実は御心をいただいているのですから、神の国を歩んでいるのです。そしてこの肉体の命が終わったとき、そのまま永遠の命に導かれて行くのです。従って、現実の神の国と永遠の神の国はつながっているということです。文章に例えれば、仏教では、死は句点を打つことになります。これで終わったということです。それで旅立ちの装束でお別れするのです。しかし、キリスト教は、死は句点ではなく読み点なのです。まだ文章が続くという意味です。ちょっと読み点を打ち、その後の文章がつながっていくのです。その後の文章は永遠の生命です。今の神の国と永遠の神の国は読み点でつながっているということです。だから現実を神の国として生きることがキリスト者の信仰であるのです。
 このお話を受け止めてくださった婦人がおられました。「先生は私を天国へと導いてくれました。今まで死ぬということについては、もやもやとした思いでしたが、これで確信を持って天国へ行かれます」と言われたのです。その後、大塚平安教会へ招かれるときになって、その婦人が言われました。「先生はこのような小さい所で働くのではなく、もっと大きな働きが待っていますよ」と言って送り出してくださったのです。その後、召天されましたが、この世の神の国から永遠の神の国へと導かれて行ったのです。
 「その日、その時のために」私達の現実の信仰を励ましているのが今朝の示しなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。この現実の歩みに御心を示してくださり感謝致します。神の国に生きる喜びを広く証させてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。