説教「必要なことはただ一つ」

2011年8月21日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第11主日」、

説教、「必要なことはただ一つ」 鈴木伸治牧師
聖書、出エジプト記22章20〜26節
   ローマの信徒への手紙12章9〜21節
   ルカによる福音書10章25〜42節
賛美、(説教前)讃美歌21・486 「飢えている人と」、
   (説教後)519「イザヤを招く神の声は」


 3月11日に発生した東北関東大震災で甚大な被害が出て、今は復興に取り組んでいることが報道されています。多くの人々が復興に協力していますが、先日のテレビで「復興ボランティアツアー」について報道していました。東京、横浜等に住む人たちが、復興のためにボランティアとして参加することですが、旅行社がツアーとして計画したわけです。多くの人たちがこのツアーに参加しているようでした。今、日本ばかりでなく、世界の人々が日本の災害復興を祈り、協力してくれているのです。人が人の生きる姿を見る。自分の力が必要であれば、いつでもこの力を提供する。これは人間の基本的な生き方であります。
今朝は「隣人」と共に生きることが示しであります。「隣人」について、今朝のルカによる福音書10章25節以下の「善いサマリア人」が示されています。ある律法の専門家がイエス様を試そうとして言います。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問するのです。イエス様が、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に質問します。すると、律法の専門家は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えるのです。この答えは、まさに模範的な答えでありました。ですからイエス様は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われたのです。それに対して、律法の専門家は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言ったのです。正しい答えはできても、具体的になると、判断ができないと言うことです。そこで、イエス様は「善いサマリア人」のたとえ話をしたのでした。ある人が道を歩いていると追いはぎ(強盗)に襲われます。倒れている人の側を三人の人が通りました。その三人の人がどのように対応したのか、ということです。最初の人も、二番目の人も、社会的には人望のある人たちです。しかし、彼らは見て見ぬ振りをして行ってしまったのです。瀕死の重傷をおっている人です。三番目に来た人は、倒れている人とは日ごろから仲のよくないサマリア人の外国人でした。しかし、彼はそんなことは考えず、すぐに近寄り、応急手当をして介抱し、宿屋に連れて行ったのです。このたとえ話をしたイエス様は、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねました。律法の専門家は、「その人を助けた人です」と言わざるを得なかったのであります。
 「隣人」についての示しであります。私たちはこの聖書に励まされて、社会の人々共に歩むことが導かれています。すなわち、隣人は自分の好きな人、好みの人ではなく、今自分の前にいる人を、自分の感情を超えて接することであると示されるのです。大震災の復興に心を寄せ、協力すること、聖書に教えられなくても、人間の基本的な姿勢です。人間は基本的に共に生きる姿勢を持っています。しかし、基本でありますが、人間には自己満足の姿勢がありますので、他者排除も持ち合わせているのです。そのことを心に示されながら聖書の示しをいただきたいのです。

 私達は聖書を読めば、必ず示されることは「隣人と共に生きる」ということであります。主イエス・キリストは、「あなたがたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と教えておられますが、この教えは旧約聖書により神様が教えておられることであり、イエス様はさらに強めて教えておられるのです。
 今朝の旧約聖書出エジプト記22章20節以下でありますが、「人道的律法」として示されています。苦しく生きる者を労りなさいという教えです。ここでは寄留者を虐待したり、圧迫してはならないと教えます。何よりも聖書の人々が、つい最近まで寄留者であったのです。聖書の人々は、当初はエジプトに寄留することになったのです。それは400年も昔になりますが、ヤコブの時代です。その頃、全国的に飢饉となり、神様の導きによりエジプトの大臣になっていたヤコブの11番目の子供ヨセフのもとに、ヤコブの一族がやってくるのです。それからはエジプトの寄留者となるのですが、エジプトの王は他国の民族が次第に増大して行くことに恐れを持ち、聖書の人々を奴隷にしてしまうのです。寄留者がその国で苦しむことについては、身を持って知っているのです。だから、まず寄留者をしっかり受け止めることが教えられているのです。
 次に「寡婦や孤児」を苦しめてはならないという教えです。夫を失った女性、両親を失った子供達は、生きることに困難です。だから、そのような存在を常に心に留めなさいと教えます。後に、寡婦や孤児は、戦いが原因であることになります。そういう意味でも民族の責任として救済しなければならないのです。次に貧しい人たちを顧みるという教えです。お金を貸したなら利子を取ってはならないと示しています。あるいは隣人の上着を質に取ったならば、日没までには返さなければならないとしています。つまり、上着は夜寝るときに蒲団代わりになるからです。単に上着ではなく、大切な生活用品でありました。主イエス・キリストは、「あなたを訴えて下着を取ろうとするものには、上着をも取らせなさい」(マタイによる福音書5章40節)と教えています。上着は大切なものであり、旧約聖書からの人道的な戒めです。だから、裁判により下着を取るわけですが、イエス様は大切な上着をも与えなさいと教えているのです。この教えは「復讐してはならない」との教えの中で示されています。相手に対して自分を差し出しなさいと示しているのです。
 旧約聖書の人道的教えは、戒めとして示されています。人道上の規定としては申命記24章5節以下にも示されます。「挽き臼あるいはその上石を質にとってはならない。命そのものを質に取ることになるからである」と規定されています。さらに、「畑で穀物を借り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」と教えているのです。さらにレビ記19章9節以下では、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない」と規定しています。これらの教えにより、ミレーの名画「落ち穂拾い」が描かれることになるのです。
 旧約聖書は貧しい者、孤児、寡婦、寄留者が安心して生きることが出来るよう、戒めとして人々に示されているのです。隣人を常に心にとめて生きるということです。このような戒めにより生きることで、自ずと隣人と共に生きることが導かれて来るのです。聖書は隣人と共に生きることが最大の教えなのです。
 隅々まで刈り尽くさない、落ち穂も拾い集めないとなると、刈り入れの後の畑は、なんとなく見栄えの良くない状態になるのではないでしようか。日本でしたら、きれいに刈り入れが行われ、落ち穂一つない畑となります。落ち穂や刈り残しはみっともないと思いますし、潔癖な日本人は整理整頓が上手なのです。落ち穂を拾うために、畑の人以外の人が入り込むのは盗みにもなってしまうのです。聖書の人道的規定に教えられたいと思います。

 人が共に生きることは、聖書の基本的な教えであります。新約聖書ルカによる福音書10章25節以下は「善いサマリア人」のたとえ話をと通して「隣人」を愛することの教えです。この教えについては最初に示されました。今朝はさらに「善いサマリア人」に続く、10章38節以下の「マルタとマリア」からも示されるのであります。
 「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」と記されています。その村にマルタさんとマリアさんの家があるのですから、「ある村」はベタニア村になります。ベタニア村のマルタさんとマリアさん、それにラザロさんとは、イエス様は親しく交わっていたようです。マルタ・マリアさんの家に入りますと、イエス様と12人のお弟子さんと一緒であり、そのお弟子さん相手にイエス様がお話をしたようです。そのお弟子さんたちと共にマリアさんがイエス様の足元に座り、イエス様のお話に聞き入っていたと思われます。マルタさんはイエス様の一行をもてなすために、せわしく立ち働いていたのです。ところが妹のマリアさんはもてなしをしないで、ただイエス様のお話を聞くために座り込んでいるのです。つい愚痴がこぼれます。「主よ、私の姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」というのでした。
 マルタさんとマリアさんについてはヨハネによる福音書11章においても記されています。ラザロが病気であるので、マルタ・マリアさんはイエス様に人をやって知らせます。しかし、イエス様は知らせを聞いてもすぐには行きませんでした。二日間、同じ場所に居ましたが、ようやくラザロのもとに行くことになるのです。しかし、ラザロは既に死んでいました。イエス様を迎えたのはマルタさんでした。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言うのです。それに対してイエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。あなたはこのことを信じるか」と言われました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じています」とマルタさんは告白しています。そして、マルタさんはマリアさんにイエス様が来られたことを知らせたのです。マリアさんはすぐにイエス様のもとへ行き、マルタさんと同じ言葉を言うのでした。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と全く同じ気持ちで言うのでした。つまり、マルタさんもマリアさんも主イエス・キリストを神の子、メシアとして信じていたのであります。この後、イエス様は墓の中に埋葬されているラザロさんを甦らせるのでした。
 マルタさんとマリアさんのイエス様に対する信仰はヨハネによって示されますが、今ルカによる福音書においてもその信仰が示されるのです。マルタとマリアの姿を教会では、良く引き合いに出しては示されます。多くの場合、婦人会の皆さんがマルタさんとマリアさんを自分たちに当てはめるのです。「私はマルタ役になって接待します」とか「私はマリアさんのように座ってお話を聞きます」と言う訳です。この場合、マルタさん役は、マルタさんの信仰に立って言っておられるのです。ただ、忙しく働くのではなく、イエス様への信仰があるから、イエス様に仕える者として奉仕されているのです。イエス様は10章の最初のところでお弟子さん達を宣教へと遣わすのですが、その心構えをお話されています。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる」とお話されています。すなわち、神の国を宣べ伝えるとき、その神の国を受け入れる姿勢がその家にあるので、神の国が実現されるのです。マルタさんの働きは神の国の実現なのです。一方、マリアさんはイエス様のお話をお弟子さんたちと共に聞いているのですが、神の国の実現を聞いているのです。お弟子さん達は神の国の実現のために選ばれているのです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とイエス様は言われています。「必要なことはただ一つ」と言われています。必要なこととは「神の国に生きる」ということなのです。神の国に生きるには、イエス様の御心をいただき、隣人と共に生きることなのです。隣人と共に生きるとは、「善いサマリア人」のたとえ話で示されますように、自分の思い、感情を超えて一人の存在を受け止めて生きるということであります。

 旧約聖書の刈り入れの人道的な規定に関し、ミレーの「落ち穂拾い」の名画が生まれました。ミレーはこの他、「晩鐘」、「羊飼いの少女」等の名画を残していますが、これらはいずれもフランスのパリにあるオルセー美術館に展示されています。4月4日から5月18日まで、娘がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしていますので、45日間行ってきました。滞在中、娘がパリの美術館に連れて行ってくれたのです。ルーブル美術館オランジュリー美術館、オルセー美術館を見学したのですが、そのオルセー美術館でミレーの名画を見ることが出来ました。美術の本や、大塚平安教会のカレンダーに登場する絵として、これらの名画はよく知っていましたが、原画の前に佇んだとき、ミレーがまさに聖書の御心を受け止めて描きあげたことを示されたのであります。完成した名画を見ている訳ですが、ミレーはひたすら聖書の人道的な規定を心に示されながら描いたのではないでしょうか。常に聖書の言葉を持ちながら手を動かし、思いを寄せて描いたのだと思います。人間は隣人と共に生きることは自然なことであり、基本的なことでありますが、やはり神様のお心を示されつつ手を動かし、思いを寄せることが大切なことなのです。そうでないと、つい自己満足になってしまうからです。神の国に生きるとは、今の状況の中で、神の恵みを喜びつつ生きることです。今朝の聖書、ローマの信徒への手紙の中に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と示されていますが、共に生きる姿をミレーは描き続けたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。神の国に生きる者へと導いてくださり感謝致します。この世の神の国実現の働き人とさせてください。キリストの御名により祈ります。アーメン。