説教「存在を励ます主」

2011年7月31日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第8主日」、

説教、「存在を励ます主」 鈴木伸治牧師
聖書、サムエル記上24章17〜23節
   ガラテヤの信徒への手紙6章1〜10節
   ルカによる福音書7章36〜50節
賛美・(説教前)讃美歌21・393「こころを一つに」、
   (説教後)505「歩ませてください」


 先週の月曜日、25日でありますが、バルセロナでお世話になった下山由紀子さんが私共の家にお寄りくださいました。4月4日から5月18日まで、スペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている娘の羊子のもとに行ってきましたが、滞在中、下山由紀子さんには何かとお世話になりました。スペインの方と結婚されており、バルセロナ日本語で聖書を読む会の中心になっておられます。お仕事は医療通訳をされています。日本人がスペインで病院に行かなければならなくなった時には、一緒に行って通訳をしてあげるというお仕事です。滞在中、まず私がウイルス性の風邪を引いたときにも、またスミさんが具合が悪くなった時にも、いろいろとアドバイスをしてくださいました。何よりもバルセロナ日本語で聖書を読む会の礼拝を羊子の家で二度ほど開きましたが、共に礼拝をささげ、信仰のお交わりができたことは大きな喜びでありました。観光地になっているモンセラットの教会をお連れくださる日に、私はウイルス性風邪を引き、寝込んでしまいましたので行くことができなかったのですが、その後、日程を調整されて、どうしてもお連れしたいというのです。このモンセラット見学はとても参考になりましたし、良い経験を与えてくれたのでした。
 その下山さんが7月16日から8月2日まで、お嬢さんと共に一時帰国されたのでした。驚いたことに、私共の家からはそんなに遠いところではなく、同じ金沢区なのです。下山さんは帰国して、東北関東大震災で被災した気仙沼第一聖書バプテスト教会の嶺岸浩牧師の消息を得たいと願っていました。バルセロナ日本語で聖書を読む会は皆さんの意見で、献金をそのバプテスト教会に捧げたのです。その献金を私がお預かりし、日本に帰国してからバプテスト教会にお送りしたのでした。下山さんは日本に帰国するものの、もちろん嶺岸牧師と会うことはできません。下山さんがお訪ねくださった翌日、26日に私のパソコンに「いのちのことば社」からのメールが入っていました。いろいろなお知らせをしながらクリスチャン新聞等の案内をしているのです。その中にクリスチャン新聞7月31日号に、嶺岸牧師の証を掲載していることを紹介していました。そして別欄で証の概要を紹介していたのです。私はそれをコピーして、今いる下山さんの家にファックスしてあげました。下山さんは大変喜ばれ、これをバルセロナの下山さんのパソコンに送ってくださいというのです。バルセロナ日本語で聖書を読む会の皆さんにも紹介したいと言われるのです。下山さんは月報を発行されており、バルセロナ日本語で聖書を読む会の報告をし、また関係する皆さんのお働きや証等を紹介されているのです。
 私は下山さんの信仰の歩みの中に、主イエス・キリストが一人の存在をしっかり見つめる姿を示されています。一人の存在を見つめて共に生きる、イエス様の御心なのです。医療通訳もまさにその信仰であると示されるのでした。今朝は一人の存在を励ましてくださる主イエス・キリストから教えられるのであります。

 私達はともすると相手の存在によって左右されてしまいます。相手が私に悪い感情を持っているとき、どうしてもその感情によって相手を理解しますので、相手と距離を置いたりするのです。相手がどのように私を理解しようとも、その感情によることなく、相手の存在を受け入れるとしたら、それが祝福の関係へと導かれるのです。私たちが主イエス・キリストを仰ぎ見つつ歩むとき、祝福の歩みへと導かれるということです。
 旧約聖書ダビデの物語です。サムエル記上24章が示されています。聖書の国イスラエルはもともと王国ではありませんでした。ヤコブの子供達はまことの神様を信じて歩む12部族の連合体でありました。各部族の長がいますが、全体の中心になる人がいなかったのです。そのため各部族は周辺の国々に悩まされており、全体で行動し立ち向かうことはできなかったのです。そのためサムエルがイスラエル全体の祭司の時、人々は自分達も王国になることを求めたのでした。それにより、初代の王様がサウルとして選ばれました。これは神様の御心でもありました。しかし、サウルは当初は神様の御心に従って支配していましたが、次第に自らの思いで支配するようになりました。そのため、神様はサウルではなくダビデを王にするのです。しかし、実際はサウル王が君臨しています。ダビデはサウル王の家来になり、働くようになります。ダビデは戦いでは力強い功績を残すようになり、人々はダビデを高く評価するようになります。サウルは自分よりもダビデの名声が高まっていることが面白くなく、ダビデを殺そうとするのです。そのサウルからの逃亡生活をしているダビデです。
 そこで今朝の聖書のダビデとサウルの出会いになるのです。ダビデが家来と共に洞窟の中に隠れていると、サウルは3千の兵を率いてダビデを追っているのですが、サウルもダビデが隠れている洞窟に入ってきます。暗い洞窟で、サウルを倒すには好機であり、ダビデの家来たちは実行すべきであるとダビデに言うのです。しかし、ダビデは「主が油を注いだ方に手をかけてはいけない」と言い、サウルの衣の端を密かに切り取ったのでした。そして、洞窟を出たサウルに、ダビデが声をかけます。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、私の訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように」というのです。
 サウルはダビデの言葉を聞くと、声をあげて泣いたと記しています。「お前はわたしに善意をもって示し、わたしはお前に悪意をもって対した。今日のお前の振る舞いに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前によって確立される」とサウルはダビデに言うのです。そしてその後、サウルはペリシテの国との戦いで、息子のヨナタンと共に戦死してしまいます。それによりダビデが王様になっていくのです。その道程も困難がありますが、相手の存在を常に大切にするダビデの生き方は神様によって祝福されたということです。たとえサウル王が自分を殺そうとしても、だから自分もサウルを殺すとは考えなかったダビデであります。相手が自分をどのように思っても、相手の感情で相手を見つめるのではなく、一人の存在を受け入れるということなのです。神様はそのダビデに祝福を与えられたのです。

 主イエス・キリストは一人の存在を大切に受け入れてくださるのです。今朝の新約聖書ルカによる福音書7章36節以下には、「罪深い女を赦す」イエス様が記されています。イエス様が一人の女性に香油を注がれるお話はそれぞれの福音書が記しています。マタイによる福音書は26章6節以下に記されます。一人の女性が極めて高価な香油の入った石膏の壺を持ってイエス様に近寄り、食事の席にいるイエス様の頭に香油を注いだと記しています。マルコによる福音書は14章3節以下に記されます。イエス様がベタニアのシモンの家で食事をしていると、一人の女性が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエス様の頭に注いだと記します。ヨハネによる福音書は12章1節以下に記されます。ここでの女性はマルタとマリアの姉妹のマリアが、高価なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の神の毛でその足をぬぐったと記しています。マタイ、マルコ、ヨハネの場合、イエス様に女性が高価な香油をイエス様の頭、足に注いだのは、イエス様の葬りの準備であると記しているのです。そして、これらの福音書は女性が罪深い存在であるとは記していないのです。罪深い女性として記しているのはルカによる福音書だけです。その意味でルカによる福音書の香油注ぎは他の福音書とは示そうとしていることが異なるのであります。ルカの場合、罪深いと人々から言われている女性に重きを置いているのです。
 あるファリサイ派の人がイエス様を食事の招待をします。イエス様は招待に応えて食事の席についていました。そこへ一人の罪深い女性が入ってきて、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に香油を塗ったのであります。ここで聖書は「罪深い女」と記しているのですが、罪深いとはどのようなことなのでしょうか。注解書を参考にすると、「罪深い女性は娼婦であろう」と断定しない説明をしています。しかし、「娼婦であろう」くらいの判断では、この女性の行動は理解できないのです。このルカによる福音書の前の部分、7章1節以下には、百人隊長の部下が死にかかっていますが、憐れみを深く持たれたイエス様は、イエス様のお言葉で死にかかっている部下を癒しているのです。さらに、11節以下には、ナインの町のやもめの一人息子が死んでしまい、その葬式の行列に出会ったイエス様は、嘆き悲しむ母親を憐れに思い、死んだ息子に声をかけ、生き返らせているのです。一人の存在を深く受け止め、憐れまれる主イエス・キリストを証しているルカによる福音書です。「娼婦であろう」くらいの女性ではないことは確かです。すなわち、この女性は何らかの病を持っていたのであります。病を持つ者は罪人扱いにされていた時代ですから、この女性を罪深いとしているのだと理解します。この女性は、イエス様の死者を生き返らす力のある方であることを知っていました。この病の自分がイエス様により癒されるのであるとの喜びをもってイエス様に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、香油をイエス様の足に塗ったのであります。既に癒された者としての喜びがあったのです。
イエス・キリストに向かうということは、そこに癒しがあり、力が与えられるということであります。この後、ルカによる福音書は8章40節以下で、12年間も病の女性が、イエス様の衣に触れて癒されることが記されていますが、罪深い女性といわれる人も同じ信仰であるということなのです。主イエス・キリストはどのような存在をも顧みてくださるのです。どのような存在も生きて存在する以上、大切な存在なのです。大切な存在として、主イエス・キリストは人間を真に生きる者へとお導きになるために、十字架にお架りになり、御自分の死と共に、人間の奥深くにある他者の存在を切りすてること、排除することから救い出してくださったのであります。

 最初にバルセロナでお世話になった下山由紀子さんのことをお話しました。気仙沼第一聖書バプテスト教会の嶺岸牧師のことが御心配なのであります。そこで、たまたま得た情報を下山さんにお知らせしたのです。その嶺岸牧師の証に示されておきましょう。

 東日本大震災後、毎月11日に開催される「東日本大震災復興支援3・11超教派一致祈祷会」(同世話人会主催)の第4回が7月11日、東京・新宿区百人町の淀橋教会で開催されました。震災による大津波で会堂と自宅が流されてしまった気仙沼第一聖書バプテスト教会の嶺岸浩牧師が、震災の中を通って受けた恵みについて証しをされたのです。
 「今、世界中の多くのクリスチャンたちが、私どもの教会のために祈り、支え、応援してくださっている。会堂と自宅が流されたことは悲しみであるけれども、そのことを受け止めて感謝できる。これはクリスチャンでなければ言えないこと」と嶺岸氏は語っておられるということです。嶺岸氏は、地震発生後の30分後には妻と娘を車に乗せ、高台に避難したため、九死に一生を得た。だが2日後、教会のあった場所に行って見ると、「約3年前に建てたばかりの会堂が跡形もなかった」ということです。この体験を通して「『わたしだけに頼れ』とイエス様が語りかけてくださった」と言われます。「一切のものが流されたことによって神様だけ、イエス様だけに信頼して歩むことを示され、私はこの時、新しい心で神様に献身をした」と言われています。
 
 東北関東大震災では多くの人々が被災され、悲しみの状況ですが、生きているものは生きている者同士が互いにその存在を尊重しつつ歩むことなのです。生きている者の信仰を導くのは主イエス・キリストであります。嶺岸牧師は、主イエス・キリストが嶺岸牧師の存在をしっかりと支えていることを深く受けとめたのでした。「新しい心で神様に献身した」と証ししています。被災された人々を思えば悲しみが募りますが、今生かされている者として、自分という存在を捕らえてくださっている神様に、改めて従う決意をされているのです。存在を受け止め、現実の中で力強く生きるよう導いてくださっているのです。
 今朝の書簡の聖書はガラテヤの信徒の手紙6章です。「信仰に基づいた助け合い」を示しています。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」と示されていますが、一人の存在を見つめ、受け止めるとき、共に生きる者へと導かれるのです。今朝は、私という存在を励ましてくださる主イエス・キリストの導きに委ねて歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。私という存在を捕らえてくださり感謝致します。主のまなざしをしっかりと受け止めることができますよう導いてください。主イエス様によって祈ります。アーメン。