説教「祝福をいただく」

2023年9月3日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第15主日

                      

説教・「祝福をいただく」、鈴木伸治牧師

聖書・箴言25章2-7節

   Ⅱコリントの信徒への手紙11章7-15節

   ルカによる福音書14章7-14節

賛美・(説教前)讃美歌21・401「しもべらよ、み声きけ」

   (説教後)讃美歌21・521「とらえたまえ、われらを」

 9月になりましたが、まだ暑さは続くものの、やはり暑さのやわらぎを感じます。9月は「敬老の日」があり、今年も町内会の調査がありました。70歳以上の人を登録して、その日にはお祝いをくださるのでした。ちょっとした食べ物ですが、うれしくいただいています。私の父はこの敬老の日には町内会のお祝いがあり、町内会館のお祝いの会に出席していました。そこで民謡を歌っている父の写真が残されています。父は意外と社交的で、そのような集いには積極的に参加していたようです。今は、コロナの時からお祝いの会は中止となっており、高齢者として登録された皆さんにはお菓子が配られています。毎年、鳩サブレ―ですが、それでもありがたいと思っています。

 大塚平安教会で牧会していた頃、長寿者のお祝いをしていました。教会の慶弔規定に、75歳になったら高齢者としてお祝いするということなのです。そしたら、75歳で長寿者としてお祝いされることに抵抗を覚える方がおられました。それで80歳、85歳、90歳、95歳の皆さんをお祝いしていたのでした。教会では単に高齢者のお祝いではなく、信仰の証を残されているお祝いということです。だから教会の高齢者のお祝いをお受けくださることが大切です。人間的なお祝いではなく、神様からの祝福であるからです。高齢者に関していろいろ考えさせられていますが、今朝の聖書は高齢者に限らず、神様から祝福をいただくことの示しになっています。人間的な評価、栄誉、称賛等がありますが、人間ではなく神様の栄誉、評価、祝福こそ求めなければならないのであります。

 今朝の旧約聖書箴言の示しであります。箴言の「箴」は「針」の意味であり、「チクリと胸を刺す」言葉ということになります。いわゆる、警告の言葉ということになりますが、昔からの「言い伝え」に関わることもあるのです。日本には「ことわざ」がありますが、昔から言い伝えられてきたことが格言となって、生活の知恵になっているのです。例えば、「井の中の蛙大海を知らず」という「ことわざ」があります。狭い世界の中に安住して、それを最も良いと思っている独りよがりの姿を戒める言葉です。自分の住んでいる世界以外のことは、基本的には知ることができないが、書物や体験によって広い世界を知ることになるのです。それから「人間万事塞翁が馬」という「ことわざ」があります。塞のそばに住んでいる老人の馬が逃げてしまいますが、やがて北方の良い馬を連れて帰ってくるのです。老人の息子は喜んでその良い馬に乗りましたが、落馬して足を悪くしてしまうのです。ところが、それが幸いして兵役を免れたのでした。幸福だと思ったことが不幸になり、不幸だと思うことが幸福になるという、人の思いを超えることがあるということです。格言とか「ことわざ」は生活の途上、教訓になる事柄が言い伝えられて固定的な教えとなるのです。

 箴言は格言、「ことわざ」的な要素がありますが、そこに神様の御心が示されているということで、単に格言ということにはならないのです。ソロモン王の言葉として示されているのです。旧約聖書では、ソロモンという王様は神様から知恵をいただき、人々に神様の御心として示しましたので、箴言はソロモンが与えたとされています。しかし、もちろんソロモンではなく、後の賢者がその時代に神様の御心として示したのでした。そのためには長い年月を経て箴言という形になって行ったのです。

 今朝の箴言25章は王様の立場あるいは上に立つ者の示しであります。「ことを隠すのは神の誉れ、ことを極めるのは王の誉れ」と示しています。王様は示されている事柄を権威を持って極め、実行することが務めなのです。しかし、神様は人間に対してまだまだ御心を隠しておられるということです。人間は示されていることを、極め、実行することだと教えているのです。関連する聖書の言葉は、申命記29章28節に「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、掲示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである」と記されています。モーセが人々に語っている説教です。神様の御心は計り知ることができないが、示されている神様の御言葉があり、その御言葉を行うことが人間の務めであると教えているのです。

 6、7節の言葉、「高貴な人の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くように言われる方が良い」と言われていますが、この言葉は新約聖書で主イエス・キリストが引用している言葉でもあります。箴言では、神様の御心を深く受け止め、実践することが私達の生き方であると、ソロモンの名を借りて教えているのです。

 今朝のルカによる福音書14章7節以下に示されているイエス様の教えです。食事の席で、食事に関してのお話をしています。一つは食事に招かれること、一つは食事に招くことのお話をしているのです。イエス様はファリサイ派のある議員の家で食事の席についているのです。律法学者もおり、かなりの人が共に食事の席にいたのでしょう。その食事は招待された人々で、イエス様も招待されたということです。イエス様は招待された人たちが上席を選ぶ様子を見ていたのです。聖書の世界では、ファリサイ派の議員に招待されたので、自分は身分的にも上であると思っているのでしょう。そのような光景を見られたイエス様は、「へりくだる」ことを教えているのです。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたを招いた人が来て、『この方に席を譲ってください。』と言うかもしれない。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう」とお話されました。そして、結びとして、「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」と言うことでした。食事の席の座り方に着いて教えていると言うのではなく、へりくだること、自分の行動が人に評価されないことを教えているのです。評価は神様がするのであり、人の評価を求める生き方ではなく神様の評価を求めて生きなさいと教えているのです。日本の結婚式の場合は、招待する人が席を決めるので、自分から上席に座るということはありませんが、定められた席に座ることで、自分の立場を考えさせられるわけです。自分ではなく人の評価がそこにあるということです。それで満足する場合、不満に思う場合がありますから、やはりイエス様の教えを受け止めなければならないということです。

 人々を食事に招くことについての教えは、神様の愛を広く実践しなさいとの教えになります。食事の席に招くのは、友人、兄弟、親類、近所の金持ちではいけないと言うことです。これは自分の世界の人々であり、神様の愛を広く実践しなければならないとの教えです。食事に招かれるにしても、食事に招くにしても、神様の評価、神様が祝福してくださることを求めて行うことの教えです。食事に招くのは、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と教えます。その人たちは、あなたにお返し出来ないからだとしています。自分のしたことに対して、人の評価を求めること、人間の素朴な姿であります。自分の行為が何らかの形で帰ってくるという期待でもあるのです。

 主イエス・キリストは、「あなたがたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と教えています。愛を持って生きなさいと教えているのですが、愛を持って生きることに、評価を求めるとしたら、愛の実践にはなりません。それは自分のためになってしまうからです。愛の実践は自分を捨てることなのです。ルカによる福音書18章24節以下で、お弟子さんのペトロが、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」とイエス様に尋ねています。その時、イエス様は、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍の報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と答えています。家族や畑を捨てると言われていますが、自分を超えるということです。家族や生活の場には自分の思いが込められているのですが、自分を超えるということで、「あなたの隣人を愛する」歩みが導かれて来るのです。家族や畑を捨てなさいというのではなく、自分中心を超えなさいと教えているのです。人の評価を求めるのではなく、神様の評価、誉れ、祝福を求めることなのです。

 主イエス・キリストの十字架の救いを喜ぶ人生は、人々の評価ではなく、ただ神様の誉れをいただくための歩み、証人としての歩みをすることであります。隣人を愛して生きることで人々の評価が上がるかも知れません。しかし、人々の評価ではなく、神様の誉れをいただきたいのであります。娘の鈴木羊子がスペイン・バルセロナでビアノの演奏活動をしていますが、カトリック教会のミサの奏楽、そして作曲等をしています。そのような活動が人々に紹介されることになりました。合わせて私の作詞の賛美歌についても紹介されています。いろいろな新聞にその記事が掲載され、人々の評価をいただいています。改めて示されることは、神様の評価、神様の祝福をいただくことなのです。神様の祝福となりますよう願っています。

<祈祷>

聖なる御神様。導きを感謝します。何事も神様からの誉れを求めて歩むことができますよう導いてください。キリストの御名によって、アーメン。

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