説教「神によって生きるために」

2018年11月18日、六浦谷間の集会 
「降誕前第6主日

説教・「神によって生きるために」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記3章1-15節
    ヘブライ人への手紙8章1-13節
     ルカによる福音書20章27-40節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・258「貴きみかみよ」、
    (説教後)讃美歌54年版・524「イエス君、イエス君」

 時々ですが、時間がある時にはパソコンで映画を見ています。いろいろな映画がありますが、中でも戦争ものや恋愛ものが多いのですが、時には心に残る映画もあります。「100歳の少年と12通の手紙」もありました。これは実際に映画館で鑑賞したのですが、パソコンでも鑑賞したのでした。外国の映画と共に日本の映画も見ることができます。最近、「シェアハウス」という映画がパソコンにありましたので鑑賞しました。四人の女性が、それぞれの背景、人生がありますが、一緒に家を建て、一緒に生活する物語でした。それから、最近見た日本の映画ですが、「RAILWAY」を鑑賞しました。会社で将来を期待されていたエリート社員が、49歳になって地方の電車の運転手になるというお話です。運転手になろうと思い立つのは、小さい頃から鉄道に憧れがあったからでもあります。母親が倒れて入院することにより、故郷に帰る決意をしたのでした。そして、あこがれていた運転手の道へと入っていくのです。もはや49歳にもなっているのですが、研修、試験を見事にクリアして運転手になります。そのことでお連れ合いとは別々に生活することになるのです。そんな生活をしているうちにも、お連れ合いの方が、こんな夫婦で良いのかと思うようになるのです。一方、病気の母親は、今まで都会でエリート社員として働いてきた息子が、電車の運転手になったことを喜んでいました。親の喜びは子供が喜んで生きている姿を見ることだと繰り返し述べています。その母親は亡くなっていくのですが、運転手になった彼は、いよいよ自分の憧れであった鉄道に生きるようになります。ある日、電車を運転していると、彼の奥さんが夫の電車に乗りました。そして、電車の中継点で夫と会うことになります。夫にはまだ運転の職務があります。夫は言いました。このまま終点まで乗って欲しい、ということでした。奥さんは頷いて、夫が運転する電車に微笑みながら乗るのでした。そして、その電車が走り去っていくところで終わるのでした。
 いろいろ考えさせる物語であると思いました。人は何によって生きるのか、そういうテーマがあったと思います。母親は、自分の子供が喜びつつ電車の運転手になっている、それだけで喜びでありました。一方、運転手夫婦は、奥さんは人々から喜ばれるような仕事をしています。そして彼も好きな仕事でありますが、人々から喜ばれているのでした。「終点まで乗ってもらいたい」の一言は、お互いに別々の道を歩んでいても、寄り添った夫婦として示しているのです。物語は、何によって生きるかを問いかけています。母親は喜びつつ自分の道を歩む息子を見ることで生き甲斐を示されるのです。夫婦は別々の道を歩んでいるとしても、お互いの歩む姿を尊重しながら、それによって生き甲斐が与えられるのでした。私たちも、何によって生きているのかと聞かれたら、それぞれの答えがあるでしょう。仕事の生き甲斐、家族の喜び、趣味に没頭する等、いろいろな生き方に寄っています。しかし、信仰の道は、相手によって変わることなく、ゆるぎない人生が導かれるのです。今の歩みが、神様の国として歩み、それが永遠の彼方まで結びついている、それが祝福の人生であるのです。「神によって生きるために」いよいよ十字架の救いを仰ぎ見たいのであります。

 私たちの人生、喜びがあり、悲しみがあります。多くの場合、苦しい現実には神様を示されるのです。今、現実に苦しみがある。悲しみがある。その状況を神様に申し上げることです。私が生きているから、私を導いてくださるのです。死んでから天国に導かれることでありますが、現実に生きているからこそ、神様に心を向けるのであります。聖書の人々は苦しんでいました。だから、苦しみながら神様に心を向けていたのであります。
 今朝の旧約聖書出エジプト記3章であります。神様がモーセに対して、苦しみに生きる人々を救済させるために、その任を負うように迫っているのであります。モーセはもともとエジプトで奴隷として生きている夫婦から生まれました。その頃、エジプトの王様は、自分の国にこれ以上外国人であるイスラエル人が増えていくことの恐れを抱き、生まれてくる男の子を殺害していました。モーセの両親は心を痛め、箱舟に赤子のモーセを入れてナイル川に隠すのであります。その箱舟を拾ったのが王の娘でした。娘は奴隷の子供と知りながら自分の子どもとして育てるのであります。従って、モーセはエジプトの王子として成長するのであります。モーセは自分の境遇を知るようになり、同胞がエジプト人に苦しめられている現場で、思わずそのエジプト人を殺してしまうのです。そのことが露見し、モーセはエジプトを追放されたのでした。苦しい砂漠の旅の末、行き着いたところがミディアンの地でした。そこでエトロの娘と結婚し、羊の群れを飼う牧者となり、平安な日々を過ごしていました。ある時、神の山と言われるホレブに来ました。シナイ山とも言います。そこで神様はモーセに声をかけるのです。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオの元に遣わす。わが民イスラエルの人々を連れ出すのだ」と神様はモーセに命じるのであります。しかし、モーセは「どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々を導き出さねばならないのですか」と答えています。エジプトの力強さを良く知っているからです。そのエジプトから追放されてきたのです。
 神様の励ましを受けたモーセはようやく決心するのですが、不安があります。「わたしは、今、イスラエルの人々のところに参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」とモーセは言いました。モーセ自身も神様については知らないのです。先祖の神が今も導いていることは信じています。しかし、具体的には神様を知らないのであります。その時、神様はご自分を示されました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました。「わたしはある」という方が神様のお名前なのです。この名を第三者的に言うと「エホバ」となります。昔からエホバの神様として私たちも知っています。しかし、この読み方は正確ではなかったようで、「ヤハウエ」という呼び方になっています。昔の文語訳聖書はエホバの神様の名がそのまま書かれていました。しかし、口語訳聖書になってからは神様の固有名詞が消えてしまいました。それは、十戒に「わが名をみだりに唱えてはならない」とありますので、エホバと書いてある部分は「主」と読み替えているのであります。
 神様のお名前は「わたしはある」ということです。生きて働く神様を意味しているのであります。神様は目には見えませんが、「有る」というお方なのです。それに対して、偶像なる神は、形があって見えていても、実態がない神なのです。「有る」神様だから、今苦しみ、悲しみつつ生きている人々を受け止め、導いてくださるのであります。モーセは、その後も、口下手であるからとか、理由を付けて辞退しようとしますが、神様はそのモーセを励まし、エジプトへと遣わされたのでありました。エジプトにおける救済物語は割愛しますが、「有る」神様はあらゆる導きを示し、ついに約束の乳と蜜の流れる土地へと奴隷の人々を導かれたのでありました。「有る」神様は昔のアブラハムの時代、イサクの時代、ヤコブの時代の神様でした。そして、今、「有る」神様として苦しみに生きる人々の神様なのであります。生きている者の神様がエホバの神様であるということです。

 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と主イエス・キリストは示されています。新約聖書ルカによる福音書20章27節以下が示されています。サドカイ派の人々がイエス様のもとにきて尋ねました。サドカイ派の人々は復活を否定しています。それで、極端な例をあげながらイエス様に質問するのです。聖書の世界には「家名の存続」の掟があります。その家が絶えることなく、子孫を残していくためであります。これは旧約聖書申命記25章5節以下に示されていることです。サドカイ派の人々はその掟をまず引用します。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない」という掟です。そして尋ねたことは、7人の兄弟がいて、兄が結婚しましたが、子供ができないで死んでしまいます。だから弟が兄の嫁と結婚しますが、弟も子どもができないまま死んでしまいます。その後、兄弟たちが兄嫁と結婚することになるのです。最後に兄嫁も死んでしまいます。問題は復活した時、その女性は誰の妻になるかということです。面白い質問ですが、切実な問いでもあるでしょう。実際、お連れ合いが死んで、その後再婚しますが、天国ではどうなるのだろうと思われる方があるでしょう。しかし、再婚される方は、もはや死んだのであるからと割り切っておられます。
 サドカイ派の人々の意地悪な質問に、イエス様は見事な答えを示しています。「復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことはない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と示されたのであります。この世に生きているので、結婚して子供が与えられるのです。復活の世界は霊の世界ですから、肉体的な愛というものはありません。生きているから愛し合い、あるいは憎しみをもってしまうのです。愛し合う二人が、両親から許されず、自殺してしまうのです。天国で幸せに生きることが願いであるのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とイエス様はお示しになっておられます。この世で二人の愛が許されないのであれば、心を合わせて神様にお祈りすることです。神様は良い導きを与えてくださるのです。幸せはこの世に生きている時にいただかなければならないのです。「生きている者の神」様は、御心におとめくださるのです。「有る」と言われる神様は、私の現実におられる方なのです。
 創世記のヤコブは、共におられる神様に気がつきます。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と告白するのでした。ヤコブは兄エサウと双子で生まれます。双子で生まれたのに、自分は弟の身分になったことで面白くありません。昔のことですから、兄は家を継ぎ、豊かな財産を受け継ぐことになるのです。面白くないヤコブは兄をだまし、兄の権利を奪ってしまうのです。家を継ぐ者は父から祝福を受けなければなりません。それを知った兄は烈火のごとく怒ります。その兄から逃れて、母の兄、伯父さんのもとへと逃れていく旅の途上でした。ある夜、野宿していると夢をみます。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていたのであります。すると、神様が現れ、ヤコブに言うのです。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われたのであります。これは夢で示されたことなのです。ヤコブが眠りから覚めた時、まさに神様が共におられることを心から信じたのであります。神様は現実に生きておられ、私と共に歩んでくださるとの信仰をもってヤコブは生きたのであります。
 神様は彼方にいて、「お出で、お出で」と言って手招きされておられる神様なのではなく、「有る」神様として、私たちと共にいて歩んでくださる神様なのです。

 NHKテレビで、最近示されていることは、障碍者の一生懸命な姿です。オリンピック、パラリンピックが日本での開催が近づいてきていますので、紹介していると思いますが、オリンピック選手よりパラリンピックの選手の紹介が多いと思います。また選手に限らず、ハンディキャップを持つ皆さんの力強い活躍等が紹介されることが多くなっています。良いことだと思います。またパラリンピックの選手が小学校や中学校を訪問し、このような状態でも競技に参加できることをお話ししています。体験する子供たちも紹介されていました。人間はどのような状態であろうとも、みんな共に歩むことなのです。そのためにはハンディキャップを持つ人々との交流は大切であります。いろいろな方面のハンディキャップを持つ人々を知ることは大切なことなのです。
 以前、園長を担っていた幼稚園で、一人の転園生を迎えました。担っていた幼稚園はハンディキャップを持つお友達を比較的多く受け入れていました、園児の皆さんは、いつも共に歩んでいたのです。その転園生は、初めてハンディキャップを持つお友達に接したのです。発した言葉は侮蔑的な言葉でした。そのお友達の前の幼稚園ではそのようなお友達が一人もいなかったのです。幼稚園によってはそのようなお子さんを受け入れないところもあるのです。しかし、その転園生のお友達も、園生活をしているうちに、他のお友達と同じようにハンディキャップを持つお友達と過ごすようになりました。
私たちはこの世に生きるものです。いろいろな人間の営みの中に置かれています。家族と共に歩んでいます。しかし、一人で歩んでおられる方もあるでしょう。障害を持って歩んでおられる方もあるでしょう。私たちの現実に主イエス・キリストがおられることを知ることです。私たちは、つい自己満足に生きてしまいます。それがために他者を排除しつつ生きてしまうのです。イエス様は十字架にお架りになり、私たちの中にある悪い姿を十字架により滅ぼされたのであります。そして、絶えず私の現実におられ、私と共に歩んでくださっているのです。神様は生きている者の神様であります。
<祈祷>
聖なる神様。私たちと共におられ、お導き下さり感謝致します。共におられる神様を多くの人々に証しできますよう導いてください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。