説教「新しい命」

2016年3月27日、六浦谷間の集会 
「復活節第1主日」 復活祭(イースター

説教、「新しい命」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書55章1-7節
    コリントの信徒への手紙(一)15章1-11節
     ヨハネによる福音書20章1-18節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・148「救いのぬしは」
     (説教後)讃美歌54年版・496「うるわしの白百合」


 今朝は主イエス・キリストの復活祭であります。前週の金曜日に十字架につけられて殺されてしまい、金曜日の夕刻にはお墓に埋葬されますが、三日目の日曜日の朝に復活されました。今日は主のご復活のお祝いであります。40日間、イエス様のご受難を仰ぎ見つつ歩んできた私たちに、聖書は「キリストは復活しました」と知らせています。
 クリスマスは暗黒の社会に救い主がお産まれになったということでお祝いします。しかし、まだ幼子であり、何となく現実味がありません。それに対して、イースターは苦難の死から甦りという、輝かしい示しがあり、現実的に共におられる主イエス・キリストを示されるのであります。もはや、苦しみも悲しみもない、そういう現実が与えられているのであります。お弟子さんたちにとって、3年間、共に歩まれたイエス様は心に示されています。人々に神様のお心を示し、驚くような技を示しておられたイエス様は、もはや墓に埋葬されているとの思いです。しかし、今、復活のイエス様にお会いすることになったとき、新しいイエス様として信じるようになるのです。
 私達も久しぶりに会う知人に対して、昔と少しも変わらないと思いつつ、今現実にお会いしている友達は、今を生きる姿として示されるのです。先週の春分の日、3月21日はドレーパー記念幼稚園の同窓会でした。幼稚園は送り出した子ども達の同窓会を三度開いています。まず3月に卒業した子供たちの同窓会を、その年の夏休みに開催しています。小学校に入って、何の勉強が好きか、お友達ができたとか、いろいろな報告をしてもらいます。次の同窓会は、毎年、春分の日に開催しています。小学校を卒業した子供達の同窓会を午前中に開催し、午後からは中学を卒業した子供たちの同窓会を開いています。最初の同窓会は卒業した子供たちのほぼ全員が出席します。小学校卒業生になると約半数の出席になります。そして、中学卒業の子ども達は三分の一くらいの出席になります。引っ越しやいろいろな都合で出席できなくなるのです。小学校卒業の子ども達は、6年ぶりに再会するわけですが、成長しているものの、だいたい昔の面影があります。しかし、中学卒業の子ども達は、まったく思い出せないような成長になっています。9年間の成長は、随分と変わるものです。何か新しく出あうような思いでした。しかし、お話しを聞いていると、やはり昔の彼なんだと示されるのでした。しかし、昔と全く同じではなく、やはり新しい姿の存在になっているのです。その姿を復活とはいえませんが、新しい思いで受け止めることであると示されたのであります。
 幼稚園の卒業生とイエス様のご復活を重ねるのではありませんが、新しい存在として受け止めること、イエス様のご復活を信じることは、今までのイエス様ではなく、ご復活のイエス様として信じることであると示されるのです。お弟子さんたちも当初は、十字架にお架りになる前のイエス様しか心にありませんでしたが、ご復活のイエス様を新しい心で信じるように導かれて行くのです。
 伝統的なヨーロッパの教会では、主イエス・キリストが三日目の日曜日の早朝にご復活されたことから、深夜に教会に集まり、ロウソクを手に讃美を歌い、牧師が復活に関する聖書の言葉を30分かけて読むのを聞き、イエス様の甦りを喜びあうと言われています。外は寒く、礼拝堂から出てくると、ほおが切り裂かれるような寒気がありますが、体中が燃えているようで、寒さの中を喜び勇んで帰っていくということでした。これは、先輩の牧師、尾崎憲治先生がドイツにおられる頃のことを書いていることです。私たちも復活の告知をいただき、喜び勇んで、与えられた人生を踏みしめて生きたいのであります。

 本日の聖書はイザヤ書55章でありますが、イザヤ書は53章で「主の僕」を示しています。そこには人々を救うために、神様から遣わされた「僕」が苦難を通して救いの道を導くことが示されています。そして本日の55章は「主の僕」の福音を基として、み言葉の力を示しているのであります。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るが良い。銀を持たない者もくるがよい」と招きの言葉を与えています。これは主イエス・キリストの招きの言葉にもなっています。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11章28節〜)とイエス様が導いています。さらにイザヤは示しています。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」と教えておられます。この言葉も主イエス・キリストの言葉となっています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」(マタイによる福音書7章7節)と人々を招いているのです。
捕われの境遇にある人々に慰めと希望を与えているイザヤであります。しかし、これは単なる言葉ではありません。今や私たちは現実に「主の僕」が現れ、私の現実を担っておられることを示されているのです。「主の僕」がわたしの苦しみを担い、わたしの悲しみを担っておられることを示されているのです。40日間の主のご受難を仰ぎ見つつ歩んだ私たちは、主イエス・キリストが私を担っておられることを示されたのであります。それでも、わたしの苦しみはまだ続きますと言いますか、悲しみは耐えることがないと言うのでしょうか。確かに苦しみと悲しみはまだ現実に続いています。しかし、もはや、私一人で苦しんでいるとは思ってはなりません。誰も私の悲しみを分かってくれないと思ってはならないのです。私の現実を共に歩むために主イエス・キリストはご受難の道を歩まれたのです。そして、そのご受難は死で終わりました。しかし、それは終わりではありません。始まりであったのです。復活され、さらに私たちを導いてくださいます。現実をいろいろな状況で歩む私たちに、「新しい命」を与えてくださいました。それが復活信仰なのです。

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」のであります。週の初めの日とは日曜日であります。ユダヤ教において土曜日は安息日でありました。神様が天地を創造され、土曜日に休まれたから、人間もすべての業を休み、神様の創造の世界を崇めるのであります。従って、日曜日は週の初めにあたります。マグダラのマリアさんがイエス様を埋葬しているお墓に行きますと、石が墓から取りのけられていたのであります。これはヨハネによる福音書は記していませんが、マタイによる福音書によりますと、イエス様はかねてより復活することを人々に示していました。それで、十字架から降ろされ、墓に埋葬されたとき、時の社会の指導者達は墓の入り口に大きな石でふさいだのです。この当時の墓は横穴を掘り、その奥に死体を安置していました。弟子達がイエス様の死体を盗み、イエス様は復活したと言いふらすと思ったからでした。そして、番兵まで立たせたと記しています。マグダラのマリアさんが墓に行くと、石は取りのけられていました。驚いたマリアさんは、急いでお弟子さんのシモン・ペトロさんとイエス様が愛しておられたもう一人のお弟子さんに知らせに行ったのであります。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と告げたのであります。ヨハネによる福音書には「イエス様が愛したもう一人の弟子」という言い方が何回か出てきます。これはヨハネによる福音書を書いているヨハネが、はっきりと自分をヨハネと書かないで、「主の愛した弟子」と記しているのであります。従って、もう一人の弟子とはヨハネさんになります。ペトロとヨハネは走って墓に行きました。もう一人の弟子、ヨハネさんが先に墓に着きました。ヨハネさんのほうがペトロさんよりも若く、走るのも早かったのでしょう。しかし、墓に入ることは後から来たペトロさんに譲りました。二人は墓の中に入って、死んだイエス様の体に巻いた亜麻布が置かれているのを見ることになります。しかし、その時点では、彼らはイエス様の復活については理解が及ばなかったのであります。確かに、このお墓にお納めしたのに、そのイエス様の死体がないということで、不可解な思いで墓を後にしたのでありました。
 その後、ペトロさんとヨハネさんは家に帰りました。しかし、マリアさんは墓の外に立って泣いていたのです。泣きながら墓の中を見ました。するとそこに白い衣を着た二人の天使がいたのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と天使は言いました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いつつ後を振り向くと、そこに復活されたイエス様が立っていたのであります。しかし、マリアさんはイエス様だとは分かりません。イエス様が「マリア」と呼ばれたとき、初めてその方がイエス様であることが分かったのでした。そして、マリアさんは急いで弟子達のところに行き、「わたしは主を見ました」と報告したのでした。
 イエス様のお墓にペトロさんもヨハネさんもマリアさんも行きました。そして、イエス様のあるべき死体がないという事実を知った三人です。しかし、マリアさんが最初に復活されたイエス様にお会いすることができたのです。ここに一つのメッセージがあるのです。ペトロさんもヨハネさんも、マリアさんから知らせを聞いて、二人は競うように墓へと走りました。自分が先にこの事実を確認したいと思っていました。お弟子さん達は12人いましたが、何となく中心になっているのがペトロさんです。そういう中で、ヤコブさんとヨハネさんは兄弟ですが、自分達がイエス様の右左になりたいと申し出たこともありました。いつも競い合っている姿がそのまま墓への競争でもあったようです。その時点では、彼らは不可解との思いで帰ったのです。しかし、マリアさんはイエス様の死体がないという事実を知り、その事実の中に立ち続けていたのであります。ペトロさんもヨハネさんも事実を知りましたが、もはや事実を後にして帰りました。この事実の中に立ち続けるとき、そしてその事実の故に途方にくれているとき、復活の主イエス・キリストは事実を導くために現れたのであります。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟達のところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」と言われたのです。このイエス様の言葉を聞いて、マリアさんはイエス様のお弟子さん達のところへ行き、「わたしは主を見ました」と告げたのであります。
 現実は途方にくれる状況でした。そこに立ち続けたマリアさんは、思いもかけない現実へと導かれたのです。困難な、悲しむべき現実でした。しかし、そこに立ち続けたマリアさんは、「わたしは主を見た」と確信をもって言うことができる現実の喜びへと導かれたのであります。「わたしは主を見た」と言うとき、「新しい命」へと導かれていたのです。

 「わたしは主を見た」と言うのはコリントの信徒への手紙を書いているパウロです。彼はもともと熱心なユダヤ教徒でありました。その熱心さが、主イエス・キリストを信じる人々を迫害することになるのです。迫害するためにダマスコの町へ赴く途上、復活の主イエス・キリストに出会うのであります。そのとき、彼はイエス様の声を聞きました。「なぜ、わたしを迫害するのか」との声を聞いたとき、「主よ、あなたはどなたですか」と聞きます。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と言われたのであります。このことを機にパウロはイエス様を信じる者になりました。この出会いをパウロは「わたしは主を見た」と言わせています。最も大切なこととしてパウロが信じているのは、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」であります。「新しい命」を与えられたパウロでありました。
 昔、神学生の頃、北海道の余市教会に夏期伝道に行きました。夏期伝道というのは神学生の実習であります。一人の高校生が夜になって訪ねてきました。信仰について、何か割り切れない思いをもっていました。イエス様は私たちの罪のために十字架につけられ、死んでしまったということが、割り切れないというのです。死んでしまったイエス様を、どうして信じるのかというわけです。まだ、神学生で何をどのように答えてよいか分からなかったのですが、「その続きがあるではないか」と言いました。それは、パウロが言うように、「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」と述べたのです。すると、彼は今まで重苦しい顔をしていましたが、パッと明るい表情になりました。「そうか」と言いつつ、今までの疑問がすべてなくなったと言いつつ帰っていったのです。主イエス・キリストの復活を、証明する必要はありません。「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」ことをそのまま信じることです。復活されたイエス様は、現実に生きることを導き、現実は途方にくれる状況です。そこに立ち続けたマリアさんは、思いもかけない新しい現実へと導かれたのです。そして、「新しい命」をいただいて歩んだのであります。
 ご復活された主イエス・キリストは、私の現実を共に歩まれ、導いておられます。いよいよ希望をもって歩むことを示されたのであります。「新しい命」をいただいているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の十字架の贖いから、輝かしい復活のイエス様を与えてくださり、感謝いたします。「新しい命」を力強く歩ませてください。主のみ名により、アーメン。