説教「主は我らの救い」

2011年11月20日、六浦谷間の集会
「降誕前第5主日」 収穫感謝日、謝恩日、終末主日

説教、「主は我らの救い」 鈴木伸治牧師
聖書、エレミヤ書23章1〜6節、
   ヨハネの黙示録1章4〜8節
   ヨハネによる福音書18章33〜40節
賛美、(説教前)讃美歌21・569「 今やこの世に」、
   (説教後)386「 人は畑をよく耕し」


 今朝は収穫感謝日であり、謝恩日であり、終末主日を覚えつつの礼拝であります。いつもは11月の第四日曜日なのですが、今年は来週27日が待降節第一主日になりますので、一週間早く収穫感謝や謝恩日を覚えることになりました。
本日は収穫感謝礼拝であります。果物や野菜等を前に置き、神様のお恵みを感謝いたします。日本の秋は収穫のお恵みをつくづくと示されます。しかし、国によっては収穫の秋等はないところもあります。毎日、お恵みをいただいて生活していると、神様のお恵みであることを忘れてしまいがちです。使徒言行録14章16、17節に、「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておられました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵をくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」と示されています。自然の恵みが神様の証しであるということです。自然の恵みは日々の生活の中に満ち満ちているのです。すなわち、今のこの状況、天気の時はもちろんですが、雨が降り、風が吹く時、全てが恵みとなって私たちに与えられるのです。しかし、のどかな日はまさに神様のお恵みとして受止めることができますが、猛暑となり、災害の中で死んでいく人もあるとき、一概に自然のお恵みとも言えないと思います。今年も地震津波、台風等で多くの人が災害に巻き込まれました。自然災害による犠牲者をどのように受止めたらよいのでしょうか。そのようなことがありますが、やはり自然の恵み、日々の育み中に生かされていることは事実です。刻々と時は流れ、過ぎ去っていきますが、恵みの中に生かされていることを受止めたいと思います。そして、恵みを恵みとして生きるとき、終わりのときの喜びへと導かれていくのです。
 本日は収穫感謝礼拝でありますが、もう一つのことを受止めながら礼拝をささげています。本日は謝恩日であります。日本基督教団は11月の第四日曜日を謝恩日としていますが、今年は第三日曜日になっています。謝恩ですから感謝をする日ということです。謝恩は隠退された牧師に対してであり、牧師の遺族を覚えることであるのです。牧師として働いた人達が年齢を増し加えて隠退するのでありますが、その生活は必ずしも保障されていません。この世の年金は多くの場合謝儀が少ないので、年金も少ない額になります。せめてこの世の年金を補う意味で教団の年金が始まりました。教団の年金は企業の年金とは異なり、なるべく公平に支給されています。大きな教会で謝儀の多い人も、小さい教会で少ない謝儀であっても、支給される教団年金はそんなには変らないのです。このように謝恩日の意義を申し述べる私自身が隠退教師の身分になっており、教団の年金を受給するようになっています。全国の教会の皆さんのお支えを心から感謝しているのです。隠退した牧師達は、現役として働いていた時は「主は我らの救い」であることを繰り返し人々に宣べ伝えたのであります。
 本日はまた、教会の暦では終末主日であります。終末と言いますから、世の中が終わるということです。どのように終わるのか。それは分かりません。そんなことはあり得ないと思うのですが、しかし地球の始まりがありました。始まりがあれば終わりがあるということです。これは科学の世界でも考えられています。終末という場合、宗教的に示されています。世の終わりのとき、イエス・キリストが再び現れ、正しく生きた者を祝福すると言われています。それは救いの時でありますが、しかし、私達は世が終わる前に既に「主は我らの救い」であることを信じて歩んでいるのです。今朝は救いをくださった主イエス・キリストの教えをさらに示されます。そして、終わりに向けて喜びつつ歩むのであります。

 終わりの状況は今朝の旧約聖書エレミヤ書23章の示しです。聖書の国ユダは小さい国です。周辺の国々、バビロンやエジプトの大国に囲まれ、その狭間で生き伸びる策を講じなければなりません。迫りくるバビロンに対して、指導者達はエジプトに助けを求めているのです。それに対して預言者エレミヤは、むしろバビロンに降伏することが生き伸びる道であると説得しています。そのようなエレミヤの姿勢に対して、指導者達はエレミヤを迫害するようになります。しかし、エレミヤは、神様が救いをもたらしてくださることを叫び続けるのです。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者達は」と神様が言われているとエレミヤは叫びます。神様は「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」との神様の御心を示しています。指導者達は神様の御心を求めず、まして人々を養うことなく、自分達の生き伸びる策しか考えていないのです。だから、神様が人々を救うと宣言しています。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と救いを宣言しています。人々の救い主を立てると宣言しています。
 聖書は羊と羊飼いの関係を神様と人々の関係として示しています。羊を飼って生活の糧とする地域ですから、そのままたとえとしてもちいられるのです。羊は羊飼いに養われる存在ですが、その羊飼いが羊の面倒を見ない現状に対して、真の牧者を立てると宣言しているのです。「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる」とエレミヤは人々を励まし、希望を与えているのです。時の指導者達は人々のことはどうでもよく、ただ自分達の生き伸びる道しか考えていなかったのです。まことの救い主は、今の状況がどうでもよくないので、救いを与えてくださるのです。だから希望をもって今の状況を生きなさいと励ますのです。「主は我らの救い」と言われる方が現れるのです。
イエス・キリストは「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネによる福音書10章7節以下)と言われています。この宣言こそ、「主は我らの救い」の実現でありました。イエス様は悪い羊飼いについて述べています。悪い羊飼いは、危なくなれば羊等どうでもよくなり、ただ自分達が生き伸びることしか考えないのです。しかし、良い羊飼いは、羊はどうでもよいというのではなく、どうでもよくないから救済するのです。そのために、良い羊飼いは羊のために命を捨てると宣言しているのです。まさに「主は我らの救い」と人々は呼ぶようになるのです。

 ヨハネによる福音書18章は主イエス・キリストが捕らえられ、裁判を受けることが記されています。イエス様を捕らえた時の社会の指導者達は正義と真理を押し付けあっているという状況です。時の社会の指導者達がイエス様を捕らえ、大祭司のところに連れて行き、そして総督ピラトのもとへ連れて行きます。イエス様はピラトの官邸に立たされています。ユダヤ人達は官邸に入らないのです。官邸に入ると身が穢れると思っているのです。イエス様は官邸の中に、ユダヤ人は外に、そしてその間を行き来しているのが総督ピラトなのです。29節「そこで、ピラトが彼らのところへ出てきて」とあり、33節「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り」、38節「ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人の前に出て行った」のであります。ピラトがイエス様とユダヤ人の間を行ったり、来たりしているのです。そういう中で、イエス様が「わたしは真理について証しするために生まれ、そのために世に来た」と言ったことに対して、ピラトは思わず「真理とは何か」と言っています。ピラトは真理について、一度は思いを寄せました。しかし、それはすぐに消え去って「どうでも良くなり」、群集の意向に負けてしまったのです。
 このピラトの姿は、正義を知りながら、悪なるものに気持ちを向けていく姿であるのです。主の御心、正義と真理、そうではない悪なる道と、行ったり来たりしている姿であります。私達は主の御心を示され、正義と真理の道を示されています。それは私達が心から祈る者へと導かれているからであります。どうぞ、主の御心に生き、正義と真理の中に歩ませてください、と祈る私たちであるからです。ピラトは主イエス様の正義と真理、ユダヤ人の偽りの狭間で、結局は偽りを選んでしまいました。ピラトはイエス様を審問して、罪に当たるものは何もないと思いました。しかし、それでもイエス様を十字架につけることになるのは、ピラトにとって「どうでも良いこと」なのでありました。むしろ、イエス様を赦すことになれば、ユダヤ人の間に騒動が起きると思いました。それはピラトにとって最も恐れていることでありました。ローマから遣わされている総督として、騒動が起きることは自分の責任になるからであります。
 この「どうでも良い」と思うことが、正義と真理を排除することであり、最大の悪だということであります。小さな存在、そんなものはどうでも良いと思うとしたら、私はイエス様の正義と真理から遠くなっているのです。「どうでも良い」という生き方に対して、イエス様は繰り返し警告し、戒めているのです。
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 「どうでも良くない」と示したイエス様のたとえ話を示されます。それはルカによる福音書10章25節以下に示される「善いサマリア人」のたとえ話であります。ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われました。半殺しにされて倒れています。そこへ三人の人が順次通りかかります。その人たちが半殺しにされた人に対して、どのようにしたかが内容なのです。最初に通りかかった人も二番目に通りかかった人も社会的に信頼され、人望のある人たちです。この人達は倒れている人を見ると、道の向こう側を通って去って行きました。この人たちは、倒れている人はどうでもよかったのです。自分のことが大切なのです。私達も、自分の時間を大切にするあまり、一人の存在に対して「どうでも良い」と思っているのだろうかと示されるのです。さて、三番目に来た人はサマリア人でありました。倒れているユダヤ人とやって来たサマリア人は日ごろから交際していない間柄でもあります。蔑視されているサマリア人ですが、この倒れている人を見つけると、すぐさま近寄ります。傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱したのでした。イエス様は、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねます。それに対して、当然のことながら「その人を助けた人」と答えるのです。今、目の前に見ていることは「どうでも良い」ことではありません。「行って、あなたも同じようにしなさい」とイエス様は教えておられます。

 今、日本には国賓としてブータンの国王夫妻が来日しています。ブータンはインドと中国の間にある国で、人口70万人と言うことです。小さな国ですが、国民がみな幸せになることを実践している国民であることが紹介されていました。国民の幸福度というバロメーターが憲法で決められているということです。幸福度とは家庭生活、社会生活、個人生活等の総合的な判断をそれぞれ公にします。それらをまとめて国全体の幸福度をまとめると言われています。70万人程度だから出来ると言うのかもしれませんが、1億人であっても、このような取組みは大切です。日本も大変な状況ですが、アメリカをはじめヨーロッパの国々は失業者が多く、不満が高まっているのです。幸福度の調査どころではないということです。ここはブータンの取組みを世界の国々は学ぶべきでありましょう。新聞のコラム欄で紹介されていたことです。歴史学者の今枝由郎さんがブータンを旅した時、迷い込んだ狭い道で車が立ち往生してしまいます。向きを変えようにも段差があって身動きが取れません。ところが、助けを求めたのではないのに、通行人の男性がそばの石を拾い、黙って段差を埋め始めたのでした。通り合わせた人が一人、また一人、作業に加わって行ったということです。誰も言葉を発しない。数分にして段差は消えたというのです。すべて黙々と始まり、黙々と終わったということです。立ち往生している車など、どうでもいいというのではなく、どうでもよくないから黙々と手を差し出したのでした。
 どうでもよくないから、日本では東北関東大震災の復興のために、多くの人が手を差し伸べています。どうでもよいなどと誰も考えていません。今後とも多くの人々がどうにかしなければと手を差し伸べるのです。
 私達は「主は我らの救い」として、主イエス・キリストの十字架の救いをいただいています。神様はイエス・キリストの十字架の死と共に、私たちの「どうでも良い」という生き方を滅ぼされました。十字架を仰ぎ見ることにより正義と真理が導かれ、私たちを祝福の人生に導かれるのです。大きな災害には心を向けますが、日常生活の中で、隣人と共に生きるとき、どうでもよくないので、隣人に近づくことが私達の信仰の歩みなのです。私達が救われているから、その救いを多くの人々に与えてあげなければならないのです。
終末主日です。いつ再臨の主とお目にかかっても、永遠の生命に導かれる歩みをいたしましょう。
<祈祷>
聖なる御神様。主は我らの救いです。その救いを多くの人々に宣べ伝え、この世に生きる責任を果たさせてください。イエス様の御名によりおささげします。アーメン。