説教「私を忘れない存在」

2011年7月10日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第5主日」、

説教、「私を忘れない存在」 鈴木伸治牧師
聖書、エゼキエル書34章1〜6節
   使徒言行録8章26〜38節
ルカによる福音書15章1〜10節
賛美・(説教前)讃美歌21・459「飼い主わが主よ」、(説教後)514「美しい天と地の造り主」


 私は昨年の3月末に大塚平安教会を退任しました。その後、4月から9月までは横浜本牧教会の代務牧師を務めました。そして、10月からはどこの教会にも属さない無任所教師となりました。教会や幼稚園の職務が無くなりましたので、毎日、のんびりと過ごしています。4月4日から5月18日までは、娘の羊子がスペインのバルセロナでピアノの演奏活動をしていますので、一ヶ月半、45日間行ってまいりました。そして、その後は六浦のこの家でのんびり過ごしている訳です。いつも心に示されていることですが、近所の昔の人々は、今はどのように過ごしているかということです。もともと鈴木家は横須賀市浦郷町に住んでいましたが、日本軍の飛行場の近くであり、その辺の住民は強制転居になりました。それで今の場所に転居してきたのですが、近所の人も同じように転居してきたのです。ですから転居前の昔ながらの呼び方が今でも心に示されているのです。私の家の前の家は、昔は「豆腐屋」さんでしたから、豆腐屋さんの○○さんと称していました。その横の家は「稲荷前」にあったので、稲荷前のおばさんと称していました。また、裏の家は「新家」、ニヤのおじさんと称していました。私が4歳のときに転居し、その後、神学校に入る23歳までこの家に住んでいたのです。その頃の皆さんを時々心に示されていました。
 その稲荷前のおばさんは、既に亡くなっていますし、息子さんも7年前に亡くなっています。その息子さんの奥さんとは、連れ合いのスミさんも親しくしているのですが、その奥さんが犬の散歩に出で来たので、亡くなったお連れ合いの妹さんはどのように過ごされているかと聞いてみました。今から10年前に亡くなったということでした。私より3、4歳下ですから、60歳前にお亡くなりになったようです。このお話が聞こえたのか、豆腐屋さんの娘さんが、庭の整理をしているスミさんに写真をもって来られました。昔懐かしい写真でした。私が20歳頃の写真です。従姉がアメリカ人と結婚して、新しいものを所持するようになり、その頃は珍しい8ミリ映写機を写してくれたのです。それでご近所の皆さんを我が家にお招きして、8ミリ映写を鑑賞している写真ですが、本当に懐かしい写真でした。早速スキャンして何枚かコピーしておきました。そこに写っている大人の皆さんは、ほとんど亡くなっています。子供たちが成長して、それぞれの家を担っているのです。近所の昔からの家の皆さんを心に示されましたが、一度出会った人は、やはり、その後も心に示されるのです。
 教会には日曜日になると、皆さんが集まり、共に礼拝をささげ、お交わりを深めています。新しい方も出席し、それらの方も洗礼を受けて教会員になることもあるのです。こうしてお交わりを重ねながらの歩みですが、いつの間にか教会から離れていく人もいます。3年以上礼拝に出席せず、献金もささげられてない場合は、別帳の原簿に写します。決して消してしまうのではなく、今は出席してないので、ひとまず別の原簿に写すということです。そのような別帳会員を、時々原簿を開いては心に示されるのでした。そして、それらの人々を覚えてお祈りしているのです。教会は、今は離れている人々を祈り、その存在を励ましているのです。

 「わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ書49章15節)と神様は言われます。神様を忘れてしまうのは人間であり、神様は私達の存在を決して忘れないのです。それなのに、「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」と人間は言うのです。苦しいことが続き、いつまでたっても思うように行かないとき、神様は私を忘れたのだと思うのです。そうではありません。神様は私を決して忘れないのです。苦しい時、助けてくれないと思ってしまいますが、それでも助けられて生きていることを忘れてはならないのです。
 今朝の旧約聖書エゼキエル書を通して、神様の導き、決して忘れないでお導きくださる神様を示しています。エゼキエル書は聖書の国、南ユダがバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕らえ移されましたが、捕われの人々に神様の御心を示しています。捕囚と称していますが、奴隷として生きるようになったということです。エゼキエルもバビロンに捕らえ移された一人でありますが、そこで神様の召命、使命をいただくのです。捕囚として苦しく、悲しく過ごしている人々を慰め、希望を与えるのです。この捕囚はいつまでも続くものではなく、必ず神様の導きがあり、再び都エルサレムに帰ることを人々に示すのです。
 今朝の聖書は、そもそも捕囚としてバビロンに連れて来られた理由を示しています。このエゼキエル書34章は「イスラエルの牧者」と標題に示されますように、神様が羊、すなわち捕われの人々の牧者となり、緑の牧場に導くことを示しています。その前に人間の牧者、すなわち指導者達ですが、指導者達の至らぬ姿がこの現実に導いたことを示しています。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに預言し、牧者である彼らに語りなさい」とエゼキエルは人間の牧者への神様の御言葉を示されます。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない」と厳しく述べます。指導者達は人々を導き、守り、安全に生きるようにすることです。それらをすることなく、自分達の良き歩みしか考えていなかったのです。当時、大国の狭間にあり、右の大国に頼るのか、左の大国に頼るのか、真に神様の御心を求めることはしなかったのでした。その結果がバビロンに滅ぼされるということでした。指導者達の振る舞いが、結局は人々を地の全面に散らされる結果になったということです。「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたもの包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」と指摘しています。これが牧者なのか、指導者なのかと問うているのです。
 エゼキエル書34章は、まず人間の牧者の悪い姿を指摘します。その上で、まことの牧者を示しているのです。まことの牧者については今朝の聖書として読まれませんが、34章11節以下に示されるのであります。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、それを探すように、わたしは自分の羊を探す」と御心を示しています。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」とまことの牧者は述べるのであります。神様の人間に対する姿勢です。「わたしがあなたを忘れることは決してない」と神様は言われています。

 まことの牧者が旧約聖書のメッセージであるなら、主イエス・キリストは、そのまことの牧者の実現でありました。今朝の新約聖書ルカによる福音書15章1節から10節ですが、ここには「見失った羊」、「無くした銀貨」のたとえを示し、尋ね求める牧者を示しているのです。そもそもイエス様がこのたとえをお話するのは、ファリサイ派や律法学者たちがイエス様を批判したからであります。彼らは時の社会の指導者でありました。この人たちもイエス様のお話を聞こうとしてきたのです。そこには徴税人や罪人といわれる人たちもお話を聞きに来ていました。指導者達は「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言うのです。徴税人は支配するローマのために税金を徴収する人です。しかし、人々はローマのために税金を収めたくないので、徴税人を悪者呼ばわりしていたのです。また、罪人と言われますが、当時の社会は因果応報的に物事を捕らえていましたから、病気であるということは、本人または家族や先祖が悪いことをしたから病気になったと思っているのです。体の障害等も同じです。従って、それらの人たちは社会的にも阻害され、片隅へと追いやられている人達なのです。イエス様はそれらの人たち、どのような人たちとも交わりを深めていました。指導者達がそのイエス様を批判しているので、たとえを通して神様の御心をお示しになりました。
 一つのたとえは「見失った羊」であります。百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った羊を探しまわるお話です。そして、ついに発見した時、その羊飼いはその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて喜び会うというお話です。迷い出た羊を尋ね求めるのは、まさに主イエス・キリストなのです。だから徴税人や罪人と言われる人たちと交わりを深めているのです。社会の片隅に追いやられた人達なのです。「無くした銀貨」のたとえも同じ意味です。銀貨10枚を持っている女性が、家の中で1枚を見失ってしまいます。それで家の中を探し回り、ようやく見つけたとき、友達や近所の人たちを呼び、一緒に喜びあったというお話です。いかにも大げさなお話です。家の中で無くしたのであるから、今は見つけられなくても、いずれは出てくるものです。見つけたからと言って、何も大騒ぎして皆と喜び会うことはないと思います。しかし、ここで結びの言葉は、見失ったものが見つかった場合、「喜びが天にある」と言い、「神の天使たちの間に喜びがある」ということなのです。失われた存在が復帰するなら、天において喜びがあるということです。神様の喜びなのです。
 主イエス・キリストは、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネによる福音書10章)と示されています。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。わたしは羊のために命を捨てる」とまで言われているのです。神様の御心から離れる私達を、自己満足と他者排除に生きる私達を、それは失われた存在になっているのですが、尋ね求め、再び神様の御心へと戻してくださるのです。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との神様の御心に導いてくださるのです。私達はなかなかその御心には生きられません。そのため、主イエス・キリストは十字架にお架りになられ、私達の罪なる姿を滅ぼしてくださったのであります。

 私達は失われた存在であります。私達は迷子の羊であり、どこかに転がって行ってしまった銀貨なのです。自分の思いのままに過ごしたい、好きなところに転がって行きたいとの思いがあります。好きなことができるでしょう。この時、見失った存在として、再び百匹に戻され、10枚の銀貨に戻された時、何か堅苦しいものがあるのでしょうか。もし、それが堅苦しいと言うなら、それは「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との神様の御心であります。これは人間の基本的な生き方なのです。他者の存在を受け止めつつ生きることが人間の基本的な姿なのです。
 常にイエス様が私の羊飼いとなって導いてくださっています。だから、いつも平安のうちに歩んでいるかと言えば、私達の日々の歩みはいろいろな出来事の中にあります。こんなにイエス様を信じ、御心に従って生きているのに、この困難な状況はいったい何かと思います。イエス様は私の牧者ですから、この困難な状況をどうして共に導いて下さらないのかと思ってしまうのです。
 しばしば説教の中で引用しますが、「あしあと」の詩を示されておきましょう。
「ある晩、男が夢をみていた。夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。 ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。『神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか。』神は答えられた。 『わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ。』」
 苦しい時、悲しい時、だからこそ神様が共にいてくださるのです。私達は、そのことを忘れてしまうのです。主イエス・キリストが常に私の羊飼いとして導いてくださっているのです。詩編23編により励まされましょう。
 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
<祈祷>
聖なる御神様。私の存在を忘れることなく、導いてくださり感謝致します。いよいよ御心に歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。