説教「キリストを信任する教会」

2011年7月3日、横須賀上町教会 
聖霊降臨節第4主日」、

説教、「キリストを信任する教会」 鈴木伸治牧師
聖書、申命記8章11〜20節
   使徒言行録4章5〜12節
   ルカによる福音書8章40〜56節
賛美・(説教前)讃美歌21・356「インマヌエルの主イエスこそ」、   (説教後)475「あめなるよろこび」


 今朝は7月3日ですが、明日の7月4日はアメリカの独立記念日です。アメリカは1776年7月4日に独立を公にして、新たなる歩みを始めました。もともとアメリカ大陸には、新しい国、新しい生き方を求めてヨーロッパから多くの人々が移住したのでした。そこで開拓した土地は本国の植民地となりました。イギリスやフランス、スペイン等の国々の植民地であったわけです。植民地ですから、自分達が自由に生きることが困難でもありました。それにより植民地としての新しい生き方を求めて、本国と戦いをすることになるのです。そして、アメリカのそれぞれの植民地は独立宣言をすることになるのです。独立記念日は、いわば建国記念日でもあります。新しい国の成立を喜びつつ歩むことになるのです。
 日本の場合、2月11日が建国記念日とされています。紀元前660年に神武天皇天皇に即位した日とされていますが、神武天皇は神話の人であり、歴史的には根拠がありません。その意味でも、日本の建国記念日に反対する人々がいるのです。キリスト教としても、根拠のない建国記念日を反対しており、この日は「信教の自由を守る日」としています。日本人として誇りを持って建国記念日をお祝いすることにはなりません。自分達が今生きている基、その基を喜び、誇りを持って、この日こそ出発点であると言えることです。
 6月の第一主日の講壇で、スペインから帰ったばかりでもあり、触れさせていただきました。スペインの歴史をお話するのではありませんが、スペインはイスラム教に800年間も支配されていた時代がありました。それに対してキリスト教の人々が長い歴史を通じて戦いを挑み、レコンキスタ(再征服運動)と称していますが、ついにイスラム勢力をスペインから追い出し、キリスト教国にしたのでした。そのような歴史がありますので、スペインの人々はカトリック教会のキリスト教国として、歴史を振り返りながら歩んでいるのです。スペインは建国記念日という特別な日を定めていませんが、キリスト教を基として歩んでいるのであります。どこの国も変わりませんが、スペインでも若い人たちが教会には出席しない傾向です。比較的年配の皆さんがカトリック教会のミサに出席しているのです。人々が教会に出席し、ミサに与るということは、自分の生きる基を教会においているからです。もっと具体的に言うなら、主イエス・キリストの救いを喜び、その救いを基として歩んでいますので、常に出発点であるイエス様の十字架の前に進むのです。カトリック教会は、内部にはイエス様の像、マリアさんの像、また聖画が掲げられています。それらの形を示されながら、自分の生きる原点へと導かれているのです。
 今朝は、私達も生きる原点、主イエス・キリストの十字架の救いへと導かれているのであります。

 旧約聖書申命記が今朝の示しとなります。申命記は「命」を「申」し渡す意味になりますが、本来の題は「言葉」であります。それは申命記1章1節に、「モーセイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」と記されているので、申命記全体が「言葉」、それも神様の御言葉として示されているのです。奴隷の国エジプトからイスラエルの人々を解放し、神様の約束の土地、乳と蜜の流れる国カナンを前にして、モーセは今日に至る神様の導きを示し、導きの原点に立ち返って、新しい土地での歩みを導いているのです。
 申命記8章11節以下が今朝の示しとなっています。「主を忘れることに対する警告」として人々にモーセが語っているのです。「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」と諭しています。「今日命じる戒めと法と掟」としていますが、戒めと法と掟は、今日初めて示されるのではなく、エジプトを出てシナイ山に宿営したとき、モーセが神様から十戒を与えられ、その時から「戒めと法と掟」が与えられているのです。十戒は人間の基本的な生き方を示しているのですが、基本の生き方ができない人々にとって、戒めとなり、法となり、掟となっているのです。その十戒の示しを守らず、神様のお導きを忘れることのないようにしなさいとモーセは諭しています。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」と諭しています。人間は豊かになり、食べ物や生活の必要な物が困ることなく与えられることによって、神様の恵みを忘れてしまうのです。
 イエス様は、「心の貧しい人は幸いである」と教えておられます。物が豊かになると、心も豊かになります。自分にある豊かさは神様の恵みであることを忘れてしまうのです。その意味で、例えば物が豊かであっても、心を貧しくして神様の恵みをいただくことが大切なことであると示しています。何よりもあなたがたの原点に立ち返りなさいということです。「主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだし、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」と示しています。苦しいことがあったとしても、あなたが幸福になるための訓練であったとしているのです。それに対して人々はどうであったか。飲む水がないと言ってはモーセに詰め寄りました。食べるものがないと言ってはモーセに抗議していました。人々はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てます。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れだし、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と抗議したのです。しかし、今振り返って、誰が飢え死にしたのか、誰が水がなくて渇き死んだのか。誰もが神様の恵みをいただき、約束の土地の前にいるのである。「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならないのです。「富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」とモーセは人々に示しています。だからこの原点、奴隷の我々を神様が救い出されたこと、恵みを与えて導いてくださっていること、常にこの原点に立って歩むことを示しているのです。救いの原点に立つことであります。この原点に立つならば、新しいカナンの歩みが祝福されるのです。決して、「主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すことがないようにしなさい」とモーセは示しているのです。

 私達の原点は主イエス・キリストの十字架の救いであります。この原点が与えられているので、日々の歩みが導かれているのです。今朝の新約聖書ルカによる福音書8章におきましては、十字架の救いはまだ記されていません。十字架の救いを完成する前に、人々の中におられるイエス様は、人々に関わり、求めるものにはお応えになられているイエス様なのです。8章40節以下56節までが今朝の聖書として示されていますが、二つの出会いの出来事が示されています。一つは、会堂長ヤイロの娘の癒しであり、もう一つは、12年間病気の女性の癒しであります。この二つの出来事は、主イエス・キリストが人々に深く関わっていることを示されるのであります。後にこのイエス様の姿勢が私達の原点となっていくのです。
 8章40節に、「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである」と記されています。どこから帰って来たのか、それは前の段落に示されています。イエス様はガリラヤで神様の御心を示していましたが、ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の土地に行ったのであります。そこでは悪霊につかれた人に出会います。悪霊はイエス様に、この人から出て行くが豚の中に入らせてくれと頼みます。イエス様はそれを認めます。すると悪霊が豚の群れに入り、豚は驚いて湖の中になだれ込んで死んでしまうのです。一人の人間が救われた物語です。すると豚を飼う人たちは、イエス様にこの地方から出て行ってもらいたいというのでした。これ以上、豚が犠牲になることを恐れたからです。イエス様は一人の人が救われるために、文化繁栄を犠牲にしたことを示しているのです。
 そのようなことが湖の向こうで行われて、イエス様は再びガリラヤに帰って来たのです。ガリラヤの人たちは、湖の向こう岸の人たちとは異なり、イエス様を歓迎して迎えています。それに対してイエス様も一人一人に深く関わろうとしているのです。そこへヤイロという会堂長がやってきました。ユダヤの国はユダヤ教の会堂がそれぞれの土地に建てられています。その会堂の責任者ということでしょう。このヤイロの娘が病気であり、しかも死にかけているというので、ヤイロはイエス様に娘のところに来ていただきたいとお願いしました。お願いすると、イエス様はすぐにヤイロの家に向かうのです。ところが向かう途上、一つの出来事が起きました。イエス様が立ちどまり、あたりを見回しているのです。ヤイロとしては、こんなところで立ちどまらないで、早く自分の家の娘のところに来てもらいたと思っています。
 イエス様は立ち止まって周囲を見回しているのです。実は一人の女性がイエス様の服の房に触れたのです。この女性は12年間病気であり、今までいろいろな医者に診てもらいましたが、治してもらえず、全財産を使いはたしていたのであります。この女性はイエス様の服に触らせていただければ治ると信じていたのです。女性がイエス様の服に触れると、イエス様から力が出て行ったということです。それでイエス様は、御自分に触れたのは誰かと立ちどまって周囲を見まわしておられたのです。女性はふるえながらイエス様の前に進み出ました。ふれた理由と癒されたことを皆の前でお話されました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と祝福したのであります。ここではイエス様に原点を求めた女性が祝福されたことが記されています。
 そのようなことがあって、少し遅くなりました。そしたらヤイロの家から使いが来ました。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と使いの者は言うのです。それに対してイエス様は、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とヤイロに言われ、ヤイロの家に行ったのであります。そして、死んだとされている娘に向かって、「娘よ、起きなさい」と呼びかけました。すると娘は起き上がったのでありました。ルカによる福音書8章に記される二つの出来事は、イエス様に原点を置くことの予告として示しているのです。12年間病気の女性は、せめてイエス様のみ衣に触らせていただければとイエス様に近づいたのであります。それに対して、ヤイロの娘の場合、「お嬢さんは死にました。この上、先生を煩わすことはありません」と言われているのに、イエス様が進んで娘のところに行き、癒しを与えたのです。イエス様が深く関わってくださることを示しているのです。このことはイエス様の十字架の救いを示しているのです。十字架に向かって手を差し伸べることによって救いが与えられるということです。そして、十字架はイエス様が私たちに深く関わるために、イエス様が十字架により手を差し伸べてくださっていることを示しているのです。十字架が私達の原点であることを示しているのであります。

 「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」とペトロは大胆に語りました。ペトロとヨハネが祈るために神殿に上った時、「美しい門」のそばで、生まれながら歩けない人が物乞いをしていました。ペトロはこの人をじっと見つめ、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言い、彼を立ち上がらせたのでありました。ペトロは神殿にいる人々に、主イエス・キリストの十字架の救いを大胆にお話致しました。するとユダヤ教の指導者達がペトロとヨハネを捕らえ、牢に入れてしまうのです。翌日、指導者達は生まれながら歩けない人をいやした原因と誰の名に寄るのかと尋問します。その時、ペトロは「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほかにはいない」というのです。すなわち、十字架によって私達を救われる主イエス・キリストこそ、私達の生きる原点であると証ししたのであります。
 キリスト教の教会は主イエス・キリストの名が置かれています。プロテスタントの教会は、教会の内部、礼拝堂にはキリストの像も聖画も飾られていません。その点、カトリック教会はたくさんの飾り物を通してイエス様の救いを示しているのです。プロテスタントの教会の礼拝堂には、何も飾られ、置かれてはいません。見える形ではおかれていませんが、この教会の中には主イエス・キリストの名が置かれているのです。イエス様の名とは、十字架による私達の救いです。この私のために十字架にお架りになり、私の中にある自己満足、他者排除を滅ぼしてくださったのです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほかにはいない」と私達も信じているのです。これは私達の生きる原点であります。
<祈祷>
聖なる御神様。救いの原点、イエス様の名を教会においてくださり感謝します。救いはイエス様のお名前以外に、この世にはないことを証しできますよう導いてください。主イエスキリストの御名によりおささげいたします。アーメン。