説教「すべての人々への福音」

2011年7月17日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第6主日」、

説教、「すべての人々への福音」 鈴木伸治牧師
聖書、ルツ記1章18〜22節
   使徒言行録11章1〜18節
ルカによる福音書17章11〜19節
賛美・(説教前)讃美歌21・171「かみさまのあいは」、(説教後)475「あめなるよろこび」


 キリスト教という宗教を信じる私達ですが、宗教はさまざまにあり、それぞれがその教えを広めているのです。宗教とは、神または何らかのすぐれて尊く神聖なものに関する信仰であり、その教えやそれに基づく行い、と国語辞書は定義しています。その信仰は、この世を生きるものですが、死後の世界にも及んでいますので、この世の平安を与えるのです。ですから宗教を信じる人々は、その信仰に喜びつつ生きることなのですが、ともすると他の宗教を否定してしまうのです。古今東西、宗教の争いは絶えることなく、あってはならないことなのです。キリスト教ユダヤ教イスラム教、仏教等、どうして争うのかと思わせられます。キリスト教の中でも争いが絶えなかったのです。1054年7月16日、ローマ教皇使節団がコンスタンチノーブル総大司教ケルラリオスとその支持者に教会破門状をつきつけました。コンスタンチノーブルも「教会破門状」を発布します。カトリック教会は、ローマ・カトリック東方正教会に分裂したのです。互いに「異端」と呼び捨てていた関係は、1965年12月7日に「相互破門を破棄する」との共同宣言を発表して終止符を打ったのでした。
 私たちの普段の生活において、多くの場合、宗教の生活をしなくても、普通に生活していれば、宗教は無縁になります。しかし、悲しみがあり、苦しみが続くと、自ずと偉大な存在に心を向け、現状打開を願うのは人間の常というものです。病気になれば、不安が募りますし、宗教による平安を求めるようになるのです。昨年の3月まで八王子医療刑務所教誨師を担いました。教誨師は刑務所に服役している人々に、宗教を持って更生の道を示すのです。八王子医療刑務所には10人の教誨師がいました。キリスト教の牧師、カトリックの神父、神道宮司、その他は仏教の僧侶でした。刑務所で服役している人は、自分の受けたい教誨に臨みます。キリスト教でもプロテスタント教誨を受けたいと申し出るのです。私は月に一度、刑務所に赴いて教誨を行っていました。多いときは10人くらい出席します。少ないときは1人という時もありました。だいたい5、6回の教誨を受けるといなくなるのです。出所する人もあり、他の刑務所に移されることもあるからです。なかにはいろいろな教誨に出席する人もいます。プロテスタント教誨に出席しながら、今度はカトリック教誨に出席したりするのでした。なぜ、それが分かるかと言いますと、教誨をした後は日誌を書きます。その日誌には係官が、誰が出席したか、名前を記入するからです。日誌は各教誨共通ですから、カトリックの神父さんがどんなお話をしているのか分かるのです。神父さんも牧師が何をお話したのか分かるのです。いろいろな教誨を聞いて参考にするのは良いことですが、単にお話を聞くのではなく、その宗教に心を向けることが大切なことであり、だから私も信仰を持つことを教誨の中で示していたのでした。
 教誨の最初の30分は聖書のお話、信仰入門についてお話します。その後の30分間は質問を受けてお話していました。その中で、出所したらどこの教会に行ったら良いかと尋ねられます。どこの教会も開かれているので、日曜日には教会の玄関は開放されているので自由に入ることができますよ、とお話していました。しかし、いろいろな教会があるので、できれば日本基督教団の教会に行きなさいと勧めていました。どこの教会もあなたを歓迎して迎えてくれますよ、とお話していました。出所した人たちが教会に行ってくれたか分かりませんが、主イエス・キリストの十字架の救いを示され、信仰に生きることを願っているのです。

 どの宗教も広く人々に開かれております。聖書の世界は、特に旧約聖書を読むと、聖書の人々、イスラエルの人々が選民として示されています。神様はイスラエルの人々しかお恵みを与えないのかと思われますが、それは初期のことであり、はじめは小さな民族を通して神様の導きを示し、やがて世界の人々に示されて行くのです。その意味では民族的イスラエル人に対して、世界の人々が主イエス・キリストを信じて生きる姿を、新しいイスラエルと言い、神様の御心に従う人々を指しています。
 新約聖書マタイによる福音書の最初のところに、主イエス・キリストに至る人間的系図が記されています。イエス様は人間的な系図の中の存在ではありませんが、マタイは聖書の人々との関連として系図を現しているのです。この系図を見ると、4人の女性の名が記されます。タマル、ラハブ、ルツ、マリアは女性です。その中でラハブとルツは聖書の民族ではなく、外国人であります。外国人もイエス様の系図の中に記されるということは、聖書も神様の御心は世界の人々に与えられていることを示しているのです。ラハブはエリコに住む遊女でした。モーセの後の指導者、ヨシュアに率いられて、聖書の人々は神様の約束の地、乳と蜜の流れる土地カナンに向かっていますが、エリコの町を通過しなければならないのです。ヨシュアは二人の斥候を遣わし、エリコの町を調べるのです。二人はラハブの家に入り隠れるのです。ラハブは二人の斥候に対して、神様があなたがたを導いていることを信じていると告げます。エリコの町の兵がラハブの家にイスラエル人が入ったはずだと調べにやってきます。ラハブは、確かに来たけれどもすでに帰って行ったと嘘を言います。実は二人の斥候を屋上にかくまっていたのです。そして、兵が行ってしまうと、ラハブは二人の斥候を窓から逃がすのでした。これらによってヨシュアはエリコを攻め、通過して行くのです。ラハブと家族は二人の斥候をかくまったので救われたのでした。そのラハブがイエス様の系図の一人にもなったということです。
 もう一人の女性は今朝の聖書の人です。旧約聖書ルツ記は士師記とサムエル記の間におかれています。すなわち歴史書になります。聖書の世界では、士師記の時代はまだ王国ではなく、一時的な士師といわれる人たちが人々を救っていました。そしてサムエル記になると王様が存在するようになるのです。ルツ記の時代はまだ王国になっていない時代でした。士師記の時代に飢饉が起き、ベツレヘムに住んでいたエリメレクと妻ナオミ、そして二人の息子は外国のモアブの土地に住むようになります。やがてエリメレクはモアブの地で死んでしまいます。二人の息子はモアブの女性たちと結婚しますが、二人の息子たちも死んでしまうのです。その後、飢饉が無くなり、故郷のベツレヘムも食べ物が与えられるようになったことを知ったナオミは故郷へ帰ることにしました。帰るにあたり、息子たちは死んでしまったので、それぞれのお嫁さん達に、自分の家に帰るように言います。一人のお嫁さんは帰って行きましたが、ルツというお嫁さんは帰ろうとせず、ナオミと共にナオミの故郷へ行くというのです。どうしても自分の家に帰らないルツと共にナオミはベツレヘムに帰って来たのでした。
 そこで今朝の聖書になりますが、故郷の人たちはナオミを見て声をかけます。故郷の人たちは久しぶりに見るナオミに「ナオミさんではありませんか」と声をかけたのです。するとナオミは、「どうかナオミと呼ばないでください。マラと呼んでください」というのでした。ナオミとは「快い」という意味なのです。名前はナオミでも、今はマラであると言います。マラとは「苦い」という意味なのです。夫にも二人の息子にも先立たれ、傷心の思いで帰ってきたからです。今、ナオミは悲しみを言いあらわしていますが、どこまでも一緒についてまいりますと言ったお嫁さんのルツによって、ナオミは真の「ナオミ」に導かれて行くのです。今日の聖書はナオミの悲しみしか記していませんが、この後、ルツは町の有力者と再婚し、子供が与えられるようになりますが、イエス様の系図に加えられて行くのです。聖書は外国人も救いの完成の一部に加えられていることを示しているのです。救いは聖書の人々に限らず、世界の人々に開かれていることを示しているのです。

 新約聖書ルカによる福音書は、聖書の人々であるユダヤ人がまず神様の御心を知るべきなのに、むしろ知ろうとしない聖書の人々を示し、外国人こそ真に神様の御心を示され、恵みに与っていることを示しています。
 イエス様はお弟子さんたちと共に都エルサレムに上る途中でした。サマリアガリラヤの間を通られたのです。サマリアは聖書の人々ユダヤ人にとっては外国になります。ある村に入ると、らい病を患っている10人の人が、遠く離れたところから、イエス様に叫んでいます。らい病を患っていますので、人に近づいてはいけないのです。「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」とお願いしています。らい病を患っている人々は、どうして「わたしたちを癒してください」とお願いしなかったのでしょう。「わたしたちを憐れんでください」とお願いしています。癒しは病気や部分的な痛みが治ることです。しかし、「憐れみ」といった場合、その人全体を受け止めてくださいということなのです。このルカによる福音書1章49-50節、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」と記されていますが、これはマリアさんの賛歌であります。マリアさんから救い主がお生まれになることを天使から告げられたマリアさんが、感謝と讃美の歌を歌っているのです。ここに「憐れみ」という言葉が出てきますが、神様が人間をお救いになるために、マリアさんから救い主を生まれせしめる、これは神様の人間に対する憐れみなのです。さらにルカによる福音書10章25節以下に「善いサマリア人」のたとえ話が示されます。追いはぎにあった人をサマリア人が助けるのですが、ここでは単に傷の手当てをしたというのではなく、襲われた人を全面的に受け止めて介抱しています。それが神様の憐れみなのです。
 「わたしたちを憐れんでください」と10人のらい病を患っている人達はお願いしているのです。神様の御心の中に入れてくださいと求めているのです。それに対してイエス様は、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。聖書には病気であったり、怪我をしたりした場合、祭司の証明が必要です。らい病に関する規定はレビ記に細かく記されています。祭司は規定に従ってらい病を見るのです。規定通りに治っていれば、祭司の証明によって、社会に対して治ったことを宣言できるのです。10人はイエス様の言われた通りに祭司のもとに向かいました。イエス様の言葉を信じたので、行く途上で癒されたのでした。そのまま祭司のもとに行き証明されればよいのです、ところが一人の人は、自分が癒されたことを知り、すぐさま戻ってきました。そして、イエス様の足元にひれ伏して感謝したのでした。この戻ってきた人はサマリア人でありました。つまり外国人です。聖書の人々ユダヤ人こそ神様の憐れみを感謝しなければなりません。祭司に証明されて社会の中で再び生活できるようになりましたが、そこには神様の憐れみがあったからです。実際、神様の憐れみを求めたのに、憐れみが与えられると、その神様の憐れみを忘れてしまうのです。
 この聖書は、救い主が現れているのに、知ろうとしない人々を示しているのです。むしろ外国人が神様の救いをいち早く知るようになっていることを示しています。神様の主イエス・キリストによる十字架の救いは、すべての人々に与えられています。今朝の聖書、使徒言行録におきましても、外国人がイエス様の救いに与っていることが証されています。

 聖書の人々に対して、私達も外国人です。しかし神様の憐れみが私達に与えられ、今は主イエス・キリストの十字架の救いを信じる者へと導かれています。
 昨年の10月で8年間担った総会書記を退任しました。書記は三役の一人として、5月の教区総会には手分けして問安します。教区総会では教団議長の挨拶文を朗読し、その後に質疑が行われます。痛烈な批判を受けることもありますが、改めて教団の取り組みを聞かれるということです。もはや聖餐式問題の質疑はありませんでした。聖餐式問題というのは、聖餐式は洗礼を受けた者が与ることは教憲教規に記されています。教憲教規は教団の憲法のようなものです。未受洗者への聖餐授与は禁止されているのです。しかし、教会、牧師の中には未受洗者配餐をしているのです。それで、教団議長は数年前から、未受洗配餐は違法なので辞めるように訴えていました。奥羽教区の総会で、一人の議員が質問しました。自分の教会には障害者がいて、その人達を覚えると、未受洗者配餐はしなければならないと思っていると言われました。その時、私は問安使の立場ではなく、大塚平安教会の牧師として申し上げたのです。障害者を大塚平安教会は全面受け止めていますから、本人が信仰告白ができないならば、教会員が本人と共に信仰告白をしました。そして、教会員として受け入れました。それにより、その障害者も一人の教会員として聖餐に与り、皆さんと共に教会生活を喜んでいますとお話しいたしました。理解されたと思います。おそらくその教会でも、教会員が全員で信仰告白をして一人の人を受け入れたと思います。
 すべての人の救いは、すべての人が主イエス・キリストの十字架の贖いを自分のためだと信じて、洗礼を受けることであります。そこで初めて救いが与えられるのであります。そこで、はじめて真の喜びが与えられるのであります。すべての人が救われなければならないのです。神様の憐れみはすべての人々に与えられているということです。
<祈祷>
聖なる神様。すべての人を憐れみ、まず私たちをお救いくださり感謝致します。神様の憐れみをすべての人々に証しできますよう導いてください。主の名により、アーメン。