説教「共なる歩みが導かれ」

2023年8月6日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第11主日

                      

説教・「共なる歩みが導かれ」、鈴木伸治牧師

聖書・ 出エジプト記22章20-26節

   ローマの信徒への手紙12章9-21節

   ルカによる福音書10章25-42節

賛美・(説教前) 讃美歌21・474「わが身の望みは」

   (説教後) 讃美歌21・481「救いの主イエスの」

 日本基督教団は8月の第一日曜日を平和聖日としています。今朝の礼拝は「平和を来らせたまえ」と祈りつつ礼拝をささげているのであります。8月の第一日曜日を「平和聖日」と定めたのは、1962年12月3日に開催された第2回常議員会においてでした。日本の戦争中、1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされました。当時の広島市の人口35万人のうち14万人が犠牲となりました。9日には長崎に原子爆弾が落とされました。当時の長崎市の人口は24万人であり、7万3千人が犠牲となりました。これは亡くなった方々であり、原子爆弾により、今でも苦しんでいる人々がおります。日本はもはや戦争は続けられなくなり、敗戦を認めたのであります。それが1945年8月15日であります。

 平和聖日として平和を祈るのでありますが、今も戦争が行われており、まことに悲しむべき現実であります。戦争と共に今の平和への願いは、地震災害や豪雨災害の復興であり、被災された皆さんの悲しみをお慰めすることであり、復興を応援することであります。今年も自然災害が多く、大雨による被害も続出しています。平和を祈るということは、戦争の無い地上でありますが、自然災害に対しても安全であるという状況を作りださなければならないのです。世界に目を向ければ、戦争は現実の問題として、苦しみつつ生きている人々がおります。しかし、日本の国は戦争を忘れ、戦争を知らない人々が多くなっているのです。子供ばかりではありませんが、ゲームの世界は相手をやっつけることであり、いとも簡単に相手をなくしてしまいます。相手をやっつけながら、そしてそれを喜びながら成長する子ども達であります。戦争というより、人間関係において、他者を排除する姿勢こそ戦争の根源なのです。共に生きることを繰り返し教えておられる聖書に立ち帰って、平和を来らせたまえと祈りたいのであります。

 今朝の聖書日課は「隣人」と共に生きることが示しであります。私たちはこの聖書に励まされて、社会の人々共に歩むことが導かれています。すなわち、隣人は自分の好きな人、好みの人ではなく、今自分の前にいる人を、自分の感情を超えて接することであると示されるのです。

 私達は聖書を読めば、必ず示されることは「隣人と共に生きる」ということであります。主イエス・キリストは、「あなたがたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と教えておられますが、この教えは旧約聖書により神様が教えておられることであり、イエス様はさらに強めて教えておられるのです。今朝の旧約聖書出エジプト記22章20節以下でありますが、「人道的律法」として示されています。苦しく生きる者を労りなさいという教えです。ここでは寄留者を虐待したり、圧迫してはならないと教えます。何よりも聖書の人々が、つい最近まで寄留者であったのです。聖書の人々は、当初はエジプトに寄留することになったのです。それは400年も昔になりますが、ヤコブの時代です。その頃、全国的に飢饉となり、神様の導きによりエジプトの大臣になっていたヤコブの11番目の子供ヨセフのもとに、ヤコブの一族がやってくるのです。それからはエジプトの寄留者となるのですが、エジプトの王は他国の民族が次第に増大して行くことに恐れを持ち、聖書の人々を奴隷にしてしまうのです。寄留者がその国で苦しむことについては、身を持って知っているのです。だから、まず寄留者をしっかり受け止めることが教えられているのです。

 次に「寡婦や孤児」を苦しめてはならないという教えです。夫を失った女性、両親を失った子供達は、生きることに困難です。だから、そのような存在を常に心に留めなさいと教えます。寡婦や孤児は、戦いが原因であることになります。そういう意味でも民族の責任として救済しなければならないのです。次に貧しい人たちを顧みるという教えです。お金を貸したなら利子を取ってはならないと示しています。あるいは隣人の上着を質に取ったならば、日没までには返さなければならないとしています。つまり、上着は夜寝るときに蒲団代わりになるからです。単に上着ではなく、大切な生活用品でありました。主イエス・キリストは、「あなたを訴えて下着を取ろうとするものには、上着をも取らせなさい」(マタイによる福音書5章40節)と教えています。上着は大切なものであり、旧約聖書からの人道的な戒めです。だから、裁判により下着を取るわけですが、イエス様は大切な上着をも与えなさいと教えているのです。この教えは「復讐してはならない」との教えの中で示されています。相手に対して自分を差し出しなさいと示しているのです。旧約聖書は貧しい者、孤児、寡婦、寄留者が安心して生きることが出来るよう、戒めとして人々に示されているのです。隣人を常に心にとめて生きるということです。このような戒めにより生きることで、自ずと隣人と共に生きることが導かれて来るのです

今朝の聖書日課は「隣人」と共に生きることが示しであります。「隣人」について、今朝のルカによる福音書10章25節以下の「善いサマリア人」が示されています。ある律法の専門家がイエス様を試そうとして言います。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問するのです。イエス様が、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に質問します。すると、律法の専門家は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えるのです。この答えは、まさに模範的な答えでありました。ですからイエス様は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われたのです。それに対して、律法の専門家は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言ったのです。正しい答えはできても、具体的になると、判断ができないと言うことです。そこで、イエス様は「善いサマリア人」のたとえ話をしたのでした。ある人が道を歩いていると追いはぎ(強盗)に襲われます。倒れている人の側を三人の人が順次通りました。その三人の人がどのように対応したのか、ということです。最初の人も、二番目の人も、社会的には人望のある人たちです。しかし、彼らは見て見ぬ振りをして行ってしまったのです。瀕死の重傷をおっている人です。三番目に来た人は、倒れている人とは日ごろから仲のよくないサマリア人の外国人でした。しかし、彼はそんなことは考えず、すぐに近寄り、応急手当をして介抱し、宿屋に連れて行ったのです。このたとえ話をしたイエス様は、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねました。律法の専門家は、「その人を助けた人です」と言わざるを得なかったのであります。

 「隣人」についての示しであります。私たちはこの聖書に励まされて、社会の人々共に歩むことが導かれています。すなわち、隣人は自分の好きな人、好みの人ではなく、今自分の前にいる人を、自分の感情を超えて接することであると示されるのです。今朝の示しは「隣人」でありますが、根底にあるのは主の御心を選ぶことの示しであります。今朝は「良きサマリヤ人」に続いてマルタさんとマリアさんについて示されています。マルタさんはイエス様の一行をもてなしています。一方、マリアさんはイエス様のお話をお弟子さんたちと共に聞いているのですが、神の国の実現を聞いているのです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とイエス様は言われています。「必要なことはただ一つ」と言われています。必要なこととは「神の国に生きる」ということなのです。神の国に生きるには、イエス様の御心をいただき、隣人と共に生きることなのです。隣人と共に生きるとは、「善いサマリア人」のたとえ話で示されますように、自分の思い、感情を超えて一人の存在を受け止めて生きるということです。マリアさんは「良い方を選びつつ」イエス様のお話を聞いていたのです。

 旧約聖書の刈り入れの人道的な規定に関し、ミレーの「落ち穂拾い」の名画が生まれました。ミレーはこの他、「晩鐘」、「羊飼いの少女」等の名画を残していますが、これらはいずれもフランスのパリにあるオルセー美術館に展示されています。2011年4月4日から5月18日まで、娘がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしていますので、連れ合いのスミさんと二番目の娘・星子と三人で、45日間行ってきました。滞在中、娘がパリの美術館に連れて行ってくれたのです。ルーブル美術館オランジュリー美術館、オルセー美術館を見学したのですが、そのオルセー美術館でミレーの名画を見ることが出来ました。美術の本等で良く見ています。パリの美術館の原画の前に佇んだとき、ミレーがまさに聖書の御心を受け止めて描きあげたことを示されたのであります。完成した名画を見ている訳ですが、ミレーはひたすら聖書の人道的な規定を心に示されながら描いたのではないでしょうか。常に聖書の言葉を持ちながら手を動かし、思いを寄せて描いたのだと思います。人間は隣人と共に生きることは自然なことであり、基本的なことでありますが、やはり神様のお心を示されつつ手を動かし、思いを寄せることが大切なことなのです。そうでないと、つい自己満足になってしまうからです。神の国に生きるとは、今の状況の中で、神の恵みを喜びつつ生きることです。

<祈祷>

聖なる御神様。神の国に生きる者へと導き感謝致します。神の国実現の働き人とさせてください。イエス様の御名により。アーメン。

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