説教「成長する原点が与えられ」

2018年5月20日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第1主日

説教・「成長する原点を与えられ」、鈴木伸治牧師  
聖書・ヨシュア記1章1-9節
    使徒言行録2章1-13節
     マルコによる福音書4章26-34節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・234A「昔主イエスの」    
    (説教後)讃美歌54年版・499「聖霊よ、降りて」

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今朝は聖霊降臨日であります。ペンテコステとも言われますが、ギリシャ語の「第50」の意味であります。ユダヤ教では「七週祭」または「刈り入れの祭り」になっています。3月31日(土曜日)の安息日の翌日から数えて7週間の翌日、すなわち5月20日になります。3月31日の安息日の翌日から数えますが、その翌日に主イエス・キリストがご復活されました。そして50日後に聖霊がくだるのであります。過越しの祭りは聖書の人々がエジプトの奴隷から解放された日、救いの日としてお祝いしています。キリスト教では主イエス・キリストの十字架による救いが与えられたのであります。それから50日後の七週祭、刈り入れの祭りは、日々の生活が導かれていることを感謝するお祭りになっています。キリスト教では聖霊降臨日として、聖霊が私達の日々の生活を導いてくださることを喜ぶ日なのであります。祝福をいただく歩みを喜ぶ日なのであります。
 今朝は聖霊をいただきます。聖霊は私達の日々の生活を導いてくださいます。自らの思いや力を超えて聖霊の導きに委ねたいのであります。聖霊のお導きを信じています。その中で、社会に生きる者として、いろいろなことに遭遇しながら、心を痛め、悩みつつ歩んでいるのです。人生、生活というもの、必ずしも私達の思うようにはいかないことは、私たち自身知るところであります。読売新聞のコラムとして「編集手帳」が記されています。大分前の新聞に記されていたことですが、Lifeについて記していました。書いている人も、ある人の言葉として引用しているのです。Lifeは人生、生活という意味ですが、日本語でも人生とか生活といえば、人間が活力を持って生きることになります。ところが、Lifeのスペルの中に「if」が含まれているというのです。「もしかしたら」という不安、「もしも」という恐れを持ちつつLife生命があることを意味しているのであります。
 「if」は不安を仮定しています。しかし、私達は「if」を持ちつつも、現実を神の国として喜びつつ生きるのがイエス様の救いを信じるキリスト者であります。イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と教えておられます。そして「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6章33節〜34節)と教えておられるのです。「その日の苦労」というのは、自分との戦いにおいて、神の国と神の義を求める一日の生活であるのです。イエス様が示す神の国に生きる、そこには「if」はありません。

 「if」を超える力、それは神様の導きであります。旧約聖書の証言から示されましょう。今朝はヨシュア記1章1節以下の示しであります。モーセに率いられて、奴隷の国エジプトから脱出した聖書の人々は40年間、荒れ野をさまよいました。この40年間は訓練のときでもありました。神様はモーセを通して十戒を与え、人々が戒めと掟を守るよう導くのであります。モーセに対して絶えず不平、不満を述べつつ歩む人々でありましたが、次第に戒めと掟を重んじつつ歩むようになりました。神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地カナンを目の前にしたとき、モーセの使命はそこで終わることになります。申命記の終わり、34章10節以下にモーセの偉大な姿が記されています。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選びだされたのは、彼をエジプトに遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった」とモーセの偉大な存在を紹介して終わっています。それでヨシュア記と続いて行くのであります。
 モーセの後継者となったヨシュアモーセの後の指導者としては、躊躇するところでありました。不平、不満を常に述べている人々をどのように導くのか、常に「if」を持っている人々に、どのようにして神様の導きを悟らせるのか、ヨシュア自身が「if」を持たざるを得なかったのであります。そのヨシュアを励ましているのが今朝の聖書であります。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい」と神様はヨシュアの使命を示しています。ヨルダン川を渡った世界、イスラエルの人々にとっては不安の世界でもあったのです。約束の土地カナンを前にしたとき、モーセは12部族から一人ずつ偵察する者を選び、カナンの土地を探らせました。40日間、偵察した12人が帰ってきたとき、10人の者は「土地は豊かで、まさに乳と蜜の流れる土地でありました。しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁で囲まれ、大層大きなものでした。上って行くのは不可能です」と報告するのです。それを聞いた人々はたいそう悲しみます。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れてきて、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ」と口をそろえて言った人々であります。それに対して、偵察した二人、カレブとヨシュアは、「断然上っていくべきである」と主張したのであります。「主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださいます」とモーセに進言します。モーセは神様のお導きとしてカナン進入を決断するのでありました。
 今、神様はヨシュアを励ましています。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」と励ましますが、モーセが律法を忠実に守ったように、右にも左にもそれてならないと示しているのであります。「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」と励ましているのであります。神様のお心を持って前進するならば、右にも左にも曲がることはないと諭しているのであります。
 幼稚園の卒業式で、子ども達にいつもお話していました。「皆さんは小学校に入り、勉強するようになります。国語、算数、社会の勉強が皆さんの頭に入ります。2年生になるともっと多くの勉強が頭に入ります。6年生になると、頭の中は勉強でいっぱいになり、頭が重くなります。重くなった頭は、右に傾いたり、左に傾いたりするのです。重くなった頭を傾かないようにするのは、皆さんの心なのです。幼稚園でイエス様のお心をいっぱいいただいている皆さんは、重い頭を傾かないようにできます。頭が傾くということは、悪い子どもになるかも知れないということです。傾きそうになったら、聖書を開いてください。聖書に触るだけでも良いです。そうするとイエス様のお心が再び皆さんの心の中にあふれてくるのです」とお話しています。知識が豊富になると右に傾き、左に傾くとは哲学的なお話でありますが、イエス様のお心により成長することを励ましたのであります。
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私を導く存在がある。今朝は聖霊が私を導く存在であることを示されるのであります。今朝は福音書におけるイエス様のお示しをいただきますが、その前に聖霊降臨を示されておきましょう。使徒言行録2章は聖霊降臨の様を記しています。聖霊は見えない存在です。しかし、目に見えることとして言い表すならば、このようであると示しているのであります。「五旬祭の日が来て、一同が一つに集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」と言い表しています。五旬祭、刈り入れの祭りの日は、町中には多くの人が集まっていました。しかし、イエス様のお弟子さん達は家の中にひっそりとしていたのであります。人々を避けてのことでもありますし、イエス様のいない状況で、何をするすべもなく家の中にいました。しかし、イエス様に示されていることは心を一つにして祈ることでしたので、その日も祈りつつ家の中にいたのであります。彼らのLifeは「if」が重くのしかかっていたのであります。この先、どうしたら良いのか、人々は我々どのようにするのか、との思いがあります。「if」を持ちつつ祈らざるを得ないのであります。その彼らに「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たのであります。お弟子さん達に風が吹きつけたのであります。
風について旧約聖書の示しを与えられましょう。創世記2章7節に人間の創造が記されています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられた。人はこうして生きる者となった」と記されています。神様は粘土で人の形を造りました。しかし、まだ人間ではありません。その粘土の人の形に神様の息を吹きいれたのであります。そこで、人間となりました。つまり、人間は神様の息をいただいている存在であります。ここで「息」とされていますが、へブル語では「ルアッハ」という言葉であります。「息、霊、風」との意味があります。旧約聖書エゼキエル書37章には「枯れた骨の復活」について示されています。預言者エゼキエルは幻の内に広い平原に導かれます。そこには枯れた骨が一面に散乱しています。触れば崩れてしまいそうな枯れた骨です。エゼキエルが預言すると、骨と骨があいつらなり、筋と肉で覆われます。そこへ風が吹きまくるのです。枯れた骨は生きた人間として立ちあがるのです。風が吹いた、霊が与えられた、神様の息が与えられたのであります。今、お弟子さん達に風が吹き付けられたというのは、神様の霊、神様の息が与えられたということなのです。真に人間として立ち上がるのであります。
もう一つの聖霊の表し方は、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」ということです。舌、ベロです。ベロがお弟子さん達の頭にとどまったというのですから、何か気持ち悪い光景です。何故、舌なのか。舌は味を見分ける部分であります。それと共に言葉を造る部分であります。従って、舌といっていますが、これは神様のお言葉であるのです。神様のお言葉が弟子たちに与えられるということです。それにより主体的に御言の証人に導かれることになったのであります。神様の霊をいただき、御心を直接与えられたお弟子さん達は、もはや家の中にいる理由はなくなりました。もはや「if」を超えたのであります。彼らのLifeの中には、依然として「if」があります。しかし、ルアッハと御言葉は彼らを立ち上がらせ、祭りで賑わう人々の中に出て行かせたのであります。
 さらに「からし種のたとえ」もお話しされています。「神の国をたとえるとすれば、からし種に似ている」と言われています。からし種はどんな種よりも小さいのですが、それを蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどにもなるというのです。からし種のような小さな種が、何故に大きくなるのか、他の野菜よりも大きくなるのか、私たちの知る所ではありません。しかし、イエス様が示されているように、そこに聖霊の働き、お導きがあるならば、私たちの常識を超えた結果が導かれて来るのです。聖霊降臨日、ペンテコステに示される聖書の言葉は、成長する種の原理でありました。一般社会は、種を蒔けば自然の力で芽を出し、成長すると考えられるのですが、それは聖霊の導きであり、聖霊が私達を導いてくださっているというメッセージなのです。

 私たちは「もしものこと」があったとき、再び元のようになることを願っています。散歩をしている時、ある町の掲示板に目がとまりました。それは訃報の掲示でありました。「○○さんは何月何日、ご家族や医師の看病の甲斐もなく、亡くなられました」というような内容であったと思います。なんとなく割り切れない思いで読みました。確かに家族が看病をしたのですが、その甲斐もなく亡くなったのです。看病すれば死なないことが前提となっています。「看病した」だから「死なない」、これは人間の素朴な願いでもあります。「一生懸命にお祈りしたのに亡くなってしまった」と言われている方もあります。癌を宣告されたお連れ合いのために、彼は一生懸命お祈りしたのです。葬儀の時、繰り返しお話しされていたことは、「一生懸命にお祈りしたのに」ということでした。その場合、その人がお祈りしたので、元気になったと時、「祈ったからである」という結論になります。あたかも自分の成果であります。それは私達の自己満足です。病気で苦しんでいる人を、私たちはいつも祈っていました。でも、神様に召されるのです。その時、私たちは、こんなに、一生懸命に神様にお願いしたのに報いられなかったと言うのでしょうか。それは、違うということを示されなければなりません。神様は、一つの出来事を通して、本人と共に本人を祈る人々を含めて、御心を示されているのです。私たちは元の状態へと回復を願いながらも、現実を受け止め、病気の人がどのようになろうとも、この人を受けとめ、新しい状況を受け止めて歩む決意へと導かれることなのです。私たちは自分の願いをかなえてもらおうとする祈りではなく、神様の御心を受けとめることができるように祈らなければならないのです。今痛み、今悩み、今苦しんでいるとしても、それは明日の私への備えのときだと示されるでしょう。今喜んでいる、それは私の祈りがかなえられたという喜びではなく、神様の御心の中にいる自分を知った喜びなのです。日々、祝福へと導かれている喜びなのです。それが「成長する種」であり、「からし種」の存在なのです。「成長する原点を与えられる」ことなのです。
聖霊を与えられています。聖霊が私達の日々の生活を導いてくださることを喜ぶことを示されました。私に蒔かれた神の国に生きる種の成長を聖霊が導いてくださるのです。「成長する原点」が与えられているのです。
<祈祷>
聖なる神様。聖霊をお与えくださり感謝いたします。聖霊に導かれて新しい一歩を、力強く歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。