説教「救いの約束を見る」

2014年3月30日、六浦谷間の集会
「受難節第4主日

説教・「救いの約束を見る」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記24章12-18節
    コリントの信徒への手紙<二>4章1-6節
     マルコによる福音書9章2-13節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・139「うつりゆく世にも」
    (説教後)讃美歌54年版・259「天なる主イエスの」


 先日、3月25日ですが、秦野にある「神の庭・サンフォーレ」に行ってまいりました。この10年間、「神の庭・サンフォーレ」支える会の主事としてお働きくださった鳥羽徳子牧師が退任されることになり、その報告と新しく主事になられた貞弘範行牧師の紹介を皆さんにするためです。ちょうど午後2時30分からボランティアの方が「お話とお琴」の時を開いてくださっており、そのあとに新旧主事の紹介をしたのでした。その「お話とお琴」を担当してくださった木村さんという方はアバコで活躍されていましたが、今はボランティアとして老人ホーム等を訪問してくれているようです。実はこの木村さんとは高校生時代にお交わりを持ったのです。私は横浜の清水ヶ丘教会で信仰が導かれましたが、隣の教会は霞ヶ丘教会でした。この教会は黄金町にある関東学院の中にある教会でした。したがってバプテスト教団でありますが、近くの教会ということで交流を持っていたのです。私の高校生時代に木村さんも高校生で、両教会のお交わりの時には親しくしていました。その後、彼がアバコで活躍するようになったことは知っていましたが、会う機会もなく今日に至っていたのです。それが偶然にも神の庭・サンフォーレでお会いすることになり、彼の素晴らしい声を聞くことができました。まず紙芝居のアルタバン物語を演じてくれましたが、見事な声優ぶりでした。そのあとはフランネルグラフで「三本の木」を演じてくれました。さらに聖書の山上の説教を読みましたが、聞く皆さんの心に響くようでした。
 神の庭・サンフォーレにはボランティアの皆さんが、お話の会やコーラスの会等を開いてくれています。神の庭・サンフォーレが設立されたとき、「支える会」を立ち上げ、入居者の牧会をするようになったのです。キリスト教シニアホームとして15年前に、この秦野の地に設立したのです。株式会社サンフォーレは、我々がキリスト教シニアホームを設立させることに賛同してくださり、ホームを提供してくださることになったのです。我々は「支える会」として入居者の信仰生活を支えることにしたのです。月に二回の礼拝を担います。賛美の集い等のボランティアを受け入れて信仰生活を励ましているのです。主事は皆さんとお交わりを深めながら、皆さんの信仰を励ましています。今年で15周年を迎えていますが、キリスト教のシニアホームがあること、皆さんの希望となっています。サンフォーレは戸塚にある施設の三階のフロアーをキリスト者のホームに提供してくれていますので、秦野まで行かなくても戸塚のキリスト者シニアホームが希望となっています。
 今の時代、老人施設は有り余るほど建てられています。しかしキリスト教のホームは限られており、そういう意味でも「神の庭・サンフォーレ」の存在は大切であると思います。これらのホームで生活するだけで、「救いの約束を見る」思いですが、実際に「救いの約束」の中にいるようでもあります。

 旧約聖書は「救いの約束」を与えられる示しであります。聖書の人々は400年間エジプトの国で奴隷でありました。その苦しみの声を神様がくみ上げ、モーセを通して奴隷から解放されたのであります。エジプトを出て荒れ野をさまよいますが、最初の宿営地がシナイ山のふもとでありました。宿営しているうちにもモーセは神様の導きをいただきまして、このシナイ山に登るのであります。もうかれこれ20年も昔になりますが、私も聖地旅行をしまして、そのツアーは最初にエジプトからシナイ山に向かいました。エジプトからシナイ半島をバスに乗り、かなりの距離であったと思いますが、ようやくシナイ山のふもとにつきました。もう夜になっていました。翌日は午前2時に出発してシナイ山に登るというのです。食事をしてからすぐに横になりました。うとうとしているうちに起きる時間になり、ガイドの人に暗い道を案内されて行きますと、ラクダの群れとラクダを扱う人がいました。ツアーのメンバーは20人くらいでしたので、一人一人がラクダに乗ってシナイ山を登って行ったのです。暗闇ですから、どんな道を通っているのかわかりませんでしたが、下山は登った道を歩いて降りてきたのですが、その道の険しさに驚きました。シナイ山の八合目までラクダで登りましたが、最後は頂上まで歩いて登りました。かなりきつい道でしたが、暗いうちに頂上に達することができました。頂上から日の出を見ることが目的でもあったのです。暗い頂上でしばらく待っていました。結構、人がいるようで。あちらこちらで声が聞こえます。やがて東の空に赤いものが見え、あっという間に日が昇り、あたりが明るくなりました。その時、いろいろな声が聞こえました。賛美とも祈りとも、歓声とも思える声でした。その時、ツアーのガイドさんが、私にここで礼拝を司ってもらいたいというのです。突然のことですが、モーセが神様から十戒を授与される聖書については、意味深く示されていますので、そのくだりをお話ししながら、神様の救いの約束が見える形で与えられたことを礼拝説教としてお話したのでした。
エジプトを脱出し、このシナイ山に来た時、神様はモーセを通して十戒を与えました。最初に十戒を示されたとき、モーセに口頭で与えられたのです。それは出エジプト記19章から記されています。そして、今朝の聖書では、その十戒を石の板に刻まれて示されるのです。十戒は人々を救う基ですが、その救いの十戒を見える形で示されたということです。救いの約束を見えるようにしてくださったということです。
十戒は、最初に石の板に書き付けられたと思うのでありますが、最初は神様が直接モーセに、神様の言葉をもって示したのであります。モーセは示された言葉の十戒を人々に示し、神様の御心として守るように導くのであります。十戒を与えられたモーセは、その「契約」の示しを与えられます。すなわち神様の民として、神様の御心に従って生きてゆく戒めであります。「祭壇について」「奴隷について」「盗みと財産の保障」等、人と人との営みの中で守らなければならない基本的な戒めを与えています。その中で、「人道的律法」があります。「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたはエジプトの国で寄留者であったからである」としています。400年間の奴隷は、困難に生きる他の存在に心を向けることが示されるのであります。「もし、あなたが私の民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸のようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質に取る場合、日没までに返さなければならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである」と示しています。常に他の存在に心を寄せること、貧しい者と共に生きること、これが神様の戒めであります。
 モーセは、このように神様の言葉によって戒め、御心を示されてまいりました。今朝の聖書は、救いの約束である十戒が形あるものとして人々に与えられるのであります。12節「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」と神様はモーセシナイ山へと招いているのであります。モーセシナイ山に登りました。主の栄光がシナイ山にとどまっていたのであります。今まで神様の口をもって示されてきました御心、戒めは「救いの約束」として見える形として与えられることになり、石の板に書き記され、人々の指針とされたのであります。石の板に記された十戒は、その後、箱に納められ、契約の箱として、荒れ野を彷徨する人々の前におかれたのであります。宿営をするときには幕屋といい、その中に納められました。幕屋を通して神様にお祈りを捧げたのでありました。十戒に向かうときには人々の心に救いの約束が与えられました。神様の御心へと導かれるからであります。神様の御心に生きることは、救いに生きることであるとは旧約聖書のメッセージあります。あなたは救いの約束をいただいているか、と聖書は問うているのです。

 主イエス・キリストが「救いの約束」であると聖書は示しています。受難節には主イエス・キリストの栄光の姿が示されます。それが今朝の聖書、マルコによる福音書9章2節以下の示しであります。「イエス様の姿が変わる」ことが示されます。先週はイエス様がお弟子さん達の信仰告白を聞いた後、イエス様が苦しみを受け、十字架で殺されることをお弟子さん達に告げました。するとお弟子さんのペトロが、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエス様をたしなめました。するとイエス様は、人間的にしかイエス様を受け止めていないお弟子さん達を叱ったのであります。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とお弟子さん達に示されたのであります。
 今朝の聖書はそれから「六日の後」のことであります。イエス様はペトロ、ヤコブヨハネだけを連れて高い山に登られました。高い山と言っていますが、タボル山とかヘルモン山とも言われています。いずれも5、600メートルの山であります。山に登られるとお弟子さん達の前でイエス様の姿が変わりました。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」のであります。マタイによる福音書ルカによる福音書にも同じようにイエス様の変貌が記されています。マタイやルカはイエス様の顔が太陽のように輝いたと記していますが、マルコは顔の輝きについては触れていません。むしろマルコは真っ白に輝く服を強調しています、マタイの場合、服は「太陽のように白かった」と記しますが、マルコは「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と記しているのです。このことから人間の世界を超えた神様のご栄光が示されているのです。神様のご栄光によって主イエス・キリストが光輝くお姿になっているのであります。
 栄光に輝くイエス様が昔現れた神の人達、エリヤ、モーセと語らっている姿をお弟子さんたちは見るのであります。ペトロは茫然となり、思わず言ったのであります。「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。すると雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」との声でした。弟子たちはあたりを見渡しますが、そこにはイエス様だけがおられたのであります。「これに聞け」と言われているのは、イエス様に聞くということであります。十字架への道を歩まれるイエス様に聞くということであります。自分の十字架を負いなさいとも言われたイエス様に聞くということであります。その十字架は神様の御心が示されているしるしの場であるのです。
 モーセ十戒が与えられ、石の板と言う目に見える形で神様の御心が示されたのであります。十戒に向かうということは神様の御心へと導かれることでありました。神様の御心に導かれる時、人々が救われるのです。救われるということ、それを見ることによって救いの順序が示されるのです。救いの喜びを持たずして神様の御心を実践することはできないのであります。寄留の民、外国人を顧みなさいとの教えは十戒を仰ぎ見ない限り、実践することはできないのであります。救いのしるしである十戒を見ることにより、神様の御心を実践することができるのであります。主イエス・キリストの救いの十字架は目に見える形の神様の御心であります。十字架を仰ぎ見ることにより、救いへと導かれるのであります。十字架の愛に押し出されて、自分の気持ちでは到底できない人との関係へと導かれるのであります。十字架を目にするほどに救いが迫ってくるのです。
 第二コリントの信徒への手紙4章6節の言葉に励まされましょう。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心のうちに輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」と示しています。イエス様の十字架がまさに救いであると信じることができること、それが「栄光を悟る光」であります。イエス様の十字架を仰ぎ見ることにより、真の救いが与えられ、心のうちに輝くのであります。心が輝いているのは皆さんであります。

 最初に「神の庭・サンフォーレ」についてお話ししました。そこにいるだけで救いの事実が目に見えてくるのです。約20年前にキリスト教シニアホームの建設を目指しました。それが実現できていることは、まことに感謝です。「神の庭・サンフォーレ」の愛唱聖句は詩編92編13-16節の言葉です。「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない、と。」また、愛唱讃美歌は21・140番です。1番は、「み神のすまいは何と素晴らしい。私の魂、絶えるほどに、主の庭 あこがれ 叫びあげる」と歌います。2番は、「つばめが巣つくり、ひな育てる。あなたのすまいに住めるならば、私はどれほど幸せでしょう」と歌います。3番は、「嘆きの谷間を通る時にも、谷間を泉としてくださる。み神を求めて 進んでゆこう」、4番は「主の庭ですごすこの一日、千日にもまさる 大きな恵み。ひたすらたたえよ、万軍の主を」です。
 救いの約束である十字架を仰ぎ見る生活をいよいよ導かれたいと願っています。十字架は私たちの心に深く刻まれているのです。その救いの約束である十字架を見つつ歩む私たちに祝福が与えられているのです。
<祈祷>
聖なる神様。神様の御心である十字架をいよいよ仰ぎ見させてください。心が輝き、輝く証を人々に示させてください。主イエス・キリストの御名によりお祈りします。アーメン。