説教「こころにかけてくださいる存在」

2023年7月9日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第7主日

                      

説教・「こころにかけてくださる存在」、鈴木伸治牧師

聖書・ エレミヤ書38章1-13節

   使徒言行録20章7-12節

   ルカによる福音書7章11-17節

賛美・(説教前)讃美歌21・482「わが主イエス、いとうるわし」

   (説教後)讃美歌21・540「主イエスにより」

 前週は数人の方からお手紙等をいただき、皆さんがいつまでも心にかけてくださっていることを示され、喜んだのであります。お一人の方は諸江さんと言う方で、マレーシアからのお手紙でした。私は2013年3月から6月にかけてマレーシアの日本語集会のお手伝いに行きました。クアラルンプール日本語集会が開かれていますが、その集会の牧師が2012年3月で隠退しました。すぐに後任の牧師が決まりませんので、その集会は日本基督教団に応援を求めてきました。それで隠退牧師が交代で赴くことになりました。パスポートの期間、三ヶ月間、牧師として礼拝や集会を司るのです。私は五番目のボランティア牧師として赴いたのでした。礼拝には20名前後の皆さんが出席していました。マレーシアには長期に滞在している方がおります。また、会社から派遣されている方もおられ、それらの皆さんが日曜日には礼拝をささげているのです。そのマレーシア日本語集会の中心になっておられる方が諸江さんと言う方なのです。2013年に赴いたのですが、それから10年を経ていますが、今も諸江さんがお手紙をくださるのです。わずか三ヶ月のお交わりでしたが、その時のお交わりを記され、今もお祈りさせていただいているとのお便りなのです。いつまでも覚えてくださること、こころにかけてくださること、本当にありがたく思っています。このようなお交わりは、やはりキリスト教を土台としているので、いつまでも導かれるのでしょう。5月28日には30年間勤めさせていただいた大塚平安教会の礼拝説教を担当させていただきました。2010年3月に退任しているので、もう13年も経ているのですが、皆さんは覚えて下さり、私の礼拝説教を喜んでくださいました。こころにかけてくださっていることを示されたのであります。

人との出会いは、単にお交わりの喜びというより、私の存在が覚えられているということです。その意味では聖徒のお交わりが大切なのであります。イエス様を信じる者のお交わりはお互いに「こころにかけてくださる存在」を示されるということです。それは自分を受け止めてくださる存在を知るからでありますが、何よりも神様がこの私を心にかけてくださっていることを知ることになるからです。

 神様の御心を真に受け止めて力強く歩むのか、拒否して滅びるか、旧約聖書は意味深く示しています。エレミヤ書38章は預言者エレミヤが神様の御心を無視する人々によって殺されようとすることが記されています。聖書の国、南ユダは大国バビロン、エジプトの狭間にあって揺れ動いています。バビロンに包囲されている状況でした。そこにエジプト軍が南ユダを助けるために軍隊を差し向けてくるのです。それを知ったバビロン軍は一時包囲をとき、撤退するのです。しかし、エジプト軍はすぐに引き上げて行ってしまうのです。そのような状況の中で、エレミヤはかねてより、バビロンに降伏することを勧告していたのです。バビロンと戦うのではなく、降伏して生き延びるということです。指導者達はエレミヤの預言が面白くありません。指導者達は王様に、エレミヤがバビロンに投降するように人々を説得しているが、バビロンに対抗する人々の士気をくじいているとして殺すよう進言します。王様はそれに応じるのでした。そこで今朝の聖書になりますが、指導者達はエレミヤを水溜の中に落としてしまいます。水はありませんが泥が溜まっているので、いずれは死んでしまいます。それを知った宦官のエベド・メレクは王様に、エレミヤを助けるようお願いするのです。王様は願いを聞き、エレミヤは解放されるのです。

 エレミヤ書39章ではエルサレムが陥落することが記されます。結局、南ユダの国はバビロンに滅ぼされるのです。それにより多くの人々がバビロンに奴隷として連れて行かれるのです。39章15節以下に、宦官エベド・メレクへの約束の言葉が記されています。メレクが王様に願ってエレミヤを助けたからでした。18節、「わたしは必ずあなたを救う。剣にかけられることなく、命は助かって生き残る。あなたがわたしを信頼したからである、と主は言われる」と記されています。神様の御心に従うことで、導きが与えられたのです。御心を信じなかった指導者をはじめとする多くの人々が滅びていったことを報告しているのです。

 新約聖書ルカによる福音書7章11節以下です。イエス様はナインという町に行かれました。お弟子さん達、群衆も一緒でした。葬儀の行列に出会います。夫を亡くした女性の一人息子が死んでしまったのです、棺が担ぎ出されるところでありました。イエス様は悲しみにくれる母親を見て哀れに思われ、「もう泣かなくてもよい」と言って慰めるのでした。そして、棺に手を置き、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と声をかけます。すると死んだ若者は起き上がってものを言い始めたのでありました。この状況を見た人たちは神様を讃美し、「大預言者が我々の間に現れた」、「神はその民を心にかけてくださった」と言うのでした。そして、この出来事は周りの地方一帯に広まって行ったと記しています。

 ルカによる福音書は、この後、18節から洗礼者ヨハネの質問にイエス様がお答えになることを記しています。洗礼者ヨハネはイエス様より先に人々の前に現れ、神様の御心に従って生きるよう、悔い改めなさいと教えたのです。そして悔い改めた人々はヨハネから洗礼を受けたのです。イエス様もこのヨハネから洗礼を受けています。人間は罪ある存在として、イエス様は洗礼を受けたのでした。その時、ヨハネは躊躇します。まことの救い主であることを知っていたからです。ところが今朝の聖書の後の部分、7章18節以下には、ヨハネがイエス様に確認しているのです。ヨハネは自分の弟子をイエス様のもとに遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねるのです。ヨハネの弟子が、イエス様が死にかかっている百人隊長の僕を癒したこと、ナインの女性の一人息子を生き返らせたことをヨハネに知らせたので、改めてイエス様の存在を確認したのです。

 ヨハネの質問にイエス様は答えています。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、病気を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言うことをヨハネに知らせなさい、と言われたのです。主イエス・キリストにより、目の見えない人は見えるようになり、耳の聞こえない人は聞こえるようになりました。病気が癒され、死人が生き返っているのです。ヨハネによる福音書9章に「生まれつきの盲人の癒し」について記されています。イエス様によって目が見えるようになった青年に、人々は不思議な思いでいます。「どうして見えるようになったのか」と言うのです。イエス様が「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われた時、そこにいた社会の指導者の人々は、「我々も見えないということか」と抗議します。イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われたのであります。私達は見えると言っていますが、自分の好みのものしか見ていないのです。イエス様と出会うことにより、自分の気持ちではなく、見なければならないことを見るようになるのです。自分の好みの音ではなく、聞かなければならないことの声が聞こえてくるのです。死者について言うなら、確かに私達は生きている存在です。しかし、本当に生きているのか。生きているものは喜びと希望を持って生きることなのです。人々と共に喜びつつ生きることです。イエス様との出会いにより、本当に生きた者へと導かれるのです。今の状況が苦しくても、悲しくても、常に喜びつつ歩むことができるのです。

 常に喜びつつ歩むことができるのは、私の存在が覚えられているからです。この私を「こころにかけてくださる存在」がおられるので、現実を喜びつつ歩むことができるのです。最初にマレーシアの日本語集会についてお話しましたが、いつまでも心に覚えてくださる喜びをお話いたしました。それは人間的なお交わりでもありますが、その根底にあるのはイエス・キリストによる十字架の救いがお交わりを導いているのです。「こころにかけてくださる存在」は主イエス・キリストであります。イエス様は当時の社会において社会の片隅に置かれている人々をいつも顧みておられました。社会の指導者たちが、どうしてこの人たちと食事をするのかと批判をしていますが、イエス様はいつも「こころにかけてくださる存在」でありました。罪びとと言われている人々は病気であったり、身体の障害のためでもありました。因果応報的に考えられていたからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)と聖書は示しています。主イエス・キリストの十字架の贖いを信じることが、こころにかけてくださる存在を示されることなのです。

 「こころにかけてくださる存在」は主イエス・キリストであります。十字架はこの私をこころにかけてくださっている具体的なことなのです。私の存在がいよいよイエス様によって受け止められていることを示されるのです。この信仰が現実の歩みを祝福してくれるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。私たちを心にとめてくださり感謝致します。一人の存在を受け止めつつ歩ませてください。キリストの御名により、アーメン。

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