説教「本当のことを示される」

2016年8月7日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第13主日

説教、「本当のことを示される」 鈴木伸治牧師
聖書、ヨブ記28章12-28節
    コリントの信徒への手紙(一)3章1-9節
     ヨハネによる福音書7章45-52節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・420「世界のおさなる」
    (説教後)讃美歌54年版・531「こころの緒琴に」


 いよいよ8月の歩みになっています。8月は夏の盛りであり、暑い日々を歩むのですが、この暑い時に「平和」の祈りが深められることに意味があると思います。8月6日は広島に、9日は長崎に原子爆弾が落とされ、多くの人々が犠牲となりました。それにより8月15日に、日本は敗戦を宣言したのであります。先日の伊勢・志摩サミットが終わりまして、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問しました。原爆ドームの前で挨拶されたことは、真新しく印象に残っています。その時、大統領は原爆被災者とハグしていたことも印象に残りました。先ほど、原子爆弾が落とされたことで、日本は敗戦を宣言したと申しましたが、アメリカ人の中には、それによって戦争が終わったのであるから、原爆投下を評価している人々がいるのです。しかし、日本人は原爆投下により多くの犠牲者が出たことについては、悲しむべきこととして受け止めています。原爆投下に対して、日本の真珠湾攻撃による犠牲者を悲しんでいる人々がアメリカには多くいるのです。日本人は原爆投下を謝罪すべきであると主張する人々がいますが、アメリカでは真珠湾攻撃を謝罪すべきだと主張している人々がいるのです。原因は戦争であります。戦争が起きてはならないのです。多くの人々が犠牲にならなければならないのです。
 私は敗戦の翌年、小学校1年生に入学しました。私は横須賀市浦郷というところで生まれました。すぐ近くに追浜飛行場という軍の施設がありました。戦争が激しくなってきて、飛行場の周辺の人々は強制移転をさせられたのでありました。横浜市金沢区六浦に移転したのは、私が4歳のときでした。1943年(昭和18年)8月でした。それから2年後に敗戦を迎えますが、戦争が激しくなっていくときであり、住んでいた家の上空をアメリカのB29という戦闘機が編隊をなし、横浜・東京方面に飛んでいく情況をいつも見ていたのです。そして、横浜方面の空が赤く染まっていたことも心に焼きついています。実際的な戦争体験、戦時下の苦しい体験はありませんが、戦争の悲惨は心に染み付いています。私の兄は小学校4年生のとき肺炎で死にました。栄養失調でもありました。戦争中、学童疎開があり、しばらく家から離れての生活でした。敗戦となり帰ってきましたが、翌年には病気となり、死ぬことになってしまうのも、やはり戦争のためであったと思っています。戦争は悲しみを生むばかりで、例えば侵略して他の国を得たとしても、それは決してよいことではないのです。人の死を犠牲にして、国力が強くなったところで、国民は喜びません。
 日本の今の時代は多くの人々が戦争を知らない人々です。ゲームの世界では次々に相手をやっつけて勝利者になります。相手を倒すことをゲームの世界で覚えていく時代であります。青少年ばかりではありませんが、人を殺すことを平気で、ただ自分の感情で実行していくこと、何としても時代を変えなければならないと示されます。先日も障碍者施設で19人もの人が、一人の人によって殺害されるという恐ろしい、悲しい事件が起きています。他の存在を心から受け止め、共に生きること、それが平和の根源であります。人間は努力して平和を実現していますが、真の平和ではありません。神様により人間が生きるための「本当のこと示される」生き方を導かれたいのであります。
2.
 平和の実現は十字架を基としなければなりません。この十字架は神様の知恵によるものであります。「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリントの信徒への手紙<一>1章18節)と示されています。まさに、ここに神様の知恵があるのです。十字架という、世の人々にとっては愚かなことが救いの根源であるのです。知恵は神様の「本当のこと」、神様の真理であるのです。
 旧約聖書ヨブ記が示されています。今朝のヨブ記の示しは神様の知恵を賛美しているのであり、人間は神様の知恵に向かわなければならないことを示しているのです。28章1節から11節までは人間が知恵によってすべてを究め尽くしていることを歌っています。人間は金銀を掘り出し、鉄や銅、鉱石を地の底から掘り起こし、他のどんな動物も見つけることができない宝物を、人間は知恵によって探し出し、作り出していることを示しています。そのような知恵を持つ人間でありますが、「では、知恵はどこに見いだされるのか。分別はどこにあるのか。人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない」と今朝の12節から示しているのであります。つまり、人間は知恵を持っているのでありますが、その知恵はどこから来るのであろうかということです。知恵は高価な金によっても買うことができず、海の中にも山の上にもないというのです。20節でも再び、「では、知恵はどこから来るのか。分別はどこにあるのか」と繰り返しています。
 ヨブ記は物語であります。義人ヨブと言われる人が、豊かな幸せに生きていました。信仰深く、神様に礼拝をささげつつ生きていたのです。そのヨブに対して、ヨブがこんなに信仰深く生きているのは、神様がお恵みを与えているからだと天使の一人、サタンが主張するのです。そこで神様はサタンがヨブを試すことをお許しになります。サタンは豊かなヨブの財産をなくし、愛する10人の子ども達まで失わせるのです。そして、ヨブには体中に皮膚病にかからせます。もがき苦しむヨブです。そこへ三人の友人達が見舞いに来ます。三人の友人は、ヨブがこのように不幸になったのは、ヨブが悪いことをしたからであり、悔い改めることこそ必要なことであると勧告するのです。当時の考え方は因果応報でありました。悪いことをすれば不幸になる、良いことをすれば幸せになるということです。しかし、それに対して、ヨブは自分には身に覚えのないことであり、三人の友人と真っ向から論争するのです。今朝のヨブ記28章は誰が書いているのか不明であります。ヨブなのか三人の友人なのか、誰でもなくこの28章の「神様の知恵の賛美」が挿入されているのです。何か、今までの論争がむなしいもののように示唆しています。人間が主張し合って、真理を追究しているとき、真理は神様の知恵であることを示しているのであります。
 23節に「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」と示します。「その道」、「その場所」とは知恵の存在そのものであります。「神は地の果てまで見渡し、天の下、すべてのものを見ておられる。風を測って送り出し、水を量って与え、雨にはその降る時を定め、稲妻にはその道を備えられる」と示しています。自然の移ろいは神様の知恵によって導かれているというのであります。それを、あたかも人間の知恵で金銀を掘り出し、宝物を積み上げていくというのであれば、それは間違いであるということなのです。神様の知恵が与えられて、すべてが導かれていることを知らなければならないのであります。「神は知恵を見、それを計り、それを確かめ、吟味し、そして、人間に言われた。『主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別』」と結論を示しています。「知恵」と言っていますが、平たく言えば「本当のこと」であります。「本当のこと」の根源、「本当のこと」の基は神様であるということであります。従って、旧約聖書の示しは「本当のこと」、真理である神様の知恵に向きなさいということなのです。
 平和の根源は十字架にあるということです。人の目には愚かに見える十字架こそ神様の「本当のこと」、知恵であり、真理であるのです。十字架を仰ぎ見ることが、神様の「本当のこと」、神様の知恵によって導かれる人生であると示されるのです。真理であり、神様の知恵である十字架に、人類はすべて「本当のこと」に導かれなければなりません。主イエス・キリストの十字架の救いこそ、「本当のことで」であり、神様の知恵なのであります。この「本当のこと」をいだたくことが、この地球上に真の平和が導かれるのです。イエス様は「十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2章)と聖書は示しています。
3.
 主イエス・キリストが人々に現れ、神様の「本当のこと」を示されているとき、人々は示される「本当のこと」、神様の知恵を真に受け止めることができなかったのであります。今朝の聖書、ヨハネによる福音書7章45節から52節までにはイエス様は登場していません。イエス様の示された知恵の波紋が記されているのであります。イエス様が示された「本当のこと」、神様の知恵に向く人、向かわない人を記しているのが今朝の聖書であります。今朝の聖書の前の段落で、主イエス・キリストは「乾いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われています。これは、神様から与えられる聖霊によって、人々が真実に生きることを示しているのであります。このヨハネによる福音書には「霊」、「真理の霊」、「弁護者」、「聖霊」と示していますが、旧約聖書が示す「本当のこと」、「知恵」なのであります。
 イエス様は神様の知恵を示し、聖霊を証しているのでありますが、人々はどのように受け止めてよいのか戸惑っている様子を今朝の聖書は示しています。「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいましたが、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と言う者もおり、群衆の間に対立が生じたと記されています。戸惑っている人々です。一方、指導者達は下役たちにイエス様を逮捕させるため差し向けるのであります。しかし、下役たちはイエス様の「本当のこと」、神様の知恵を示され、手を出すことができないで指導者達のところに帰りました。「今まで、あの人のように話した人はいません」と報告するのです。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている」と指導者達は怒りを表すのでした。
 ところが、この指導者の中にニコデモという人がいました。このニコデモという人は、ヨハネによる福音書3章に登場した人です。指導者ですから、昼間にイエス様とお話するのをはばかり、夜ひそかにイエス様のところに来るのです。その時、ニコデモはイエス様の知恵の言葉を聞くのですが、悟ることはできませんでした。しかし、今朝の聖書に示されるように、悟りが導かれつつあるようです。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と指導者達に言うのでした。それに対して指導者達は、「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と言うのでした。ニコデモはイエス様の「本当のこと」、神様の知恵に真実向かうようになります。その姿勢が、イエス様が十字架にかけられ、墓に埋葬されるとき、没薬と沈香を混ぜた物を持ってきて、共にイエス様を埋葬したのでありました。ニコデモが信仰を持ったとは記されませんが、イエス様の知恵、真理の霊に真実向かう人に導かれていたのであります。
 こうしてヨハネによる福音書は戸惑う人々を記していますが、ヨハネの示しはイエス様の「本当のこと」、神様の知恵に向かうということであります。その向かう姿勢をニコデモの生き方により示しているのであります。
4.
神様の知恵、真理に向かうこと、聖霊の導きに委ねること、それが平和の根源であります。平和聖日にこの示しをいただき、平和を実現するものへと導かれたいのであります。先日、小澤八重子さんをお訪ねしました。大塚平安教会員である小澤さんは追浜に住んでいます。私達は大塚平安教会を退任して現在の場所に住むようになっていますが、小澤さんも、少し前から追浜に住むようになりました。小澤さんの娘さんの家で過ごすようになったのです。今までは座間にお住まいで、礼拝に出席され、家庭集会としてもご家庭を開放してくださっていたのです。前後してこちらの方に住むようになりました。私達が六浦谷間の集会を始めたとき、時々でありますが出席されるようになったのです。先日、娘さんからお電話をいただき、最近は体調がよろしくないということで、散歩のついでにお立ちよりくださいということでした。それで連れ合いと共にお訪ねしたのです。小澤さんは、今は89歳になっています。ベッドに横たわったままの小澤さんにお会いしましたが、私達がおわかりになったのか分りませんが、讃美歌を歌い、お祈りをささげて参りました。
その小澤さんのお証を心に示されています。小澤さんは1982年12月に洗礼を受けておられます。35年を経ていますが、その頃は60歳を過ぎた頃で、まだお若く、教会のご奉仕をいろいろとしてくださっています。洗礼を受けられたときのお証です。女学校を卒業されてから会社に勤めるようになったのですが、その会社は組合員9名の解雇を行いました。それに対して組合はストライキで抵抗したのですが、小澤さんも一緒に抗議活動をされたということです。その活動の中にクリスチャンがおられ、何かと聖書のお話しを示されていたと申します。そして、幾人かのクリスチャンと出会い、信仰を持つ様になったのです。その小澤さんの愛唱聖句は、「隣人を自分のように愛しなさい」とのことです。まさに「本当のことを示される」人生へと導かれていたのです。いろいろな困難がありましたが、常に「本当のことを示される」歩みであったのです。私達も「本当のことが示される」人生へと導かれているのです。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様の十字架の救いは平和の根源であります。この「本当のことを示される」歩みをいよいよ歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によって。アーメ