説教「主が手を取ってくださる」

2012年8月26日、横浜本牧教会
「三位一体後第12主日

説教、「主が手を取ってくださる」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書42章1〜7節
   マルコによる福音書7章31〜37節
賛美、(説教前)讃美歌21・356「インマヌエルの主こそは」
   (説教後)讃美歌21・460「やさしき道しるべの」

 二年ぶりに御教会の講壇に立たせていただくこと、お招きを感謝致します。2010年4月から9月までの半年間、御教会の代務者の責任を持たせていただきました。わずかな期間でしたが、皆様と共に信仰のお交わりをさせていただき、心から感謝しています。ご報告の意味でその後の私の歩みをお話させていただきます。こちらの教会の代務者の任を終えてから、無任所教師として歩むようになりました。今まで森田裕明先生が牧会されていた横須賀上町教会は、すぐには後任の牧者が決まりませんので、しばらくは代務者を置いての歩みとなりました。代務者は湯河原教会の金子信一牧師でありますが、そちらの教会の牧会がありますので、他の牧師に説教を依頼され、私が第一日曜日の礼拝を担当するようになりました。第一日曜日は横須賀上町教会の御用がありますが、その他の日曜日は、どこの教会に出席するか、夫婦で語らっていたことであります。まず、無任所教師になってから、私の出身である清水ヶ丘教会に出席し、連れ合いの出身である東京の高輪教会に出席しました。そして、今まで牧会した大塚平安教会の牧師就任式がありますので礼拝から出席し、続いてこちらの森田裕明牧師の就任式がありましたので、礼拝から出席させていただいたのであります。問題はそれからです。どこの教会に出席しようかと思案していたのですが、自宅で二人だけでありますが、「六浦谷間の集会」として礼拝をささげることになったのです。私は無任所教師になり、どこの教会で説教をすることでもないのですが、毎週の説教を作成し、ブログで公開していました。用意された御言葉はあるのだから、それに牧師と信徒がいるのだから礼拝が成立するわけです。2010年11月28日に、「六浦谷間の集会」第一回礼拝をささげたのでありました。以後、今日まで原則二人で礼拝をささげています。時には私共の子供達、また知人も出席されることもあります。大塚平安教会員の方が追浜にお住まいであり、高齢になっているので大塚平安教会の礼拝には出席できません。私共の礼拝をお知りになり、娘さんが車で送り迎えをしてくださって出席しております。
 今は夫婦でのんびりと生活しています。「隠退牧師の徒然記」としてブログを書くこと、説教を準備することの他は読書や身辺整理をすることくらいです。在任中は教会と幼稚園の職務で一日中対応していました。電話もありません。訪問される方もほとんどありません。色々と気持ちを動かさなくても、それで日が暮れていく生活になりますと、知的後退が早まるのではないかと思うのです。それで、毎日2時間も散歩しています。散歩しているといろいろと触れることができ、後退を防いでくれるようです。「六浦谷間の集会」の礼拝も神様のお導きであると思っています。次第に年齢を増し加えて行く中で、「主が手を取ってくださる」ことが実感として示されているのであります。それは年齢ばかりでなく、すべてにおいて、私達の歩みに対して、「主が手を取ってくださる」現実があるのです。今朝は聖書の示しをいただき、いよいよ「主が手を取ってくださる」ので、私達の信仰を導かれたいのであります。

 今朝は旧約聖書イザヤ書42章を示されています。「主の僕の召命」と題されています。新共同訳聖書になってから、聖書のそれぞれに題が付けられていますが、これは聖書ではなく、新共同訳聖書を発行した時に付けられた題です。従って、「主の僕の召命」と題されていますが、これは昔から付けられていた題ではなく、日本人が付けているのです。題が付けられていると、その内容になってしまいますので、本当は題がない方が聖書に向かうとき邪魔にはならないのです。
 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」と記されています。「私の僕」とか「わたしが支える者」とか「彼」と言われていますが、これは誰なのかと言うことです。注解書を紐解いてみますと、このイザヤ書を書いている預言者イザヤ、あるいは聖書の人々はバビロンに捕われている訳ですが、その捕われから解放したペルシャの王様キュロス、そしてまた救い主として登場するメシアとして解釈しようとします。救い主、メシアとして解釈するのが大方の理解です。そうなると、私達は「主の僕」がそのような働きをして、人々を導くということで終わりになります。終わりになりませんが、当時の世界の希望を示されるのです。しかし、私達は日本人が付けた「題」にこだわってはならないのです。聖書は私たちへの示しです。自分を中心にして聖書に向かわなければならないのです。
 私達はここに記されている「わたしの僕」とか「支える者」を「自分」に振り替えて読まなければなまらないのです。神様がこの私をお選びくださり、神様の霊を置いてくださっているのです。1節から4節までに「裁き」が三回も出てきます。「彼は国々の裁きを導き出す」、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものにする」、「暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまで」と記されています。「裁き」と言えば、善か悪かの判断を下すと理解しますが、ここでは別の意味として理解しなければなりません。「裁き」は聖書の言葉では「ミシュパート」です。ミシュパートは「裁き」でありますが、「定め」とか「公義」との意味があります。「公義」は普遍的な神様の正しさを意味します。「御心」として理解しても良いのです。従って、「彼は国々の裁きを導き出す」と言われていますが、彼の存在が御心を示す者として、国々の証しとなることを示しているのです。「傷ついた葦」、「暗くなってゆく灯心」に対して、神様の御心が示されて希望を与えるのです。「暗くなることもなく」、「傷つき果てることもない」のは、神様の御心があるからであると示しているのです。確かにメシアが現れて、そのように導くと示されるのですが、この「わたしの僕」は自分であるということです。神様がミシュパート、神様の御心をこの私においてくださっているということを受け止めなければならないのです。御心が与えられている、それは「主が手を取ってくださる」ことなのです。
 5節には、「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる」と記しています。神様が天地をお造りになったことは旧約聖書の創世記に記されています。神様は最後に人間をお造りになったことも記されています。神様は土の塵で人の形を造られました。まだ人間ではありません。神様は粘土の人の形、その鼻に神様の息を入れられたのであります。すると人間は生きた者となったと記しているのです。これは、一つには神話でありますが、ここに人間の存在の意味が深く示されているのです。「息」は聖書の言葉で「ルアッハ」ですが、ルアッハは「霊」、「風」とも訳されます。使徒言行録でお弟子さん達が聖霊をいただき立ち上がりましたが、「風が吹いてきた」と現しています。それはルアッハをいただいたからです。神様の「命の息」をいただいたからです。そのルアッハをあなたに与えていると記しているのがイザヤ書なのです。このことも「主が手を取ってくださる」ことなのです。御心をいただき、命の息をいただいているのは、実に私たちなのです。「主が手を取ってくださる」ので、この現実を私達は導かれているのです。この聖書のメッセージを深くいただきましょう。

 「主が手を取ってくださる」ことは、すなわち主イエス・キリストが「私の手を取ってくださる」ことです。今朝の新約聖書はマルコによる福音書7章31節以下ですが、「耳が聞こえず、舌のまわらない人をいやす」との題が付けられています。先ほども触れましたが、この題が付けられていない方がよろしいのです。題が付けられていると、「耳が聞こえない人」、「舌がまわらない人」に対するイエス様の対応が中心になってしまいます。はっきり言えば、「耳が聞こえない」のはこの私であると言うことです。「舌がまわらない」のはこの私なのです。聖書は私達に対するメッセージなのに、題に従って読んでしまいますので、イエス様の奇跡物語としか読めないのです。
 イエス様はデカポリス地方のガリラヤ湖に来ています。その前はフェニキアティルスと言うところにいました。フェニキアもデカポリスも聖書の人々にとって外国です。その外国の地でイエス様は神様の教えと御業を現しているのです。前の段落ではフェニキアの女性の娘の病を癒しておられます。そしてその後、デカポリス地方にやってきます。そこはガリラヤ湖です。そこへ人々が「耳が聞こえず舌のまわらない」人を連れて来て、イエス様に癒しを求めたのでした。イエス様は求めに応じて癒しを与えますが、この時は癒しの順序を与えています。まず、この人を群衆から連れ出すこと、指をその両耳に差し入れること、唾を付けてその人の舌に触れられること、そして天を仰いで深く息をつき、「エッファタ」すなわちアラム語で「開け」と言われたのであります。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになったのであります。
 イエス様の癒しを示されるとき、このような癒しの順序が必要なのかと思います。他の箇所では、病の人に対して、「悪霊よ、この人から出て行け」と一喝して癒しております。このような所作はありません。つまりも今朝の聖書の所作は、むしろ群衆が癒しの順序を求めているのです。イエス様が、その人を群衆から連れ出すことも特別な所作と理解しているのです。これは、遡って旧約聖書に出てくるナアマン物語でも示されています。将軍ナアマンが皮膚病の癒しを求めてエリシャのもとに来ます。その時、エリシャはナアマンに会うこともなく、「ヨルダン川に行って、七度身を洗いなさい」と言うだけでした。するとナアマンは怒りながら、「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれると思っていた」と言うのです。その後、ナアマンは家来の説得で、エリシャの言う通りにしたので癒されたのでした。
 人々が癒しの順序を心に持っているので、イエス様はそのように応えておられるのです。人々が神様の祝福のうちに生きることは、神様がもっともお望みです。旧約聖書イザヤ書35章に記される神様のご栄光を示されます。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と述べ、「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ」と励ましています。「そのとき、見えない人の目を開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口のきけなかった人が喜び歌う」と言うのです。明らかに神様のご栄光が現れたときです。
その神様のご栄光が現れているのです。主イエス・キリストがこの世に出現し、神様の御心、御業を現されました。そして、主イエス・キリストの十字架の贖いにより、そのご栄光は頂点に達したのであります。私達は十字架を仰ぎ見て、新しく生きる者へと導かれたのです。十字架の救いが、私の弱った足を強くしてくださったのです。聞こえなかった人々の声が聞こえてきたのです。今までは自分の聞きたい声だけしか聞いていませんでしたが、聞こえてくるのです。悲しみの声、苦しみの声が聞こえて来ているのです。弱っていた足は、どこにも出掛けない弱さを持っていましたが、聞こえた声に向かって歩み出しているのです。そして、今まで言えなかった言葉が出てくるのです。このことを言うとしたら、「主が手を取ってくださる」から、私達は新しい歩みが導かれているのです。「主が手を取ってくださる」と言う言い方も、私達がイエス様に求めている所作であります。私達にとって、十字架のイエス様を仰ぎ見ることで、すべてが導かれて来るのですが、やはり何らかのイエス様の導きをいただきたいのです。それを言うとするなら「主が手を下さる」ので、私達は苦しい状況でありましょうとも、悲しい状況でありましょうとも、この現実にイエス様が共におられて、私の手を取って共に歩んでくださっている、と言う信仰へと導かれるのです。「主が手を取ってくださる」ので、今の私の現実を歩みましょう。苦しくても、辛くても、悲しくても「主が手を取ってくださる」ので導かれているのです。

 この時、二年前の丁度今ごろでしたが、召天された園田澄男さんを示されます。2010年4月からこちらの教会の代務者となりましたが、就任してから間もなく園田澄男さんについてお聞きしました。教会員の園田梓さんのお連れ合いがお身体の具合がよろしくないということで、稲本さんご夫妻に伴われてお宅にお見舞いしました。そのとき、園田澄男さんは御自分が癌であり、余命何ヶ月と言われていると申されました。お連れ合いもお子さんたちも洗礼を受けておられるので、自分も洗礼を受けたいと申されたのです。そのとき、私はイエス様の十字架の救いをお話して、お祈りをささげたのでした。そして、5月23日のペンテコステ礼拝にて洗礼を受けられました。病状が進行されており、車椅子で礼拝に出席され、洗礼式に臨まれたのであります。そして、8月22日に召天されました。その日は日曜日で、礼拝は佐野治先生の説教であり、礼拝後は先生を囲んで昼食をいただいたのでした。そしてその後、私共夫婦は帰路に着くのですが、途中園田さんが入院されておられる病院に寄らせていただきました。もう随分と危ないとも言われていたのです。私はベッドに横たわる園田さんに、はっきりと「すべてをイエス様に委ねましょう」とお話し、お祈りをささげたのですが、そのとき園田さんはがくんとベッドに沈むようでした。すべてをイエス様に委ねられたのです。死を前にして、やはり不安であり、気持ちも落ちつかなかったでありましょう。イエス様にすべてを委ねたとき、力が抜け、平安に包まれたのでした。安らかなお顔を拝見しながら失礼したのですが、その夜、8時36分にご召天になられたことのお知らせをいただきました。すべてをイエス様に委ねて、平安のうちに天に召されたと示されています。
「主が手を取ってくださる」信仰は、「すべてをイエス様に委ねる」信仰です。何もかも十字架のイエス様が、この私を引き受けてくださっているのです。今朝は「主が手を取ってくださる」との信仰を示されていますが、イエス様のお導きをどのように表現されても良いのです。ある方は「主がおんぶしてくださった」と言っています。これは「あしあと」という信仰の詩です。人生を振り返ると足跡が二つある。一つは自分のもの、一つは共に歩んでくださっているイエス様の足跡です。しかし、自分の一番苦しかったとき、そのときの足跡は一つしか見えません。「主よ、なぜなのですか」と問いますと、「そのとき、わたしはあなたをおんぶしていた」とイエス様が言われたのです。「主が手を取ってくださる」、「主がおんぶしてくださる」、「主が背中を押してくださる」、どのような現し方でもよろしいのです。主イエス・キリストが十字架の贖いをもって私を見つめ、導いてくださっているのです。この現実をしっかりと受け止めて歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架のお導きを感謝致します。主のお導きをいただき、与えられているこの現実を力強く歩ませてください。キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。