説教「祝福をいただきつつ」

2012年8月19日、三崎教会
「三位一体後第11主日

説教、「祝福をいただきつつ」 鈴木伸治牧師
聖書、申命記26章1〜11節
   ルカによる福音書18章9〜14節
賛美、(説教前)讃美歌21・132「涸れた谷間に野の鹿が」
   (説教後)讃美歌21・510「主よ、終わりまで」

 今年はオリンピックが開催され、7月27日より8月12日まで、その競技に関心が寄せられ、他のことが薄らいだ思いです。私達は毎年8月になりますと平和への祈りを深めております。8月6日には広島に原子爆弾が、8月9日には長崎に原子爆弾が落とされ、もはや戦争を続けることができなくて8月15日の敗戦宣言を公にすることになりました。6月23日には沖縄戦で徹底的に打撃を受けているのですから、その時点で敗戦を宣言するべきでした。日本の指導者達はソ連の戦争介入によって、日本の取るべき処置を論議していたようですが、結局、軍国国家は決断して敗戦を宣言したのではなく、沖縄、広島、長崎の惨状を受け止めなければならず、敗戦を宣言せざるを得なかったのであります。状況を判断して、もっと早く敗戦を宣言しなければならなかったと報じていたのは、15日にNHKテレビで「戦争」についての報道でした。オリンピックはスポーツ競技の祭典です。しかし、国の代表が競い合うわけですから、もちろんそれを戦争などとは言われませんが、相手の選手、相手の国を倒すことですから、応援する者も自分の国が勝利することを願って応援しているのです。戦争と紙一重ではないかと考えさせられるのであります。スポーツであることを十分心に示されたいのであります。
 戦争について思いを馳せるとすれば、私自身は戦争の体験はありません。私は1945年、昭和20年に敗戦となり、その翌年に小学校1年生に入学した年齢です。戦争中は横浜のはずれで過ごしていたのです。生まれは横須賀市浦郷と言うところで、近くには追浜飛行場がありました。戦争が激しくなってきて、飛行場の周辺の家は強制的に転居させられたのです。私が4歳のころです。そこで横浜市金沢区六浦の地に転居することになりました。空襲警報が鳴ると近くの防空壕に避難するのですが、避難してもすぐに出て来て空を見上げていました。アメリカの爆撃戦闘機が横浜、東京方面に編隊を組んで、飛んで行くのを見たものです。この辺は爆撃されないとの思いが、その辺に住んでいた人々の思いであったようです。だから、悲惨な戦争体験を持たないのですが、戦争によって私の兄がなくなったと思っています。戦争が激しくなり、小学生は学童疎開をさせられました。私の姉、兄達が山北方面に疎開していましたが、戦争が終わり、帰って来た兄は栄養失調になっており、やがて麻疹になり、肺炎を患い亡くなるのです。
 今でも戦争が行われています。シリアの戦争は悲惨な状況です。また、戦争がないとはいえ、国と国とがにらみ合っている状況です。私達は、戦争は絶対に起こさない、平和を祈りつつ歩むことを示されています。地球上の人類が皆、神様の祝福をいただきつつ歩むことが私達の願いであります。今朝は「祝福をいただきつつ」歩むことを示されるのであります。平和の根源は主イエス・キリストの十字架であると言うことです。

 私たちが歴史を見つめるとき、日本にしても世界にしても戦争の歴史を見つめなければなりません。今も NHK平清盛大河ドラマとして放映していますが、毎年の大河ドラマは歴史ものであり、戦いの歴史を描くわけです。塩野七生さんの「ローマ人の物語」をはじめとする地中海世界の歴史物語は、皆戦いの物語でもあるのです。世界史、日本史は戦争の歴史でもあります。では今は平和なのか、いつ戦争が起きるかもしれない緊張関係にあることは確かです。聖書の人々も戦いを常に視野に入れた歩みでありました。
 今朝は旧約聖書申命記26章の示しです。申命記モーセの説教として記されています。奴隷とされていたエジプトの国から、神様はモーセを立てて救い出されました。エジプトを脱出してから荒れ野を彷徨すること40年、ついに神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地を前にして、モーセは40年を振り返りながら、神様の導きを感謝し、更に祝福をいただきながら歩むように、人々を集めて説教をしているのが申命記です。この40年、空腹の苦しみ、水がなくて渇きの苦しみ、国々との戦い等を経てきましたが、常に神様の導きがあったことを人々に思い起こさせているのです。不平、不満、苦しみの声、悲しみの声を上げつつ歩みましたが、しかし、神様の導きのもとに今、約束の土地を目の前にしているのです。まず、歴史を回顧することです。神様の導きと恵みを忘れてはならないのです。そのため、今朝の聖書は、人々に信仰の告白をするように示しているのです。
 「あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい」と示しています。まだ、約束の土地に入っていません。この後に約束の土地に入って行くのですが、そこで取れるものは神様の恵みであることを十分知ることなのです。そのため、それぞれの初物をそれぞれ籠に入れ、「主がその名を置くために選ばれた場所」すなわち神殿でありますが、心から感謝してささげなさいと教えているのです。そしてその時、祭司に対して「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告します。わたしは主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」と言いつつささげるのです。祭司がその籠を受け取って祭壇に供えるのですが、その時、恵みの賜物をささげたとき、人々は信仰の告白をしなければなりません。信仰の告白とは、歴史を顧みることであります。今ここにいること、今に至るまで神様のお導きとお恵みがあり、こうしてお恵みの賜物をささげることができる感謝であり、これからも神様の祝福をいただいて歩む決心の時なのです。
 聖書の人々の信仰告白です。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人々を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今ここに持って参りました」と告白をしなければならないのです。これが信仰の告白なのです。今、自分が手にしている収穫は神様のお導きの賜物であることをしっかりと示されなければならないのです。自分が額に汗して土地を開墾し、手に血豆を作りながら作物を栽培し、取れた収穫は自分の汗の結晶だと思います。しかし、そうではありません。汗の結晶へと導いてくださったのは神様のお導きなのです。まず、神様に感謝しておささげしなければならないのです。旧約聖書においては、歴史を回顧することが信仰告白でした。
 昔、宮城の教会で牧会していた時のことです。一人の女子青年から献金が送られてきました。勤務して、初めてのお給料をいただいたので、献金を送られてきたのでした。初めての給料をいただき、どのように用いるか考えます。このように働くことができるのは両親のお陰です。まず両親への感謝を袋に入れます。次に二人の弟がいるのですが、その弟たちにもおこずかいを上げようと袋に入れます。そして洋服代、お茶代、観劇が好きなのでその費用、それぞれ袋に入れて行くのですが、献金をしなければと思い残金を見るとあまりありません。たったこれしか献金できないと思い、最初からやり直します。両親、弟、洋服代、観劇代、そして献金になるのですが、やはり少ないのです。もう一度やり直そうと思った時、そうだ献金を一番先に決めようと言うことになりました。自分がささげるべき献金を袋に入れ、そして両親への感謝、弟たちへのおこずかい、そして、もうあまり残っていません。気持ちが変わらないうちに送ります、と記されていました。このお手紙とささげられた献金を手にしながら、まさにこの子は信仰告白をしていると思わされたのでした。まず、神様に感謝をささげること、私が今を歩んでいるのは神様のお導きであり、お恵みであることを示されるのであります。

 旧約聖書の人々は、収穫のお恵みをいただく時には、まず神様にささげ、お恵みを感謝し、自分の今日までの歩みが神様によって導かれていることを告白するのです。これは神様から示されている礼拝の基本です。ですから聖書の人々は、旧約聖書以来、その礼拝の伝統を守っているのです。その伝統を守る信仰に一石を投じたのが主イエス・キリストでありました。
 今朝は新約聖書ルカによる福音書18章9節から14節が示されています。「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえとして示されています。これはイエス様が神殿でそのような光景を見たと言うのではなく、たとえとしてお話されていることです。ファリサイ派の人と言うのは、聖書の人々はモーセを通して与えられた十戒と、十戒を基にして作られた戒律を厳格に守る人々でした。彼らは戒律を守ることを模範として示し、人々に教えていたのであります。いわば社会のエリート集団でありました。そのファリサイ派の人が神殿でお祈りしたのです。「神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のようなものでもないことを感謝致します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています」とお祈り致しました。断食は食を絶って神様にお祈りするのです。旧約聖書時代は年4回の断食でしたが、新約時代はファリサイ派の人たちは週二回の断食をしていたのです。
イスラム教でも断食は信仰の中心であり、ラマダンと称しています。今年は7月20日から8月18日までがラマダンでした。従って、オリンピック開催中はラマダンであったのです。断食と言っても、日没から日の出までは食べてよいことになっており、日中は食べられないので、夜のうちに食べておくわけです。このラマダン中のイスラム教の選手やスタッフの皆さんは大変であったようです。早く日が暮れてくれないかと待ちわびながら過ごしていたのです。イスラム世界から、オリンピックがラマダンの期間に開催されることについて抗議が出されていました。しかし、きつい戒律のようですが、事情があれば許されているようです。妊産婦や乳幼児、高齢者などは免除されるようです。高齢者は何歳からなのか、分かりません。旅行中の者も赦されるので、お金持ちはラマダンになると旅行をするということです。この期間、旅行者が多くなるということで、その後、旅行から帰ったらラマダンをさせられるということになったようです。
聖書の世界、ユダヤ教でも断食は信仰を証しするものです。断食をする者は美徳とされていました。だからこのファリサイ派の人は二度断食していることを申し述べているのです。奪い取る者でなく、不正な者でないこと、これは戒律を厳格に守っていることを報告しているのです。そして十分の一献金をささげています。聖書の民イスラエル12部族のうち、レビ族は神殿に仕える民族で嗣業を持ちません。土地が与えられていないということです。ですから他の11部族は十分の一をささげてレビ族の生活としていたのです。このファリサイ派の人のお祈りは、誠にその通りなので、問題はないと思います。歴史の導きを感謝しつつお祈りしているのです。しかし、主イエス・キリストは、神様に祝福されたのはファリサイ派の人ではなく、もう一人の人、徴税人であると示しています。徴税人も神殿に向かってお祈りしました。しかし、この徴税人は神殿のすぐ前に行くことなく、遠くに離れて、目を天に上げようともせず、胸を打ちながらお祈りしたのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とお祈りしたのです。神様に祝福されるのはこの徴税人であるとイエス様は示しておられます。

 ファリサイ派の人のお祈りは、信仰の告白をしているのですから、何が悪いかと思います。旧約聖書信仰告白は歴史を回顧し、神様のお導きとお恵みを感謝することです。ですからファリサイ派の人は、神様によって定められている戒律を守っていることを報告しているのです。信仰告白です。しかし、歴史を回顧すると言うことは、ただ神様のお導きを回顧することではありません。聖書の人々は40年間、荒れ野をさまよった時、絶えず不平を述べ、不満を爆発していたのです。歴史を回顧すると言うことは、神様のお導きと罪の歴史を回顧しなければならないのです。自分を回顧するとき、人を傷つけ、排除し、自己満足に生きた姿が浮かびあがって来るのです。徴税人はそういう自分を見つめ、神様に懺悔しているのです。その懺悔に憐れみがあり、祝福へと導いてくださるのです。ファリサイ派の人の祈りには懺悔がないのです。信仰告白には懺悔がなければならないのです。
 私達にとって主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることにより、この私の自己満足、他者排除に生きる自分を示されるのです。常に自分を中心にしなければ生きられないこの私のために、主イエス・キリストが十字架にお架りになってくださいました。徴税人が神様の憐れみを願い、祝福へと導かれましたように、私達は十字架を仰ぎ見ることにより祝福へと導かれていくのです。十字架を仰ぎ見ることが私達の信仰告白なのです。喜びにある時も、悲しみつつ過ごす時にも、苦しみをかみしめて過ごす時にも、私達は十字架を仰ぎ見ることです。それが私達の信仰告白なのです。主イエス・キリストが十字架により、すべてを解決に導いてくださり、祝福をくださるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。神様のお導きを感謝致します、十字架の贖いを信じ、常に仰ぎ見ながら歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。