説教「生きる支えをいただいているので」

2012年8月5日、六浦谷間の集会
「三位一体後第9主日

説教、「生きる支えをいただいているので」 鈴木伸治牧師
聖書、列王記上21章1〜7節
   フィリピの信徒への手紙3章5〜11節
   マタイによる福音書25章14〜30節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・238「疲れた者よ」
   (説教後)讃美歌54年版・535「今日も送りぬ、主に仕えて」


 本日の8月第一日曜日は、日本基督教団は「平和聖日」として、平和を祈りつつ礼拝をささげる日としています。言うまでもなく、8月6日の広島に原子爆弾が落とされたこと、8月9日の長崎に原子爆弾が落とされたこと、日本は大きな打撃を被り、これ以上戦争を続けられないとして敗戦を宣言したのであります。それが8月15日であります。平和聖日は日本の敗戦を記念するためであり、悲惨な戦争は繰り返さない決意でもあります。逆に日本がどこかの国に原子爆弾を落としたら、平和聖日が定められたか。定められたでありましょう。しかし、違った意味の平和聖日であると思います。原子爆弾により広島で30万人、長崎は15万人が犠牲になりました。このような悲しみの中で、もう二度と戦争はしないという決意であります。自らの痛みを知るとき、日本が与えた諸国への犠牲、被害を深く悔い改めなければならないのです。
 アメリカの原爆開発プロジェクトは「マンハッタン計画」と言われていますが、この計画の提案者はアインシュタインでありました。ドイツが原爆開発を進めているということで、アメリカも開発を進めたのです。だから当初はドイツに投下することでしたが、ドイツが降伏したため、まだ戦争をつづけている日本に向けられたのです。アメリカの原爆開発が進められ、その実験を経験した科学者たちは、この爆弾の使用を中止するよう署名して大統領に提出します。しかし、トルーマン大統領は中止を拒否します。さらに署名運動が続くのですが、軍によって妨害され、もはや計画が行きつく所まで来てしまったのです。そして、ついに日本の広島、長崎に投下されたのでした。日本でも原爆開発計画はドイツと共に進めていたのです。しかし、資源がなく進められなかった事情があります。
 今、私はマクニールと言う人が書いた「世界史」を読んでいますが、世界の歴史は戦争の歴史であります。経済問題、領土問題が戦争の根源であり、一つの国が生き伸びるために、資源獲得、領土拡張が優先されていたのです。戦争がいかに資源の損失であるか、人命がいかに犠牲になるかを知りながらも戦争が目的になっていた世界の歴史であるのです。地球上の人類が、持てる物を共有しながら、それぞれの国の存在を尊重しながら歩むことが平和の根源でありますが、やはり自分中心があり、他者排除が続くのです。
 平和聖日にあたり、示されるのは主イエス・キリストの十字架による平和の実現です。エフェソの信徒への手紙2章14節以下から示されましょう。「実に、キリストは私達の平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意と言う隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と示しています。これほどの名言はありません。平和を願う者はこの言葉を基としなければならないのです。そして、人間は一人一人が神様によって与えられている賜物によって、喜びつつ生きなければならないのです。「生きる支え」すなわち賜物を与えられていることを、十分受け止めなければならないのです。

 旧約聖書には賜物により喜びつつ生きていた人が記されています。列王記上21章1〜7節には「ナボトのぶどう畑」について記されています。ナボトと言う人がイズレエルという場所にぶどう畑を持っていました。その畑は北イスラエルサマリアの王アハブの宮殿のそばにありました。アハブはナボトに話を持ちかけます。「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払っても良い」と言うのです。それに対してナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と断るのです。嗣業とは、家族が受ける土地や財産を意味します。聖書の人々はエジプトを出て、神様の導いてくださる「乳と蜜の流れる土地」カナンに入ります。そこには現地の人々がいるわけで、戦いつつ土地を所有するようになります。しかし、聖書の人々は、この土地は戦いによって得た土地とは考えず、神様がくださった嗣業と受け止めているのです。今の自分達家族が得ている土地は先祖から神様によって与えられた土地であり、この土地は神様の賜物であり、この賜物により生きることが使命であると信じていたのです。だからナボトは、たとえ王様であろうと、神様からいただいた賜物を譲ること、売ることなど思いも及ばないのです。
 アハブ王はナボトの言い分を聞くと、すごすごと宮殿に帰り、面白くなくて食事もとらないで不貞腐れているのです。それを見た妻のイゼベルは、自分が王にナボトの畑を手に入れてあげるというのです。イゼベルはナボトが住む町の長老や貴族に手紙を書き、「ナボトが神と王を呪った」とならず者に言わせ、町の人々はこれを聞いてナボトを石で撃ち殺してしまうのです。アハブが早速ナボトの畑を自分のものにしようとしたとき、神の人エリアが現れます。神様の審判があることをエリアから聞いたアハブ王は、衣を裂き、粗布を身にまとって断食し、心から悔い改めたのでした。この悔い改めの故に、神様はアハブ王に審判を下さなかったのですが、後の時代にアハブ家への審判がくだされるのです。
 このように土地は人々の嗣業ですが、聖書の示しは聖書の人々自身が神様の嗣業として告白しています。モーセシナイ山に登り、神様から十戒を授かります。十戒を基として生きるならば、聖書の人々は祝福の民でありますが、その場合、聖書の人々は神様の嗣業となります。十戒を授けられて下山すると、人々は金の子牛を造り、その周りで踊り狂っていたのでした。偶像崇拝を目の当たりにしたモーセ十戒を破壊します。そして、神様は再びモーセ十戒を授けます。その時、モーセは地にひざまずいて神様に申しあげます。「主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください」とお祈りしたのでした(出エジプト記34章4節以下)。この場合、神様の嗣業なのですから、嗣業である聖書の民は、戒めと定め、すなわち十戒を守りつつ生きることが、まことの嗣業としての民と言うことです。

 嗣業は神様の賜物であることを示されています。与えられた賜物を通して、さらに賜物が祝福されなければならないのです。
 新約聖書の主イエス・キリストの教えは祝福の賜物を持つということです。マタイによる福音書25章14節以下が今朝の聖書です。「タラントン」のたとえ話です。25章は「十人のおとめ」のたとえ、そして「タラントン」たとえ、「すべての民族を裁く」たとえ等をお話していますが、これらの教えを与えて二日後には捕らえられ、十字架に架けられるのですから、イエス様の最後の教えになるのです。
 「タラントン」のたとえは「天の国はまた次のようにたとえられる」としてお話されています。「また」と言われていますが、その前の「十人のおとめ」も天の国の教えでした。天の国はいつやって来るか分からないので、そのためには日ごろの備えが必要であることを教えているのが「十人のおとめ」のお話です。「天の国」の到来と「終末」を重ねて教えています。終末はこの世が終わることです。この世の終わりに天国は到来することですが、その時には神様の御心を持って生きた人が祝福されることを教えています。そのためには、終わりの天の国ではなく、生きている今こそ天の国を生きなければならないのです。それには日ごろの備えが必要ですが、与えられた賜物を十分に用いながら生きることが大切なのです。それが「タラントン」のたとえ話になります。
 ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けました。それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、一人には1タラントンを預けました。タラントンを換算してみますと、1タラントンはギリシャの貨幣単位ですが6000ドラクメに相当します。ドラクメはローマの貨幣単位デナリオンと等価です。従って6000デナリオンですが、1デナリオンは一日の日当として示されています。日本的に換算して、一日の日当は多く見て10000円とすれば、1タラントンは6千万円となり、5タラントンは3億円と言うことになります。かなりの財産を預けられたことになるのです。二人の人は預けられた財産で商売をします。すると、それぞれ陪の利益を得るのでした。5タラントン預けられた人は6億円にもなったということです。2タラントンを預けられたた人は1億2千万円にもなったのです。ここで疑問が出てきますが、主人から預けられた財産で、勝手に商売などして良いのだろうかということです。預けるということは財産の管理を任されるということなのです。財産の管理ですから、そのままにしておいては管理とは言えないのです。管理を任された以上、いかにこの財産が利益を生むかということになります。財産を預けられた人たちは、そういう意味で商売をしているのです。もちろん、帰って来た主人は財産が増えているので喜んだわけです。
 主人の財産を預けられたもう一人の人がいます。この人は1タラントンを預けられました。この人は、預けられたのですから、穴を掘って隠しておいたのです。私たちは、むしろこの人の方が正しいと思います。預けられたのですから、勝手に商売なんかできないと思ってしまうのです。商売をしたことに疑問を持つのですから。主人は、預けられた財産がそのままであることで、この僕を叱るのです。このあたりも理解しにくいのですが、タラントンは神様が人間に与える賜物であることを示されることによって、このたとえ話から示されて来るのです。タラントンとは貨幣単位ですが、聖書のこの教えから賜物、能力、才能などと理解されるようになっています。口語訳聖書は「タレント」と訳していました。タレントと言えば、特別な才能がある人を言いますが、今ではテレビの世界で演じている人をみんなタレントと称しています。
 このイエス様のタラントンのお話は、「それぞれの力に応じて」タラントン、賜物が神様によって与えられていることを示しているのです。「それぞれの力に応じて」いるのですから、多くの賜物を与えられている人もあり、また少しの賜物をあたえられている人もいるのです。多い、少ないの問題ではなく、与えられている賜物をどのように用いるかということです。だから、たとえ話の主人は多い、少ないを問題にしているのではなく、賜物を用いたことを祝福しているのです。このたとえ話は、天の国のたとえですから、天国に生きる者は、自分に与えられている賜物を用いて生きるということなのです。
 賜物を用いて生きることは、人間は皆そのように生きています。自分の力、才能を模索し、それを用いて懸命に生きているのです。今はオリンピックが開催され、スポーツの祭典を喜んでいます。スポーツで才能、力を持つ選手たちの活躍は喜びと希望を与えてくれています。オリンピック競技を見ながら、人間は何らかの力があるものだと示されるわけです。タラントンのお話は、人間には誰にも力、才能、能力が与えられているのです、と示されるのですが、この「タラントン」の教えは、それだけの教えなのでしょうか。

 神様は私たちにタラントン、賜物を与えてくださっています。その場合、パウロは「神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」(ローマの信徒への手紙6章23節)と示しています。ここに賜物の真実の意味があります。神様の賜物は主イエス・キリストを私たちに与えてくださったということです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)と教えられています。従って、イエス様と言う賜物をいただいている私たちは、イエス様と言う賜物によって生きることです。それによって永遠の命へと導かれるからです。私たちに与えられているタラントンは、イエス様の御心にある賜物であるということです。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまずに施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」(ローマの信徒への手紙12章6節以下)と示されています。
 主イエス・キリストの十字架の贖いをいただいて私たちは、「隣人を自分のように愛する」者へと導かれているのです。それが賜物であり、その賜物により他者を自分に受け入れつつ共に生きること、「支えをいただいているので」共に生きる者へと導かれているのです。「タラントン」の教えは、人間に与えられた能力・才能・賜物を用いることですが、主イエス・キリストの御心を実践すること、すなわち「隣人を自分のように愛する」人生が「タラントン」を倍に増やすことになるのです。支えをいただいていますから、倍になるのです。神様の賜物は私が永遠の命に生きることへと導いておられるということです。
<祈祷>
聖なる御神様。賜物をくださり、隣人と共に生きる者へと導いてくださり感謝します。賜物が豊かに祝福されますよう御導きください。主の御名によりおささげします。アーメン。