説教「新しく生きる」

2010年10月31日 
「降誕前第8主日

説教・「新しく生きる」、鈴木伸治
聖書・創世記9章8-17節、ローマの信徒への手紙5章12-21節、
ルカによる福音書11章33-41節


 今朝、10月31日は宗教改革記念日であります。この宗教改革によってプロテスタント教会が始まったのであります。もともとキリスト教ローマ帝国に迫害されていました。ローマ帝国は皇帝を神とし、皇帝崇拝を強要したのであります。主イエス・キリストにより神様の救いを与えられた人々は、人間を拝むことは絶対にしませんでした。ローマ帝国によって、どんなに迫害を受け、たとえ命を落としても、人間を拝むことなく、神様のみを拝み、十字架の救いを喜びつつ生きたのでした。ローマ帝国はこのクリスチャンと呼ばれる人々に脅威を持つようになり、このような強い信仰の根源である神様を受け入れたのです。そこでできたのがローマ・カトリック教会でありました。法王を中心にして体制的なキリスト教国家が出来上がり、ヨーロッパ世界をローマ・カトリック教会として統一して行ったのでありました。
 しかし、発展は堕落を生み出すのです。西洋史の16世になりますと、教会はすべてにおいて堕落していたのです。その一つが免罪符というものでした。大きな教会を建設するために資金が必要であります。そのために免罪符が売り出されました。この免罪符を買えば、どんな罪をも赦されるとの触れ込みです。お札を買えば罪が赦されるのですから、人々は喜んで買うことになります。その頃からローマ・カトリック教会に対し批判する人々がおりましたが、面と向かって批判したのがマルティン・ルターと言う人でした。ルターはカトリック教会に対し95の問題点を書き出し、教会の扉に張り付けたのでした。それが1517年10月31日であったのです。「九十五個条の堤題」と称しています。そこから論争が始まり、ついにルターは教会から破門されます。法王を中心とするカトリック教会に対し、よく思っていない国々があります。ドイツはルターが反旗を翻したことを歓迎し、ルターを受け入れました。ルターは聖書の翻訳、また解釈をして新しい信仰を導いたのです。何よりもルターは、人が神様によって義とされるのは、人の行いではなく、まして免罪符を買うことではなく、神様を信じる信仰によって義とされることを聖書から示されるのであります。パウロはローマの信徒への手紙3章28節で、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるものである」と示していますが、ルターはこの示しを深く受けとめました。そして、「人が義とされるのは、信仰によってのみである」と人々に教えたのであります。「信仰によってのみ」が神様に義とされると示したのでありました。
 ルターの聖書への取り組みはヨーロッパ中に広がって行きました。あちらこちらで宗教改革運動が広がって行ったのです。ローマ・カトリック教会に抗議(プロテスト)してできた新しい教会はプロテスタント教会と称されるようになったのです。カトリック教会は普遍的、公同的という意味であり、旧教とか新教との言い方をするのは間違いであります。カトリック教会もプロテスタント教会も神様を仰ぎ、主イエス・キリストの十字架の救いを信じて歩む人々なのです。宗教改革の意義は神様の御心に立ち帰ると言うことでありました。今朝は宗教改革の意義を示されつつ、新しく生きる者へと導かれたいのであります。

 旧約聖書はノアの洪水の物語です。神様の救済の示しであります。今朝の聖書は創世記9章ですが、洪水物語は6章から始まっているのです。地上には人が増え、増えた人々は次第に悪に染まり、常に悪いことばかりを心に思い計るようになってしまいました。そこで神様は、「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われました。これは神話の世界ですから、神様のお心を人間的にあらわしているのです。しかし、神様はノアとその家族を顧みました。ノアとその家族は残し、後は滅ぼすことになったのであります。そのため、神様はノアに大きな箱舟を造ることをお命じになりました。箱舟の長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマの箱舟といいます。1アンマは約45㎝です。従って、長さ135m、幅22m、高さ13mと言うことになります。やはりかなり大きな船になります。箱舟ができあがりますと、すべての動物を一つがいずつ箱舟に入れ、そしてノアの家族が箱舟に入ります。ノアの家族はノアの妻と三人の息子たちでした。彼らが箱舟に入ると雨が降り出します。そして、水かさが増え、ついに箱舟が浮かびました。洪水となり、すべての生き物は死に絶えたのでした。水は150日の間、地上にあふれていました。しかし、次第に水が引きはじめ、乾いた地になりましので、ノアとその家族、動物たちは大地に降り立ったのであります。ノアは、まず神様に礼拝するために祭壇を築きました。そして家族と共に礼拝をささげたのであります。そこで神様から祝福の約束が与えられましたが、今朝の聖書になります。
 神様はノアと彼の息子たちに言いました。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と言われるのであります。そして神様がノアに交わした契約は、「わたしは雲の中にわたしの虹を置く」と言うことでした。つまり、虹が出ることは、神様が契約をお示しになっているということなのです。虹は恵みの雨の晴れ間にできる現象です。まさに神様のお恵みのしるしでもあります。お伽話のようですが、真理が示されているのです。
 こうして神様はノアを通して新しい人間を導きました。しかし、人間は相変わらず、思うことは悪い計りごとでありました。再び神様の審判があるとは新約聖書の時代になって示されて来るのです。すなわち終末信仰というものです。イエス様ご自身も終末の示しを与えておられるのです。「その日、その時は分からない。いつ終末を迎えても、神様の祝福をいただく歩みをしなさい」との示しをイエス様がくださっているのです。
 神様はノアを通して新しい人間を導いておられるのです。それは、今日においても新しい人間へと導いておられるのです。新しい人間は神様の御心を示されて生きるのです。時には現れる虹を見ては神様の御心を示されるのです。新しい人間は他者を受け止めて生きます。共に生きることが神様の御心なのです。互いにその存在を受け止めながら生きるということです。ノアの洪水、バベルの塔、ソドムの滅亡等、悪をお嫌いなさる神様の審判を聖書は証ししているのです。
 それでは悪とは何でしょうか。聖書が悪と言い、罪と指摘しているのはアダムさんとエバさんの堕罪です。創世記3章に記されています。神様はアダムさんとエバさんをエデンの園に置きます。二人は園の中で自由に過ごしていましたが、神様は一つだけ戒めを与えました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じられました。二人は神様の戒めを守って過ごしていましたが、ある時、蛇なる存在が現れました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と二人に言うのです。言われてみると、なんとなく気になります。二人は戒めの木を見ました。「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」ということです。彼らは思わず食べてしまったのです。聖書はここに罪があると示しています。たとえ戒めであろうと、おいしいものを食べること、目を引き付けること、賢くなることは人間の根本的な欲望なのです。この欲望を満たすために人間は生きることになるのです。それは自己満足であり、他者排除につながって行きます。自己満足は基本的には悪いことではありません。しかし、自己満足が高まることにより他者排除になり、自分の世界を築いてしまうことになるのです。
 創世記においてノアの洪水物語も、バベルの塔の物語も、ソドムの滅亡も聖書が示す罪の世界に染まったからなのであります。神様はその人間を救うために、モーセを通して十戒を与え、預言者を通して御心を示されたのであります。しかし、人間はどうしても罪を克服できないのであります。克服できない人間のために、神様は主イエス・キリストをこの世に現してくださったのです。

 「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らす時のように、全身は輝いている」と主イエス・キリストが示しています。ルカによる福音書11章33節以下が今朝の聖書です。「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」とも言われています。私の中にある光とは神様の御心であります。創世記で示された原罪は、人間は克服できません。自分の思いではなく、神様の御心をいただくことで、自分の中に光がともされるのであります。
 37節以下で、イエス様はファリサイ派の人に食事を招待されました。イエス様が食事の席に着くと、招待した人は不審に思います。食事の前には身を清めるのですが、イエス様はそれをしなかったからです。不審に思っている人に、「外側をきれいにするのではなく、内側を清める」ことを教えられました。「外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちはすべてのものが清くなる」と示されたのであります。人は目に見える外側のことばかりが気になります。本当に気にしなければならないのは、内なる姿であります。内なる姿は神様によって養われなければならないのです。
 結局、人間は神様の戒めを真に受け止めることができなかったのであります。内なる光も、いつも自己満足で消してしまうことになるのです。内なるものを導かれる神様の御心には従い得ない存在でありました。どうしても内なる光を持てない人間に対して、神様は主イエス・キリストをこの世に現しました。イエス様は神様の御心を示し、現実を神様の国として生きることを導かれたのです。それでも内なる光を持てない人間に対して、神様はイエス様を十字架にお掛けになりました。イエス様は当時の指導者たちの妬みにより、十字架にかけられてしまうのですが、神様はその十字架の救いを人間の原点にされたのであります。主イエス・キリストの十字架の死と共に、私の中にある自己満足、他者排除を滅ぼされたのであります。従って、私たちは十字架を仰ぎ見ることにより、内なる姿が明るくなっていくのであります。その救いを信じて洗礼を受けました。洗礼を受けると天使のように、いつも輝いているのかと言えば、そうではありません。いつも十字架を仰ぎ見つつ、内なる自己満足、他者排除と闘うのです。その信仰の生活を導くのが主の聖餐式なのです。イエス様の御体をいただくことで、十字架の救いを再び示され、内なる光を輝かすことができるのであります。

 今朝は宗教改革記念日であり、マルティン・ルターの信仰を示されています。彼の父は坑夫でありましたが、後に抗山の所有者になりました。自分は労働者であることに対して、息子には学問を授け、最高の教育を授けることが願いでした。それで大学に入れるのです。その大学は一般教養学部であり、さらにルターは専門の文学部に進むのであります。そこで学んでいる時、重要な体験を致します。ルターの親しくしている友人が突然襲った病で死ぬことになります。それによりルターは人間の死に向き合うことになるのです。さらに死の体験を致します。それは落雨の中で落雷に出会いました。まさに自らが死の体験をするのです。これらの死の体験が、修道院に入ることになるのです。修道院で神学、哲学、聖書学等を学びますが、第二の体験をすることになります。第一の体験は死と向きあうことでしたが、第二の体験は自分に迫る神様の愛の体験であります。それを「塔の体験」と称していますが、自己を見つめ、自らが罪の存在であることを知るようになるのであります。その中から、「人が義とされるのは、行いによるものではなく、信仰によってのみ」であることが示されて来るのであります。
 死と罪の問題は人間の根本的な課題でもあります。前週は26日から28日まで日本基督教団の総会が池袋のホテル・メトロポリタンで開催されました。全国から約400人が集まり、日本基督教団の宣教の課題を協議したのであります。二日目の朝に逝去者記念礼拝が行われました。2年前の総会から今回の総会までに召天された教師、宣教師を覚えつつ礼拝をささげたのであります。召天された先生たちのお名前が読み上げられながら、やがて私も読み上げられるとの思いを持ちました。これらの先生たちは神様の導きをいただき、牧師になり、罪の赦しの福音、十字架の救いと神の国に生きること、永遠の命への道を人々に示されました。そして、ついに御もとに召されて行かれたのであります。私たちは忘れようとしている死の問題、罪の問題をしっかりと見据えなければならないのであります。イエス様がお示しくださったのは、現実を神の国として生きることでありました。たとえ現実が苦しく、悩み多い状況でありましょうとも、十字架の救いを与えられているのですから、現実は神の国に生きているのであります。常に神の国に生きることが、新しく生きることなのです。私たちはいつも新しい人間なのです。新しい人間は、一人の存在と向きあい、イエス様の愛を実践することが導かれるのであります。
<祈祷>
聖なる神様。十字架の光が私に差し込んでいます。感謝致します。現実を神の国として、新しく生きることを得させてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン