説教「ただ、神の国を求める」

2010年10月24日 
「降誕前第9主日

説教・「ただ、神の国を求める」、鈴木伸治
聖書・ヨブ記38章1-18節、使徒言行録14章8-17節、
ルカによる福音書12章13-31節


 前週の日曜日、17日の礼拝は高輪教会に出席させていただきました。連れ合いのスミさんの出身教会になります。10日は私の出身教会である清水ヶ丘教会に出席しました。今後、どのように落ち着いて行くか分かりませんが、今は牧会の責任を持たない身分なので、今のうちに、お世話になった教会の礼拝に出席しましょう、ということで出席したのであります。高輪教会の皆さんについては、連れ合いから皆さんのことは聞いていますが、初めてお会いする方々でもありました。私が教団書記であるということで、議長団席にいる私を知っていると言う方もおられました。礼拝には100名位の皆さんが出席され、賛美をささげ、御言葉に向かっていたのであります。皆さんは、「ただ、神の国を求める」生活をされているのであります。高輪教会ばかりではなく、全国の諸教会に人々が礼拝に出席され、神様を礼拝していることは、大きな希望であります。日本の救いは日曜日から始まると言うことができるでしょう。礼拝にて御言葉を示され、力を与えられ、聖霊に押し出されて、それぞれの場へと派遣されていくのであります。
 礼拝が終わると牧師が玄関に立ち、皆さんと挨拶をし、送り出していくことも、さらに力が与えられるということです。前任の教会、またその後の代務の教会も、教会の入口が玄関だけでなく、他にもあるということで問題を感じていました。礼拝が終わり、皆さんにご挨拶するため玄関に立つのですが、あまりお送りする人はいないのです。別の出入り口から帰られてしまうからです。礼拝の出席は、教会の玄関から出入りしてください、と何回かお知らせしたことがあります。教会の玄関には「招きの言葉」、「礼拝案内」等が掲げられており、玄関を入ればスリッパが並べられており、それらの備えを確認しつつ礼拝に臨むべきなのです。余談でありましたが、礼拝に導かれ、共に神様に向かい、神の国に生きる導きを与えられること、私たちの基本的な歩みであります。今朝は、私たちをお導きくださる神様の創造の御業を示され、大きな御業の中に包まれていることを示されたいのであります。

 旧約聖書ヨブ記の示しであります。ヨブ記は文学的な記述により神様の御心を示しています。旧約聖書は創世記からエステル記までが歴史書と言われています。その次のヨブ記から雅歌までを文学書と称しているのです。そして、その後のイザヤ書から終わりのマラキ書までを預言書と称しています。今日は文学書のヨブ記であります。文学書ですから、歴史的な事実を述べているのではなく、物語を設定して、そこにおいて神様の御心を示しているのです。
 ヨブ記の設定は、義人ヨブさんが神様の御心に従い、神様を敬いつつ歩んでいます。10人の子ども達、たくさんの財産があり、まさに恵まれた人でした。ある日のこと、天上において神様の御使いたちが神様の前に集まります。神様はサタンに対して、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」というのであります。するとサタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」というのです。私たちはサタンといえば、悪魔的な存在と思っています。しかし、旧約聖書の世界は、サタンは神様のお使いの一人なのです。サタンが勝手に悪いことをすることはできません。神様のお許しをいただいて、人間に被害を与えるのであります。要するにサタンは、ヨブが信仰深いのは、神様がお恵みを施しているからだと主張しているのです。ヨブに恵みが無くなれば神様を呪うとまで言っています。
 すると神様は「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には手を出すな」と言われました。サタンは早速実行にかかります。ヨブの子ども達は災害で皆死んでしまいます。多くの家畜、財産も失われてしまうのです。どん底に落とされたヨブでした。その時、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と告白するのです。サタンの予言した「神を呪う」ことはしません。むしろ、どん底の苦しみの中から神様を賛美しているのであります。サタンは、ヨブは自分自身に痛みがあるなら、必ず神を呪うと主張します。神様の赦しを得て、サタンはヨブ自身に被害を与えるのです。ヨブは体全体が皮膚病になり、陶器のかけらで体中をかきむしるのでした。その時、ヨブは、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」と告白したのであります。サタンの思惑は外れたのであります。ヨブ記はそこまでがプロローグであり、そこから本論に入ります。本論は三人の友人とヨブの論争になります。そして神様の介入があるのです。
 ヨブの災難を知った三人の友人が見舞いにやってきます。彼らは一週間の間、ヨブの悲惨な姿を、ただ見つめるのみでありました。どんな慰めの言葉も見つからないのです。しかし、ようやく言葉が出てきたとき、ヨブがこのような災難に遭うのは、ヨブが悪いことをしたからであり、悔い改めることであると結論づけます。その為、三人は順次慰めの言葉を述べますが、それは悔い改めの勧告であったのです。それに対して真っ向から立ち向かったヨブです。罪と言い、悔い改めを迫っていますが、全く身に覚えのないことであります。三人の友人とヨブとの激しい論争が本論で続くのです。
 そこで、今朝の聖書は、ついに神様が登場する場面であります。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」のであります。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」と示し、神様の創造の御業を示されています。その創造の業の中にいるヨブであり、何事を論じても、まことに小さな存在であることを示しているのです。「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」と言われます。創造に関与しているのかということです。小さな存在が、神様の創造に対して何を語れるかということです。ついにヨブは悟るのです。「あなたは全能の神です。わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」と告白するのでした。自分には罪がないと主張して来ました、三人の友は因果応報的に悔い改めを迫っていました。罪がないと主張するヨブでしたが、神様の偉大なる創造の中で、まことに小さな存在であること、自分を主張している自分自身が罪の存在であることを、ヨブは知ることになったのであります。自分において潔白を証明するのではなく、神様の御心において生きていることの証しこそ大切であることなのです。
 自分を受けとめ、自分がそれ以上でもそれ以下でもない、この自分を神様が導いてくださっていることを知ることであります。まだ公開されていない映画ですが、「100歳の少年と12通の手紙」という映画が11月6日より公開されるそうです。公開されてないのに、お話するのは、この映画の紹介をクリスチャン新聞のネットで知ることができました。オスカーという少年は白血病になり、余命いくばくもないのです。両親は隠していますが、次第にオスカーは自分の命を知るようになります。元女子プロレスラーのローズさんンは言葉もぞんざいなのですが、なぜかオスカーはこのローズさんには心を開くのです。ローズさんは故郷の言い伝えになぞらえて「一日を10年と考えて生きよう。そして毎日、神さまに宛てて手紙を書こう」と勧めます。サンタクロース同様に神さまの存在を信じられないオスカーには、気の進まないことでしたが、毎日の出来事と自分の考え、疑問を書き綴るうちに、オスカーにとって神さまは確かな存在者となっていくのであります。毎日、手紙を書くと、ローズさんが風船に手紙をくくりつけ、空に飛ばしていくのです。一日が10年ですから、10日間で100歳になりました。神様に自分のすべてを委ねて神様のもとに召されていくのでした。
 自分を受けとめること、この自分を神様が導いてくださっていることを信じることであります。自分で自分の何を論証し、自分を証明しようとするのでしょうか。ヨブは知ったのです。ただ、神様の御心を求めて生きることであるということであります。

 「自分のために富を積むのではなく、神様の前に豊かになりなさい」と主イエス・キリストは教えておられます。神様の御心に生きる者が神様の祝福をいただくのであることを示しておられます。ルカによる福音書12章13節以下はイエス様が人間の生き方について示しておられます。まず、豊かな財産を持っている人を例に挙げています。どんなに財産があり、その財産に依存する生き方は、真の祝福の道ではないと示しているのです。人間はどんなに富を築いても、地上のことであり、天国には関わらないのです。財産で安心しても、天国には結びつかないということです。だから、もし財産があるなら、その財産を用いて神様に祝福されるような証をするべきなのです。
 人間は生きている以上、毎日のさまざまな思い悩みを持っています。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」とイエス様は示しています。よく考えれば、食べること、着ることは大切であり、これらがないことの悩みは深刻であります。しかし、イエス様は、これらを否定しているのではありません。後で、「これらのものは加えて与えられる」と示しているのです。まず、しなければならないことなのであります。「ただ、神の国を求めなさい」と教えておられることです。自分の存在、自分を証明する、自分の位置付け、そういう自分の生き方ではなく、神様がくださる自分の生き方に身を置くと言うことなのです。そのために空の鳥、ここでは烏であります。旧約聖書の世界では、烏は汚れたものになります。汚れた烏でさえ、神様が顧みて、養ってくださるのです。自分がどのようであるか、あるいは他者が自分をどう評価しようと、神様がわたしの存在を受けとめてくださっていることを受けとめるべきなのであります。あるいは野原の花を見なさいと示しています。神様が養い、支えてくださっている証が野原の花、空の鳥であるのです。まして、あなたがた人間にはなおさらのこと、お恵みをくださり、導きを与えてくださっていると示しておられるのです。私たちは何も思い悩む必要はありません。神様のお導きに委ねることなのです。神様のお恵みを確認することなのです。そして、「ただ、神の国を求める」ことなのであります。そうであれば。必要なものは添えて与えられるのです。
 神の国を求めて生きるとき、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と示しておられます。そして、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることの財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と教えておられます。今朝の聖書の最初に「愚かな金持ち」のたとえを示されていますが、その結びの言葉が、「富を天に積みなさい」ということなのです。「擦り切れることのない財布」を作りなさいと示しています。つまり、お金をいっぱい財布に入れ、そしてすぐにお金が出ていくことなのです。私たちは聖書を読んでお金持ちになることはいけないことであると思ってしまいます。金持ちであり、財産がありすぎて、もっと大きな蔵を作った。そしたら神様にとがめられたお話でもあるからです。しかし、そのお話の終わりにも示されているように、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」と示されています。そして、「思い悩むな」を教えられ、「擦り切れることのない財布」を示しているのであります。擦り切れることのない財布は天国に富を築くためのものなのです。

 ジョン・ウエスレーという人はイギリスにおいてメソジィスト運動の創始者として知られテいます。キリスト教おいて秩序ある信仰に生きる人々の群れです。信仰覚醒運動を起こした人とも言われます。このジョン・ウエスレーの説教に「大いに稼げ」という示しがあります。「第一に、できるだけ稼ぎなさい。あまり高い金を払って買ったり、それが価するより以上支払ったりすることなく、私たちは稼げる限り稼がなければなりません。しかし、生命を犠牲にしたり、健康を犠牲にして金を儲けてはなりません。第二に、私たちは体の場合と同じように、心をも傷つけることなく、できる限り稼ぐべきです。第三に、私たちは隣人を傷つけることなく、できるだけ稼ぐことです。そして、できる限り倹約しなさい。貴重な金を海中に投げすててはいけません。このようにあなたは大いに稼ぎ、できる限り倹約し、そしてできる限り与えなさい。」以上は要点を記しました。お金持ちになることは大切なことであります。稼ぎ、倹約し、与える、これがジョン・ウエスレーの示しであります。聖書のイエス様のお示しを取り次いでいるのであります。
 私たちは神様の創造の中に生かされています。自分という存在が大切であることを示されます。しかし、私たちは、やはり自分中心に生きてしまいます。神様は創造の中にある存在が喜びをもって生きることができるように、主イエス・キリストを十字架の贖いにより、私たちが喜んで他者と共に生きるように導いておられるのです。ただ、神の国を求めて生きることです。その場合、ただお祈りして生きると言うのではなく、大胆に稼ぎ、大胆に倹約し、大胆に与えることが求められているのです。それが、神の国を求める生き方なのです。さあ、大胆に十字架に向かいましょう。大胆に稼ぎましょう。そして、神様の豊かな祝福をいただきましょう。
<祈祷>
聖なる神様。神様の創造の中に生きることができ感謝致します。御心のように大胆に隣人と共に歩むことを得させてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。