説教「いやすキリスト」

2011年2月27日、六浦谷間の集会 
降誕節第10主日

説教・「いやすキリスト」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨブ記2章1-10節、使徒言行録3章1-10節
ルカによる福音書5章17-26節
賛美・(説教前)讃美歌21・194「神さまは、そのひとり子を」、
(説教後)356「インマヌエルの主イエスこそ」

 今年のイースターはもっとも遅い4月24日であります。こんなに遅いのは珍しく、当分はこんなに遅いイースターはないでしょう。従って、例年ですと2月の末ともなれば受難節を歩んでいるのであり、主のご受難を示されながら導かれているのであります。クリスマス後は、主イエス・キリストの宣教について、段階的に示されて行きますが、今年も「教えるキリスト」、「いやすキリスト」、「奇跡を行うキリスト」を示されつつイエス様の宣教が深まっていくことを示されるのであります。前週は「教えるキリスト」として、イエス様の「種を蒔く人」のたとえについて示されました。この聖書の内容はマタイによる福音書、マルコによる福音書にも示されていますが、ルカによる福音書の示しは、二つの福音書とは異なった解釈を与えているのであります。
 マタイは良い土地に落ちた種について、「悟る人」であり、マルコは「受け入れる人」であります。しかし、ルカは「善い心で御言葉を聞く」人なのであります。ただ蒔かれるということではなく、積極的に蒔かれることを待ち望んでいるのであります。そして、「よく守り」と示されるように、努力して御言葉を守りつつ歩むのであります。そして、「忍耐して」御言葉による人生を生きるのであります。御言葉を蒔かれ、悟り、受け入れても、生活の上で、社会の人間関係においての戦いがあります。ルカは、御言葉に対する取り組みを示しているのであります。従って、たとえの説明の中では、「実を結ぶ」と言っているのであり、百倍とか30倍、60倍とは言いません。それぞれの姿において「実を結ぶ」のであります。その人の信仰の人生において実を結ぶことが導かれるのであります。
 今朝は「いやすキリスト」でありますが、癒しについてもそれぞれの福音書の取り扱いが異なることを示され、イエス様の癒しを示されたいのであります。「癒し」は病気、体の障害等が治ることであります。イエス様にお願いしたら病気が治ったということになれば、当然のことながら多くの人がイエス様に癒しを求めるでありましょう。福音書には死者をよみがえられたことまで記されています。イエス様にお願いすれば、病気は治るし、死んでも生き返ると言うことになります。そうするとイエス様にお願いした人は、死ぬことはなく、病気にもならず、永遠に生きるのでしょうか。そんなことは無いことは言うまでもありません。病気を癒された人だって、やがては死ぬのです。イエス様によって死んだ人が甦りましたが、そのままずっと生きているのか。そうではなく、やがて死ぬでしょう。人間は生まれます。しかし、死んでいくことは人間の姿なのです。そういう人間の自然な姿において、癒されること、甦ることを示している意味を知らなければならないのです。
 以前、教会員のご夫婦であり、夫人が病気になられました。お連れ合いは、夫人の病気を治してもらおうと、いろいろな病院を訪ね、またいろいろと試みていました。そして、日夜祈り続けていたのであります。しかし、夫人は召されて行きました。お連れ合いは、その時、神様はお祈りを聞いてくれなかったと言われたのであります。あれほど、日夜祈り続けたのに、癒しを与えてくれなかったと言われ、それを皆さんにお話しているのです。だからと言って教会から離れたわけではありませんが、夫人のことになると、神様は祈りに応えてくれなかったと言い続けているのです。病気と信仰、癒されることが信仰の力だと思うのは間違いと言えるでしょう。先ほども触れましたように、神様にお願いしたら癒されると言うことであれば、人間は死ぬことも無く、病気にもならないのです。人間は死んでいくのです。その死をどのように迎えるか、病気をどのように受容するか、それが信仰の導きなのです。

 まず旧約聖書ヨブ記から示されましょう。旧約聖書は歴史書、文学書、預言書に分けられます。このヨブ記は文学書であります。だから一つの物語でありますが、この物語を通して信仰と人生、病気と信仰の課題を示しているのであります。
 天上において、天使達が神様の前に集まりました。その時、神様はサタンという天使に言うのです。旧約聖書ではサタンは神様のお使い、天使の一人なのです。神様に敵対する存在になるのは新約聖書の時代になります。旧約聖書では神様に従うサタンであります。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」と神様はサタンに言われました。実は、今日の聖書は第二弾ということになるのです。第一弾はもうすでに行われました。サタンが神様に言ったのは、「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」ということです、そこで神様はサタンがヨブの財産に触れることを許すのでした。サタンはヨブの豊かな財産をことごとく無くし、10人の子ども達まで死んでしまうのでした。その時、ヨブは神を呪ったのか。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と告白し、神様を呪うことはありませんでした。神様はこのヨブの信仰を受け止めて、今またサタンに言っておられるのです。サタンは、ヨブは自分の命に別状がないので、神様を呪わないのであり、彼の骨と肉に触れれば呪うに違いないと言うのであります。神様はサタンがヨブの骨と肉に触れることを許されました。そのため、サタンはヨブの頭のてっぺんから足の裏まで、ひどい皮膚病にかからせます。ヨブは灰の中に座り、素焼のかけらで体中をかきむしるのでした。その時、ヨブは神様を呪ったのか。「わたしたちは、神から幸福をいただいているのだから、不幸もいただこうではないか」と告白したのであります。ここに信仰の原点が示されているのであります。
 このヨブ記においては、病気を治してくださいとか、恵みをくださいとか、ヨブの願いはひとつも記されていません。ヨブは現状を受け止め、豊かな時も貧しくなった時も、喜びあふれるときも、悲しみに暮れるときも、大きな痛みがあるときも、すべては神様のお導きとして受けとめているのであります。豊かな時もどん底の時も、ヨブは変わらずに神様を仰ぎ見ているのであります。幸せになったから神様を礼拝するのではありません。お願いしたことが適えられたから、礼拝しますと言う御利益的な信仰ではないのです。まず、自分のこの現状は神様のお導きであることを受け止めることである、とヨブ記は示しているのであります。ご利益信仰を否定しているのであります。

 新約聖書ルカによる福音書5章17節以下で、「中風の人をいやす」ことが記されています。ある日のこと、イエス様がある人の家の中でお話をしていました。そこへ中風を患っている人を人々が連れてきました。イエス様にいやしてもらうためです。ところが家の中には大勢の人がいたので、イエス様の前には進めなかったのであります。それで、彼らは屋根に上り、瓦をはがして、上から病気の人をイエス様の前に吊り下ろしたのです。イエスはこれらの行動に対して、またその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。病気をいやしてもらいたいために来たのですが、イエス様は罪の問題として関わっています。そこには律法学者やファリサイ派の人たちがいました。早速、イエス様を批判しています。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ、神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」というのであります。それに対してイエス様は、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われ、中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。中風の人は起き上がり、寝ていた台を取り上げ、神様を賛美しながら家に帰っていくのであります。
 主イエス・キリストは霊の人として人々に現れているのであります。従って、悪霊により病気になっている人々を霊の力によっていやすのであります。当時の社会は因果応報的に考える時代ですから、病気は先祖または両親、本人が罪を犯したので、悪霊によって病気になると考えられていたのであります。そうであれば、まず罪の問題に関わらなければならないのです。その人の罪が赦されるということは、悪霊を断ち切ることになります。悪霊から解放されて病気が癒されるのです。それに対して、神を冒涜していると批判しますので、具体的に癒しの言葉を与えたのであります。罪が赦されると言うこと、私達は主イエス・キリストの十字架によって赦されました。それは昔のことではなく、今も、これからも十字架を仰ぎ見ることにより、罪が赦されているのであります。そこに平安な歩みが導かれて来るのです。罪が赦されているという確信こそいやしの原点であります。
 イエス様にお願いして病気をいやしていただく時、そこに十字架の信仰が無ければなりません。十字架によって罪が赦された喜びが、癒しを導くのであります。ただ、病気をいやしてくださいと願うのではなく、十字架の赦しをまずいただくことです。そこには神の国に生きる喜び、永遠の神の国に導かれる喜びが一本の線で結ばれ、希望となって行くのであります。中風の人が、罪の赦しをいただいたとき、もはや癒されていたのであります。先祖、両親が、本人が罪人であるという縛りは無くなりました。そこに癒しがあるのです。
 この病気を癒してくださいとお祈りしても、神様は聞いてくれなかったと言い続けるのでしょうか。人間は永遠に死なないで生き続けるのではありません。病気が治ったとしても、いずれは死んでいくのであります。癒しを求めたならば、罪の赦しをいただき、永遠の神の国に生きる喜びを与えられることなのです。そこに力が与えられるのです。マタイによる福音書も、マルコによる福音書もこの癒しの出来事を見た人々は「神を賛美した」とルカと同じように記しています。しかし、ルカは「今日、驚くべきことを見た」と人々の言葉を記しています。今日、今、神様の救いを見たということであります。
 今朝の聖書、使徒言行録3章1節以下は、ペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な人を癒したことが記されています。午後3時の祈りの時、彼らも神殿にお祈りするために行きました。すると、「美しい門」のところで、生まれながら足の不自由な人が施しを求めており、通りかかったペトロとヨハネにお願いするのです。すると、ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものを上げよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いつつ、彼の右手を取って立ち上がらせたのであります。歩けないと思いこんでいる人は、右手を引かれるままに立ちあがりました。歩けるようになったのであります。「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とペトロが言う時、「イエス・キリストの名による」とは十字架上で血を流し、人間の罪を滅ぼされ、贖われたイエス様の福音によって立ちなさいということなのです。赦しをしっかりと受け止めるということなのです。赦しを与えられることにより希望が与えられ、永遠の神の国に生きる平安が与えられ、癒しが与えられるのです。
 使徒言行録には、ユダヤ人の祈祷師達がパウロの働きをまね、悪霊に取りつかれている人を治そうとしました。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言っては真似ごとをしていました。すると、悪霊たちは、「イエスのことは知っている。パウロのことも知っている。だが、お前たちはいったい何者だ」と言い、悪霊が祈祷師達に飛びかかったことが記されています。いくらイエス様の名を示しても、その名には十字架の贖いの信仰が無ければ、何の力もないのです。

 わたし達は神様にお祈りをささげますが、お祈りの終わりに、「このお祈りを主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン」とお祈りします。「御名により」おささげする時、イエス様が十字架の贖いをくださったので、だからお祈りできるのであり、その御名により罪赦された者として神様を仰ぎ見ているのであります。御名を信じること、十字架の救いを信じているということであります。54年版讃美歌の168番は、イエス様の御名を称えている讃美歌です。一節は「イエス君の御名にまさる名はなし、みかみのみこころ世にあらわせせり。(おりかえし)わが君イエスよと喜び歌う、尊き御名こそたぐいもなけれ」、三節は「救いの十字架にかかげし御名を、よろずのくにたみ今なおあいす」と歌うのです。イエス様のお名前は十字架の救いであり、癒しの根源であるのです。
 牧師として病気の方をお見舞いし、お祈りをささげます。その場合、やはりイエス様によって癒しの御手が差し伸べられ、回復されることをお祈り致します。お祈りされた方は牧師が祈ってくれたということでお喜びになられます。その後、回復されますと、お祈りにより癒されましたと言われて感謝されるのです。しかし、そのお祈りは罪の赦しを願っているものであり、病気である時も、健やかになって生活する時も、いつもイエス様が導いてくださっている神の国に生きることのお願いなのです。そして、永遠の生命に至る神の国に導かれることなのです。それがイエス様の癒しなのであります。癒しとは、神の国に生きる妨げとなっている罪の癒しなのであります。病気が治っても、罪ある姿では神の国の一員になれないからであります。イエス様は真の癒しを与えておられるのであります。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様のお名前により、現実を神の国として歩ませてくださり感謝致します。この癒しの福音を人々に示させてください。主の御名によりささげます。アーメン。