説教「安らかな住まい」

2017年10月22日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第21主日」 

説教・「安らかな住まい」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書33章17-22節
    ヨハネの黙示録7章9-17節
     マタイによる福音書25章1-13節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版・224「勝利の主イエスの名と」
    (説教後) 516「主イエスを知りたる」


 私達は日々の生活が、やはり何不自由なく、安心して生活することが願いです。しかし、そうは言っても、現実はなかなか思い通りにはいかないのです。テレビのお昼の時間帯で「やすらぎの郷」とかの番組が放送されていました。いわゆる老人ホームですが、そこはかなり裕福な人々が生活しているようです。その郷の中に自分の家がありますが、センターにはみんなで歓談する場所があり、いつでも皆さんが集まっては過ごしている様子が展開されていました。しかし、親しく過ごしている人々が順次亡くなっていく現実もあり、「やすらぎの郷」ですが、やはり死と向き合う生活でもあるのです。そのような場所に居なくても、私たちは、特に高齢となると死と向き合う歩みでもあるのです。
 娘がスペイン・バルセロナで生活していますので、何回か滞在しました。2011年4月から約2ヶ月滞在したとき、娘が高級老人ホームに連れて行ってくれました。その老人ホームでピアノのリサイタルをするためです。そこに居住する有志の皆さんが招いてくださったのでした。老人ホームとは言わないで、マンションと称しているようです。広い中庭があり、中庭を囲むようにしてマンションの部屋があります。リサイタルは一階の広間で開かれました。皆さんはソファーに座って、ゆったりと座りリサイタルに臨んでおられました。リサイタルが終わり、私達を食事に招待してくれましたが、広い食堂で、レストランの様でもありました。入居している皆さんはいつでも自由に食事をするようです。何もかも整っているマンションの様でした。若いときに一生懸命働いてきて、隠退してから何不自由なく生活できること、一般的な願いでもあります。しかし、快適な生活をすることが「安らかな住まい」ということでもないと思います。一人の存在として、今歩んでいることの喜びを持ち、将来に向かっても平安な歩みであること、そこに「安らかな住まい」の意味があるのではないでしょうか。
 最近、一人の知り合いの方が天に召されました。前任の大塚平安教会時代、教会員でありましたので、共に信仰の歩みが導かれたのです。その方は心の病があり、関係する病院で入退院を繰り返していました。そして、その方の兄弟が、通常は老人ホームに入居させたのでした。しかし、わがままではありませんが、どうしても老人ホームには馴染めなかったようです。それで私達が関わっています「神の庭・サンフォーレ」というキリスト者の高齢者ホームに入居を願うようになったのです。しかし、入居するにはかなりの費用が必要なのですが、市役所の方で考えてくれました。その「神の庭・サンフォーレ」の中にあるグループホームに入居するということでした。グループホームですから、費用があまり掛かりません。しかもグループホームの生活費は市役所の方で賄ってくれることになったのです。こうして念願のキリスト教高齢者ホームに入ることができました。ホームでは隔週ですがキリスト教の礼拝があり、讃美歌を歌う集いもあり、本人は喜びつつホームの生活をされていたのでした。まさに彼にとって「安らかな住まい」が与えられたと示されています。そして召されて行ったのですから、生前も天国への希望を持ちつつ歩まれていたと思うのであります。「安らかな住まい」とは神様の御心で満たされている住まいであるということです。この世に生きながらもそのような「安らかな住まい」の歩みでありたいと示されています。

 「安らかな住まい」を示しているのは、旧約聖書イザヤ書33章です。イザヤ書は32章と33章に「正しい王様」について記しています。この世の王は人間であり、自らの思い、自らの腹で人々を支配するのですが、「正しい王様」は神様ご自身であり、あるいは神様がお選びになる存在なのです。この「正しい王様」が人々を導き、もはや苦難もない、悲しみもない、人々の嘲りもない状況へと導いて下さると示しています。今朝の聖書では、人間にはそのような「正しい王様」は存在せず、「主は我らの王」と神様のお導きに委ねているのです。今朝の聖書33章17節、「あなたの目は麗しく装った王を仰ぎ、遠く隔たった地を見る」と記していますが、昔の苦しかった状況を見つめながら、今は救い主の神様に導かれている喜びを記しているのです。「あなたの心はかっての恐怖を思って言う。あのとき、数を調べた者はどこにいるのか。量った者はどこにいるのか。やぐらを数えた者はどこにいるのか」と過去の苦しい状況を見つめているのです。これはバビロンが都エルサレムを攻撃し、占領された時のことを述べているのでしょう。すべてのものが失われました。
 苦しい過去の歩みでありましたが、今こそ喜びの時なのです。「シオンを仰ぎ見よ、我らの祝祭の都を。あなたの目はエルサレムを見る。それは安らかな住まい、移されることのない天幕」と見ているのです。敵なる存在の侵入によって荒廃した都エルサレムは悲しみの場所に変わりました。しかし、その都は「安らかな住まい」へと変えられているのです。聖書には「安らかな住まい」について、至るところに示されていると述べました。何よりも創世記に記される「エデンの園」こそ「安らかな住まい」なのです。しかし、人間の自己満足の原罪により、楽園から追放されてしまいます。人間は人間の手で「安らかな住まい」を建設します。それが「バベルの塔」でした。しかし、人間の傲慢の目的である「塔のある町」は神様によって破壊されるのです。その後、神様は「安らかな住まい」へと導きます。「乳と蜜の流れる土地」でした。しかし、そこも「安らかな土地」にはならなかったのであります。
 「安らかな住まい」、「安らかな土地」は、人々が神様の御心をいただいて生きる場であるということです。先ほども「神の庭・サンフォーレ」のお話をしました。キリスト教の高齢者ホームを造ることになったのは20年前です。キリスト者の高齢者が一般の老人ホームに入って、仏教の人や諸宗教の人がいるので、信仰の歩みが困難であるとも聞いています。そこで、ぜひキリスト者の高齢者ホームを立ち上げたのでした。その辺りは割愛しますが、今でもこの取り組みが続けられています。基となる聖書は詩編92編13節から16節の言葉です。「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない」と歌っています。信仰に生きる者の場が、「安らかな住まい」であることを示しているのです。


 新約聖書において主イエス・キリストは「安らかな住まい」に導くために、繰り返し教えておられますが、今朝の聖書は、その備えとしての示しです。マタイによる福音書25章1節から13節は「十人のおとめのたとえ」として記されています。「そこで、天の国は次のようにたとえられる」としてお話されました。「天の国」に生きる導きです。十人のおとめが花婿を迎えるために入口で待つという設定です。結婚式の状況ですが、まず花婿さんが花嫁さんの家に来て、お祝いの宴会が開かれます。その後、花婿さんは花嫁さんを連れて自分の家に行き、そこでまた宴会を開くのです。今、花嫁さんの家に来る花婿さんを十人のおとめが、お出迎えのために待っているのです。ところが花婿さんはなかなか来ません。ともし火をもってお出迎えするのですから、夜の宴会なのでしょう。十人の中で五人のおとめは予備の油を持っていました。ところが他の五人は予備の油を用意してはいませんでした。結局、花婿さんが到着するのは真夜中でした。それで到着されたという知らせを聞き、お出迎えをしようとしたとき、ともし火の油は少なくなっていました。このままでは消えてしまいのすので、予備の油を注ぎ足さなければなりません。予備の油を持たない五人のおとめは、持っているおとめに油を分けてくれるよう頼みます。しかし、分けてあげれば、お互いのともし火が長くもたないことになりますので、断らなければなりません。それで予備の油を持たない五人は油を買い求めに行くのです。その間に花婿さんが到着しました。そして、入口の扉は閉められてしまいます。五人のおとめが油を買い求めて戻ると門は閉じられていました。「ご主人様、開けてください」と叫んでも、主人は「わたしはお前たちを知らない」と言って戸を開けませんでした。何か、かわいそうなお話ですが、このお話の最後で言われているのは、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」ということです。花婿が来るということ、これはイエス様の終末の出現と言うことになります。イエス様が再びお出でになるということですが、人間のそれぞれの終末をも意味しています。人間はいつ死ぬのか分かりません。その時のために備えをすると言うことです。備えとは、神様の御心に生きることです。
 そこで、ここで示されている「予備の油」とは何を意味しているのでしょうか。予備の油を持つことにより、ともし火をいつまでも灯していることができます。そうであれば、「油」は信仰と言うことになるでしょう。すると信仰を予備として持つのでしょうか。信仰をもって歩んでいますが、予備の信仰もあるという考え方は理解できないのです。ここで、ルカによる福音書16章に記されている「不正な管理人のたとえ」が思い当たります。イエス様がお話されたたとえ話です。ある金持ちに一人の管理人がいました。この管理人が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者がありました。そこで主人はこの管理人に会計報告を求めるのです。すると管理人は出入りの業者を呼び、この主人から借りている証文を書き変えてあげるのです。油百バトスの人には五十バトスに、小麦百コロスの人には八十コロスに証文を書き変えてあげます。それにより、この管理人は主人から解雇されても、証文を書き換えてあげた人たちが自分をなんとかしてくれると思ったからでした。ところが主人は、この管理人の抜け目のないやり方を褒めたのでした。この主人は証文が書きかえられたので、本当は怒るのではないでしょうか。怒らない理由があるのです。主人は財産を管理人に任せています。そして自分が受け取るべき利益を得ています。証文を書き変えても、受けるべき利益は得ています。主人は損をしていないのです。出入りの業者も証文を書き変えてもらったのですから損をしていません。誰かが損をしていることになるのです。そうです、この管理人が損をしているのです。自分が受けるべき収入がなくなるのです。自分を捨てて他の存在に喜んでもらったということです。従って、この管理人の「無駄使い」は信仰に生きる姿なのです。この「無駄使い」と「予備の油」は同じことを示しているのです。予備の油を持たないおとめ達は自分のことしか考えていないのです。予備の油を持つということは、他の存在に心を向けることなのです。そこで、この「不正な管理人」のお話をしたイエス様は、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と教えています。信仰に生きることは他の存在を見つめて生きることなのです。それが「無駄遣い」であり、「予備の油」なのです。

十人のおとめの中、五人のおとめは「予備の油」を持っていたので、花婿を迎え入れ、共に喜びの宴会に臨むことができました。それは「安らかな住まい」へと導かれたということです。「安らかな住まい」に導かれるためには、「無駄使い」をすること、「予備の油」を持つことです。
今年も賛育会のチャリティーコンサートが開催されるとのことで、お誘いをいただいています。しかし、今年は連れ合いのスミさんの歩行が困難なので、行かないことにしました。会場の錦糸町にある「すみだトリフォニーホール」までは電車に乗ったり、乗り換えたり大変であるからです。数年前にも開催され、ご招待のチケットをいただきましたので、そのときは夫婦二人で行ってまいりました。チャリティーコンサートは東日本大震災復興支援のためでありました。そのために有名な声楽家であるオクサーナ・ステパニュックさん、又吉秀樹さん、そしてパイプオルガン奏者の水野均さんの演奏が行われたのです。これらの演奏者を協賛者が招き、謝礼は協賛者が負担したと言われます。東日本大震災復興支援としてでありますが、収益金は日本キリスト教海外医療協力会が行っている被災地での訪問ケアや心のケア活動に役立てていただくという趣意であるということです。主催者にしても協賛者にしても準備するのは大変であると思います。自分達の収益ではなく、他の存在のために汗を流して準備するのです。聖書に示される「無駄使い」であり「予備の油」であると示されています。2000円も払って入場する人々にしても、「無駄使い」であり「予備の油」を持つことになるのです。他の存在を見つめて、そのために活動するということです。この取り組みも「無駄遣い」であり、「予備の油」であると示されています。
大塚平安教会時代からスリランカ人の家族の支援をしています。難民として日本に生活していますが、ビザを持たないので、強制送還されるのですが、私が保証人となりましたので仮放免滞在が許可されています。難民申請は却下され、裁判にも訴えましたが、いずれも難民としては認められませんでした。しかし、この家族は日本に滞在したいのです。二人のお子さんも高校生、中学生になっており、日本において成長したのでした。彼らを支援する会を立ち上げています。そのため大塚平安教会の教会員がいろいろと支援しています。この取り組みも「無駄使い」であり、「予備の油」を持つということなのです。「安らかな住まい」へと導かれているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。「予備の油」の人生に導いてくださり感謝致します。さらに「予備の油」を増し加えさせてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。