説教「愛に生きる」

2016年11月27日、六浦谷間の集会
「降誕前第4主日アドヴェント

説教・「愛に生きる」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書2章1-5節
    ローマの信徒への手紙13章8-14節
     マタイによる福音書24章36-44節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・94「久しく待ちにし」
    (説教後)讃美歌54年版・521「イエスよ」


 本日は待降節第一週であり、一本のローソクに火が点きました。来週は二本のローソクに火が灯され、四本のローソクが灯されるとクリスマスになるのであります。これは暗黒の社会に主イエス・キリストの光が次第に近づいてくることを示しているのであります。まさにクリスマスは光の到来ということになります。
 今の社会を示されるとき、大げさな言い方かもしれませんが、暗黒の社会というべきではないでしょうか。シリアにおける戦争、ISと言われる人々の暴挙、中国の勝手な領土拡張、北朝鮮の核開発、いろいろな国々の争いが続いています。このような時に、激しい主張をする人に心が傾くことでもあるのです。フィリピンの大統領にしても、アメリカの大統領になる人も、過激な発言を繰り返しています。人々はむしろそのような発言に頼ってしまうことになるのです。国と国とがいつも掛け合っている状況でもあります。自分達を中心に歩む人々になっています。愛のない社会に変わりつつあるのです。このような状況にある時、私たちはイエス様の光が到来する降誕節を迎えています。いよいよイエス・キリストの光の到来、そして愛の到来をいただきつつ歩みたいのであります。
 主イエス・キリストが現れた2000年前の昔はローマ帝国が世界を支配していました。聖書の人々は歴史を通して苦しい状況を生きてきました。一つの状況はエジプトにおける奴隷の時代でありました。その苦しい時代は400年に及んだのであります。その苦しみを神様はモーセという指導者により救い出したのであります。それは大体紀元前1280年頃であります。それから約700年後、紀元前587年頃から50年間、バビロンに捕われての歩み、捕囚があります。国が滅ぼされてバビロンに捕われの身になるのです。このような苦しい時代を歩むうちに、救い主待望が生まれてまいります。いろいろな要素がありますが、一つは昔の時代、名君と言われたダビデ王のような王様が再び現れ、苦しむ人々を救ってくれるという希望でした。救い主待望、メシア待望は歴史を通じて人々の中に浸透していたのであります。
 メシアとは「油注がれた者」という意味です。古い時代において、指導者となる人、王様もそうですが、油を注いでその任に付かせます。油注がれた指導者は人々を平和に導くのであります。平和に導くということは、人々に愛を持って導くということなのです。愛がなければ平和への道はありません。愛があるからこそ、人々の喜びとなるのであります。その意味で「油注がれた者」は「救い主」と呼ばれるようになりました。メシアは救い主との意味になるのであります。メシアはヘブル語でありますが、これをラテン語で言えばメサイアであり、ギリシャ語で言うとキリストになるのであります。従って、イエス・キリストは名前と苗字ではなく、「救い主イエス」ということになるのであります。救い主イエス様が生まれたクリスマスを迎えようとしています。暗黒の時代に主イエス・キリストがお産まれになりました。光が到来したのであります。その意味付けがローソクの光が次第に増えていくということなのです。今は弱い光でありますが、主イエス・キリストの到来によって、全世界に明るい光が差し込んでくるのであります。イエス様の愛が広がっていくのであります。
 誠に今の世の中、世界にしても、日本の社会にしても暗い悲しい出来事があまりにも多くあります。このくらい社会にこそ主イエス・キリストがお出でになられ、光を与え、愛の社会へと導いてくださることに希望を持ちたいのであります。

 預言者イザヤが生きた時代も社会的に不安定な状況でありました。大国アッシリアの前におびえ、混乱の社会でもありました。そのような状況の中でイザヤは神様から示された幻を言葉として現し、人々に告げるのであります。それは神様の言葉こそ人々を支えるものであるということであります。愛のある人間関係が導かれるということです。「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」と示すのであります。
 イザヤは堕落した都の支配階級に対して、厳しく警告を与えます。大国アッシリアの前に、人々は何をすることもできず、ただ混乱に陥るばかりでした。イザヤはそのような状況の中で、神様の御言葉に従うこと、御言葉を信頼することを説き続けたのでありました。人間的な力に依存するのではなく、神様の救いの約束を基とし、希望を持って生きることを示すのであります。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々のかしらとして堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」と示します。神様の都とされるエルサレムはどの町よりも高くそびえるようになるということです。そして、「多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』」と言うのです。つまり、全世界の人々が神様の御言葉を求めて、そびえ立つ神の都にやってくるということです。都は神様の愛で満ちあふれているのです。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」のであります。愛のある人々は、戦争を起こさないし、隣の国の人々をも愛しつつ生きるようになるのです。戦いの道具は生活の道具、農作業の道具に変えられるのであります。
 イザヤは救い主の到来を示していますが、それはまさに終末の救いであるのです。イザヤ書11章1節以下には「平和の王」の到来について記しています。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育つ」としています。これは、昔現れたダビデ王を示しているのであります。ダビデは神様のお心を持って人々を支配し、平和の社会、愛のある社会を築いたのでありました。希望は、そのダビデのような王様、あるいはダビデの子孫が現れて人々を導くことであります。「若枝が育つ」と、その上に主の霊がとどまると示しています。「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」が若枝に注がれ、すなわちメシアは人々を平和に導くのであります。「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」のであります。そして、「平和の王」の締めくくりとして、「その日が来れば、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光にかがやく」と示し、この「平和の王」を心から待望するように示しているのであります。愛のある社会が実現するのです。
 まさに「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」日の到来を心から待ち望みたいのであります。イザヤは、「平和の王」に希望を持つように人々を導いています。

私たちも、この現代社会にあって、地球上の真の平和、愛の有る社会を待望したいのであります。真の平和は私たちにとって主イエス・キリストの出現であります。それでは、主イエス・キリストが2000年前に現れたとき、すぐに平和が実現されたのでしょうか。実現されませんでした。確かに、人々はイエス様の教え、救いの業を喜び、率先してイエス様に従うようになったのです。しかし、歓呼して迎えたイエス様に対し、「十字架につけよ」と叫ぶのであります。人々にとって、主イエス・キリスト神の国の示しは何であったのか。結局、一時的に自己を満足することの何ものでもありませんでした。主イエス・キリストの救いに与るということは、イエス様の十字架によって、真に赦されることなのであります。平和とは十字架の救いによる赦しが与えられることなのであります。十字架の赦しをいただいて、愛のある人々が存在する様になるのです。
 時の社会に神様の御心を示した主イエス・キリストでした。人々は歓迎し、耳を傾けますが、指導者達は聞く耳を持ちませんでした。むしろ、主イエス・キリストを妬むようになるのです。あの者がいては自分達の立場はないと思うようになるのです。そして、ついに捕らえ、十字架によって殺してしまうのでありました。しかし、神様はこの救われない人間を深く受け止められていました。人間の業では決して平和の実現をもたらすことはできないことをご存知であります。人間の妬みにより主イエス・キリストが十字架により血を流して殺されますが、この十字架を救いの基とされたのであります。
既にイエス様はこの社会に現れ、愛のある人々へと導きました。しかし、人間は原罪を持つ存在であり、いつの間にか自己満足に走っていくのであります。今は、まさに自己満足の世界であり、人々であるのです。そこで聖書は主イエス・キリストの再来を示しています。イエス様は昔の人ではないこと、再びお出でになられるということです。今朝のマタイによる福音書24章26節以下の示しをいただかなければなりません。終末を示し、再び主イエス・キリストの到来を教えるのであります。主の到来の前に、人間は十字架の救いと赦しをいただき、愛のある歩みをしなければならないのであります。しかし、イエス様が再び到来する日は、いつになるのか分りません。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と示しています。さらにこのように言われています。「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしない」と言われ、「だから、あなたがたも用意しなさい」と教えられています。「用意する」というのは、既にイエス・キリストの救いの十字架を通して示されています。十字架によって救われた私たちは、愛のある歩みをするということなのです。愛をもって歩む事が「用意する」ことなのです。

 秋が深まるとともに、紅葉を喜びつつ歩んでいます。「愛に生きる」ことを示されています。この時一つの物語を再び示されておきましょう。それは「黄色いハンカチ」のお話しです。神様の赦しから始まる平和の根源、「愛に生きる」示しでもあります。同じようなお話しが日本にもヨーロッパにもありますが、これはアメリカにあるお話しであります。
 1967年春の終末の日でありました。あるバスターミナルから、長距離バスが出発しました。中には、休暇を故郷で過ごすために数人の学生が乗り込んでいました。学生達は車窓を見ながら楽しそうに語らっています。このバスには一人の初老の男性が乗っていました。疲れきったその顔は、物思いに沈んでいるようでした。学生達は楽しく語らいながらも、何となくその初老の男性が気になっていました。やがてバスは休憩で停車しました。30分間の休憩です。乗客は昼食をとるために皆降りましたが、初老の男性だけがバスの中に残っていました。やがてバスは走り出します。再びバスの中はにぎやかになります。そして、また休憩でバスはとまりました。今度は初老の男性も降り、店の片隅でコーヒーを飲んでいました。先刻から気になっていた学生達で、一人の女の子が声をかけました。「おじさん、サンドイッチをいかがですか」と言うと、男性は微笑しながら一つ受け取りました。それがきっかけで、その初老の男性は身の上話を始めました。この男性は過去5年間、刑務所に入っていたのです。刑務所に入ったとき、奥さんに手紙を書きました。「俺のような男を待つ必要はない。良い機会があったら再婚しなさい。ただ子ども達は愛してやって欲しい。今後、文通も必要ない」という手紙でした。バスの中は静まり返ってしまいました。一人の学生が、「それなのに、あなたは今、その奥さんのところへ帰ろうというのですか」と聞きました。初老の男性は言いました。「釈放と同時に、私は何年ぶりかで、もとの住所宛で妻に速達を出した。今でもそこに住んでいるか分からないままに。『もし迎えてくれるなら、村はずれの樫の大木にハンカチを結び付けておいておくれ』と。もしハンカチがなければ、私はこのまま乗り過ごしていくつもりです」というのでした。今やバスの乗客は一人残らず、その運命の瞬間を、胸を押しつぶされる思いで待ちました。もう雑談する者はいなくなりました。やがて、初老の男が言いました。「次の村です。教会の塔が見え始めたら、右側にやがて樫の木があるはずです」というのです。乗客は皆右側の座席に移り、じっと前方を見ていました。やがて遠くに教会の尖塔が見えました。「ああ、私は見ることはできない」と初老の男性はうめくように言うのでした。初老の男性は目を閉じて、祈っているようでした。そして乗客ははっきりと見ました。夕焼けに映える空を背景にそそり立つ樫の木を見たのです。その枝という枝に、何十枚、いや何百枚もの黄色いハンカチが、まるで黄金の花を満開に咲かせたように、結び付けられていたのでした。春の夕風にゆれ、輝いている黄色いハンカチの木を見たのでした。バスの中には歓声とすすり泣きの声がわきあがりました。運転手は高らかにクラクションを吹き鳴らし、その木の前にバスを臨時停車させました。学生達がギターの伴奏で歌う「ゴーイングホーム」の歌声の中を、初老の男性は涙でくしゃくしゃになった顔を振り向けながら、「皆さん、ありがとう」と繰り返しながらバスを降りていったのでありました。(教団教育委員会編「キリスト教例話集」より)。
 刑務所を出た男性も、帰りを迎える奥さんも、そしてバスの中にいる人々全員も、「愛に生きる」存在でした。自分のことではなく、他の存在を大切にしてあげること、それが「愛に生きる」ことなのです。いつも他者を見つめるとき、「愛に生きる」姿勢が導かれて来るのです。この右の手が、両足が、「愛に生きる」歩みをしているのです。今朝のローマの信徒への手紙13章8節以下により励まされています。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。救いは近づいた。闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と示しています。
<祈祷>
聖なる御神様。主のご降誕を待望する日が始まりました。十字架の救いをいただき、いよいよ「愛に生きる」者へと導いてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。