説教「良いものをくださる神様」

2023年5月28日、大塚平安教会

聖霊降臨節第1主日ペンテコステ礼拝

                      

説教・「良いものをくださる神様」鈴木伸治牧師

聖書・創世記11章1-9節

   使徒言行録2章1-8節

   ルカによる福音書11章1-13節

賛美・(説教前)讃美歌21・343「聖霊よ、降りて」

   (説教後)讃美歌21・497「この世のつとめ」

 今朝は聖霊降臨祭、ペンテコステであります。聖霊がイエス様のお弟子さん達に降り、聖霊の導きのままにお弟子さん達は力強く立ち上がったのです。復活されたイエス様は天に昇られ、現実には見えなくなってしまったので、しょんぼりしていたお弟子さんたちが聖霊をいただき元気になったのでした。今朝は、そのペンテコステの出来事を示されて、聖霊は私達にも良いものをくださっていると示されるのであります。

 キリスト教はクリスマス、イースターペンテコステの三つのお祭りを中心にしながら一年間を歩んでいます。クリスマスはイエス・キリストがお生まれになった日でありますのでお祝いいたします。そのお祝いはプレゼントや楽しいことがありますので喜びなのであります。そして、春になるとイースターがやってきます。イエス様の復活を喜ぶのです。このイースターも楽しい卵、イースターエッグの喜びがあります。ところがペンテコステは、何にももらえないのです。なんか工夫してもらえるようにしたら良いと思っているのです。礼拝では、お弟子さんが聖霊をいただいたように、私達も聖霊をいただきますとのメッセージがあります。しかし、目に見えるものではないので、物足らないと思っています。

 今朝は、ペンテコステは目には見えませんが、神様が良いものをくださっていることを示されています。イエス様が十字架への道を進まれたとき、お弟子さん達はイエス様から離れてしまったのです。そういう負い目を持っているお弟子さん達に、イエス様は復活してお弟子さんたちを励ましました。そしてイエス様は昇天され、もはや見えなくなりました。お弟子さん達はイエス様を裏切ってしまったという負い目を持ち、自分の存在に疑問を持たなければなりませんでした。そういう彼らが、イエス様が昇天されたあと、とにかくイエス様が言われたように、一つの場所に集まっていたのでした。その彼らに聖霊が与えられ、自信を失っていた彼らを立ち上がらせたのでした。これはお弟子さん達にとって、何よりも良いものなのです。良いものをくださった神様なのです。

 聖霊降臨祭は自分の力を誇るのではなく、神様の御導きで力強く歩むことなのです。まず、自分の力で歩む人々を聖書は示しています。そのことを旧約聖書創世記11章の「バベルの塔」の物語が示しています。

 今朝の聖書は、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」と記しています。もともと同じ言葉を話していたのに、世界のそれぞれの国はみな違う言葉を話している、その意味を示しているのが「バベルの塔」の物語なのです。東の方からやってきた人々は、平野に住み着いたと言われます。彼らは「レンガを作り、それを良く焼こう」と言い、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言うことで町づくりを始めるのです。彼らの目的は「有名になること」、「全地に散らされない」ことが目的です。「有名になる」ということは、神様を忘れていることであり、自分自身のためです。また、「全地に散らされることのないように」とは、一つの思いになることです。バベルの塔の町を造るということは、極めて人間的な思いであったわけです。この人間の自分本位の思いを、神様は打ち砕くのです。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉で話しているから、このようなことを始めたのだ。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と神様は言われました。こうしてバベルの塔のある町づくりは神様によって建設が中止になりました。そして、人間は全地に散らされたのでした。

 「バベル」とは「混乱」という意味があります。「バブル経済」と言われますが、バベルが語源になります。人間は自分と同じようになることを求めます。極めて自己満足的な思いに引き込むのです。これは歴史を通して示されています。今でも独裁者がいますが、自分の思いのままに国造りをしています。人々はその独裁者の思いに統一されて行くのであります。日本の戦争時代は国民こぞって戦争への道を歩んでいました。人間的な一つの思いは、自己満足なのです。日本が戦争により、アジアに侵略し、自分の国を広げて行ったことは、極めて人間的な思いであります。今はロシアがウクライナに侵攻していることで示されています。バベルの塔の物語は、「有名になること」、「一つになること」が目的でした。一つになることは、自分と同じにするということなのです。これほど恐ろしいものはないのです。人間の自己満足が、弱き存在、貧しき存在を置き去りにし、あるいは切り捨てていくのです。神様がバベルの塔の町を破壊したのは、その人間達の思いでした。他者の存在を顧みない姿を神様が戒めたのでした。

 人間的な思いで一つになるのではなく、神様の御心において一つになることを聖書は示しています。それは聖霊の導きであると示されています。

 使徒言行録に記されている聖霊降臨を示されておきましょう。聖霊がくだったことについては使徒言行録2章に記されています。お弟子さん達に聖霊が降った状況が示されています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されています。聖霊が降った証しです。聖霊は「激しい風のような」、「炎のような舌」と示されています。これはそのようにたとえているのでありまして、「~のような」としています。聖霊と称していますが、これは「命の息」なのです。創世記に万物が造られたとき、人間が造られます。そのとき、神様は粘土で人の形を造ります。しかし、まだ人間ではありません。その粘土に神様の息、命の息を吹き入れるのです。すると生きた存在になったと聖書は記しています。その「命の息」は原語で「ルアッハ」と言われます。ルアッハは息ですが、風とも訳され、霊とも訳されるのです。そのルアッハがお弟子さん達にくだったということです。神様の息、霊がお弟子さん達に与えられたのでした。それが「風のような」と例えているのです。そして、「炎のような」舌が弟子達の上に留まりました。舌、べろは味わう部分です。それと共に舌は言葉を作る部分であります。炎のような舌が留まるとは、力強い神さまのお言葉がお弟子さん達に与えられたことを示しているのです。それはまた、主イエス・キリストのお心であり、お導きなのであります。イエス様はこの聖霊を弁護者と言われ、真理の霊とも言われました。イエス様御自身が私たちの弁護者となり、真理の霊を与えてくださるのです。お弟子さん達は聖霊をいただき、もはや家の中に引きこもっていませんでした。お祭りでにぎわう人々の中に出て行きました。聖霊の導きであり、力が働いて新しい歩みが始まったのであります。

 そこで主イエス・キリストの教えを示されます。今朝のルカによる福音書11章5節以下は、イエス様が、私達に神様の御心を求めなさいと教えています。それをたとえ話で示しています。ひとつは「真夜中の友人」です。真夜中に客がきたので、友人にパンを貸してくださいとお願いします。もう真夜中なのですが、執拗に頼まれるので、頼まれた人は求めに応じたのでした、というお話しです。それからもう一つのたとえ話は、「門をたたき続けなさい」ということです。神様への切なる願いは、必ず聞き遂げられるということです。

 「求めなさい。そうすれば与えられる」とイエス様は今朝の聖書で示しています。一生懸命に祈れば与えられると示しているのです。この言葉は私たちに希望を与えるでしょう。だから一生懸命に祈るのです。しかし、一生懸命にお祈りしても、神様はかなえてくれないと思ってしまいます。私たちの一生懸命のお祈りは、何としても自分の思いなのです。「どうか、良いものを与えてください」とお祈りしながらも、自分の良いものは、温泉に入ってゆっくり楽しむことなのです。そういう現実がないので、神様は良いものをくださらないと思っているのです。私たちの一生懸命の祈りは、自分の願い通りになることです。しかし、イエス様が「求めなさい。そうすれば与えられる」と示されているのは、神様の御心なのです。

 神様は良いものをくださっています。今朝のルカによる福音書は、はっきりと「自分の子供には良いものを与える」と示しながら、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と示しています。「良いもの」とは聖霊なのです。「風のような、舌のような」聖霊、神様の御心こそ良いものであり、私たちにくださっているのです。

 神様は私たちに良いもの、聖霊をくださっています。と言われても、聖霊をくださっている自分をどのように理解したらよいのでしょうか。「良いもの」とは何でしょうか。「良いもの」ですから、喜びつつ自分のものにしたいのです。「良いもの」とは聖霊であると示されました。聖霊をいただくとは、自分の現実を受け止めると言ことなのです。神様が良いものをくださっているので、今の自分となっているのです。今の自分に聖霊をくださっているから、自分はこの現実をしっかりと受け止めて歩んでいるのです。神様が「良いものをくださっている」ので、聖霊をくださっているので、私の今の現実が、どのような状況でありましょうとも、この現実をしっかりと受け止めて、新しい一歩を踏み出すことができるのであります。新しい一歩は神様に豊かに祝福されるのであります。

<祈祷>

聖なる神様。聖霊をお与えくださり感謝いたします。聖霊に導かれて新しい一歩を歩ませてください。イエス様の御名により。アーメン。

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